3 東南アジアの諸文明

(1)インド文化の普及と東南アジア文化の形成

 現在の東南アジアの地域では、隣接する2つの文明、いうまでもなく中国文明とインド文明の影響を受け、古くから多くの民族により独自の文化・国家が形成されてきた。

 ヴェトナム北部では早くから中国文化の影響を受けて青銅・鉄器文化が形成されていた。前3世紀頃から前1世紀頃にかけて栄えたドンソン文化で1924年に発見された。一方インド文化は1世紀頃からインドシナ半島に伝わった。

 インドシナ半島で最初に栄えた国は、1、2世紀頃から7世紀にかけてメコン川下流域で栄えた扶南である。この国はクメール人かインドネシア系の人々がインド文化の影響のもとに建てた国で、支配者はインド系でサンスクリット語が公用語とされた。宗教はバラモン教と仏教を受け入れた。当時のインドシナではインド文化を受け入れて国家体制を整えることが周辺の人々を容易に服属させる原動力であり、支配者層はインド文化の受け入れによって支配の正当性と強化を図った。

 扶南はカンボジアを中心に、インドシナ東海岸・南部一帯、マライ半島の一部にまで領土を拡大し、1、2世紀頃から盛んとなる東南アジアとインド間の海上貿易の要衝を押さえ、中国の呉やインドのクシャン朝とも外交・通商関係をもった。また海上貿易により莫大な利益を得て、特に3世紀頃から6世紀頃にかけて大いに繁栄した。しかし、6世紀頃から真臘の圧迫を受けて衰退し、7世紀中頃滅亡した。

 カンボジアで扶南が栄えていた頃、ヴェトナム南部を中心に栄えた国がチャムパーである。チャムパーはチャム人(インドネシア系)が建てた国で2世紀末から15世紀後半まで1000年以上にわたって続いた。中国に史書には林邑、環王、占城の名ででてくる。

 林邑は192年に後漢の衰退に乗じて独立し、8世紀中頃まで栄えた。初め中国文化、5世頃にインド文化が流入し、その影響を強く受けた。隋の侵入を撃退したが、唐には朝貢した。林邑も扶南と競合しながら海上貿易で繁栄した。

 8世紀中頃になるとチャムパーの中心が南方に移動した。この国は中国では環王と呼ばれた。環王は9世紀中頃には衰えた。

 8世紀の後半チャムパーの中心が再び中部に戻った。以後のチャムパーは中国では占城と呼ばれる。しかし、10世紀以後ヴェトナムが南下してくる。特に11世紀以後は李朝の圧迫を受け、しかも11世紀から13世紀初めには真臘の侵入・支配を受け、13世紀前半にヴェトナムの陳朝の出現により衰退し、13世紀後半にはモンゴルの侵入を受け、15世紀には黎朝の南下により急速に衰退し、1471年に滅亡した。

 占城も海上中継貿易によって国力を維持し発展したが、中国では宋・元時代の技術の進歩(羅針盤の実用化、大船の建造など)によって、13世紀頃から中国人が海上に進出し、東南アジアやインドと直接取引をするようになり、チャムパーの経済的基盤が失われ、国力の衰退を招いた。

 扶南や林邑が繁栄していた頃、メコン川の中・下流域ではクメール人(カンボジア人)の真臘が興った。真臘も扶南やチャムパーと同じく「インド化された国」の1つであった。

 真臘は6世紀中頃に扶南から独立し、7世紀中頃には扶南を滅ぼして大勢力となった。8世紀初めから9世紀の初めに、北の陸真臘と南の水真臘に分裂したが、9世紀初めに再統一され、9世紀から13世紀にかけてのクメール朝(アンコール朝)の時代に全盛期を迎えた。

 12世紀前半に出たスールヤヴァルマン2世(位1113〜45)は王都アンコール・トムの南に壮大なアンコール・ワット(首都の寺の意味)を造営した。アンコール・ワットはヴィシュヌ神(ヒンドゥー教の神)に神格化された国王を祭り、死後はその墓所となった。完成には約30年間を要したと云われる。最初はヒンドゥー教寺院であったが後に仏教寺院となった。長らく密林の中に埋没していたが1861年に発見された。

 12世紀から13世紀の初めに在位したジャヤヴァルマン7世の時にクメール朝の領土は最大となった。王はまた現存する王都アンコール・トム(大きな都の意味)の造営を行った。クメール朝は内陸農業国家の典型で、水の確保・管理は真臘の王にとって最も重要な事業であった。9世紀から13世紀にわたって繁栄した真臘も13世紀以後はタイのスコータイ朝の侵入を受けて衰退し、15世紀には同じくタイのアユタヤ朝の侵入を受け、アンコールは占領され、アンコール時代は終わりを告げた。

 メナム川下流域では、7世紀にモン人の国家であるドヴァーラヴァティーが、扶南の弱体化に乗じて自立した。この国は扶南の商業活動の影響を強く受け、銀銭も使用した。また仏教も栄えたが、 8世紀初め頃以後は衰退した。かわってメナム川上流域に同じモン人 の国であるパリプンジャヤが興り、8世紀から13世紀頃まで続いた。この間の11世紀から12世紀にはクメール朝と対抗したが、13世紀末にはタイ人の活動が盛んとなるなかで滅ぼされた。

 同じ頃イラワディ川の中流・下流域ではビルマ・チベット系のピュー(驃)人の国家があり、8世紀頃プロームを中心に栄えた。この国では仏教が盛んであったが、9世紀になると衰え始め、11世紀にはパガン朝(1044〜1287)に併合された。

 ミャンマーの沿海地方に住んでいたモン人は、9世紀にペグーに都をおくモン人の国家を建てた。彼らは早くからインドと文化的関係を持ち、海上貿易に活躍した。またこの国では上座部(小乗)仏教が栄えた。

 シナ・チベット族のビルマ人は、7世紀頃から数世紀にわたって南下・定住していった。 ピュー人の衰退に乗じて、9世紀頃パガンに中心をおき、その後勢力を拡大し、11世紀にはミャンマーのほぼ全域を支配下におくビルマ最初の統一王朝であるパガン朝(1044〜1287)が成立する。

 諸島部では、シュリーヴィジャヤ(中国名、室利仏逝)が7世紀に興り、14世紀まで続いた。スマトラ島南部から興ったシュリーヴィジャヤは、6世紀から7世紀に扶南が衰退・滅亡していく好機をとらえ海上貿易に進出し、マラッカ海峡を押さえて発展していった。唐の僧、義浄は7世紀後半にこの国を訪れ、「南海寄帰内法伝」をこの国で書いた。

 シュリーヴィジャヤは、8世紀から9世紀中頃にかけてシャイレーンドラ朝の興隆に押されて弱体化した。

 シャイレーンドラ朝は8世紀半ばから9世紀前半にかけて、ジャワ島中部を中心に栄え、有名な仏教遺跡であるボロブドゥールを造営した。ボロブドゥールは1辺約120m四方の基壇に方形・円形の壇がピラミッド状に重なって出来た石造の大ストゥーパで、多くの石仏・仏塔・回廊の浮き彫りなどで名高い仏教遺跡である。

 一時弱体化したシュリーヴィジャヤは、10世紀には再び繁栄を取り戻し、全盛期を迎えた。その背景には、8〜9世紀に東南アジア経由のインドと中国を結ぶ海上貿易が急速に発展したことがある。この東南アジア経由のインドと中国を結ぶ海上貿易をほぼ独占したのが シュリーヴィジャヤであった。全盛期にはマライ半島の大部分、スマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島、セレベス島さらにフィリッピンを含む一大海上帝国となった。

しかし、シュリーヴィジャヤは13世紀にはいると、イスラム商人の進出などにより、海上貿易独占の利益を失い、海上帝国の支配組織が崩れ始め、14世紀にはジャワ島のマジャパヒト王国の台頭によって衰亡していった。




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