2 インドの古典文明



(6)ヒンドゥー国家と古典文化
      

 3世紀になるとクシャーナ朝は衰退し、北インドは分裂状態に陥った。4世紀前半、かってのマウリヤ朝の都であったパータリプトラのグプタ家(ビハール州の藩王の家)のチャンドラグプタ1世(位320〜335頃)がビハール州で台頭し、ガンジス川中流域を征服し、「諸王の大王」と称し、分裂状態にあった北インドを再統一し、グプタ朝(320頃〜550頃)を開き、パータリプトラを都とした。

 彼は即位した320年2月26日を紀元とする「グプタ紀元」を創設したが、この「グプタ紀元」は北インドで以後500年間にわたって使用された。

 チャンドラグプタ1世を継いだサムドラグプタは領土をパンジャーブ地方にまで拡大し、第3代の王チャンドラグプタ2世(位376頃〜414頃)は、さらに領土を拡大し、デカン高原を除くほぼ全域を支配下に置き、グプタ朝の最大領域・全盛期を現出した。

 チャンドラグプタ2世は「武勇の太陽」と名乗り、中国ではその漢訳である「超日王」の名で知られている。

 クシャーナ族をはじめ、インドにおける全ての外国人勢力を追い出したグプタ朝のもとでは「インド人のインド」という民族意識がもりあがり、グプタ朝はマウリヤ朝の復活を理想とした。チャンドラグプタ2世の時代にインド古典文化の復興の傾向が強まり、インド古典文化は黄金時代を迎え、サンスクリット文学も栄えた。サンスクリット語は梵語と訳されるが、古代インドで使われた文語であり、俗語に対する雅語である。

 インドのシェークスピアといわれるインドの文豪カーリダーサは戯曲「記念の指輪によってめぐりあったシャクンタラー」(たんに「シャクンタラー」とも)によって世界的に有名であるが、彼はチャンドラグプタ2世の宮廷に仕えている。

 またインドが世界に誇る二大叙事詩である「マハーバーラタ」・「ラーマーヤナ」(どちらもサンスクリット語で書かれている)が完成したのもグプタ朝の時代である。

 「マハーバーラタ」・「ラーマーヤナ」の原形は紀元前4世紀頃までにつくられたが、題材・背景となっているのは前10世紀頃のバーラタ族の戦争(マハーバーラタ)、コーサラ国の王子ラーマの数奇な運命(ラーマーヤナ)で、活躍するものはすべてクシャトリヤ(王侯・武士)で、統一前の小国の分立・抗争の時代におけるクシャトリヤの活躍、台頭が反映されている。

 「マハーバーラタ」・「ラーマーヤナ」で活躍するクリシュナ(マハーバーラタ)とラーマ(ラーマーヤナ)はともにヒンドゥー教の創造神ヴィシュヌの権化とされているところから、この二大叙事詩はヒンドゥー教の経典とされ、インドはもちろん、のちにヒンドゥー教が伝播する東南アジアの人々にも愛誦された。カンボジアのアンコール=ワットの回廊の浮き彫りに描かれ、インドネシアのバリ島の影絵の題材にも使われている。

 グプタ朝のもとでの「インド人のインド」という民族意識のもりあがり、インド古典文化が復興したことは宗教面でも大きな変化を生み出した。

 民衆の間でヒンドゥー教の信仰がひろまり、仏教信仰が急速に衰えたことである。

 ヒンドゥー教は古代インドの宗教でカースト制とも結びついたバラモン教を受け継ぎ、諸地方の民間信仰や、仏教の影響も加え、様々な神々や考え方を吸収し融合して成立した宗教であり、特定の開祖・教義・経典はなく、インド人の独特の思考様式・生活様式・社会習慣の総合であると説明される。まさに「インド人の宗教」で、われわれには理解しがたい宗教であると言うしかない。

 ヒンドゥー教は多神教で無数の神々が信仰されているが、そのなかで特に信仰を集めているのが二大神である護持神のヴィシュヌ、そして破壊神のシヴァである。シヴァは舞踏・性力の神でもあり民衆の間で人気がある。そして創造神のブラフマンも有力な神である。

 ヒンドゥー教には特定の教義はないが、霊魂は不滅であり、よい行為にはよい報いが、悪い行為には苦の報いがあるという因果応報の思想と人間は永遠に生まれ変わり死に変わるという輪廻転生の思想は多くの派に共通した教義である。そして、それから逃れるにはさまざまな修行を行い、神にすがって輪廻を断ち切ることによって解脱(さとり)の境地に入ることができると信じることも共通した考えである。

 「マヌの法典」はそれ以前の法典を集大成して、後200年頃までに成立した。12章2685詩句から成り、人々の宗教的義務や日常生活の規範が述べられているが、全編にわたって4つのヴァルナ(カースト)の差別とバラモンの特権的地位を強調している。そのためカースト制度と深く結びついたヒンドゥー教の経典としての役割をも果たした。このインド人の生活指導書とも言うべき「マヌの法典」はつい最近までインド人はもちろん東南アジアでも尊重された。

 グプタ朝の時代、ヒンドゥー教の台頭によって民間の仏教は急速に衰えた。

 ヒンドゥー教が人々の生活に密接に結びついていたのに対し、仏教の寺院は僧侶の修行の場であり、教義の研究の場であって、民衆との結びつきがほとんどなかったことが大きな原因である。このため民衆の間では仏教は衰えたが、仏教の教義の研究は依然として盛んであった。

 ナーランダ僧院は、5世紀にグプタ朝のクマラグプタ1世が僧院を建てて以来仏教教学の一大中心地として発展し、玄奘や義浄などの中国の僧をはじめアジア各地から僧侶が集まった。玄奘(「西遊記」の三蔵法師のモデルとなる)が6年間を過ごした7世紀前半には約1万人の僧侶がいて研究に励んでいたといわれている。

 仏教美術の面では、クシャーナ朝時代に栄えたギリシア的な仏教美術であるガンダーラ美術にかわって、純インド的な仏教美術であるグプタ様式(グプタ式美術)が完成し最盛期を迎えた。特にアジャンターやエローラの石窟寺院の仏像や仏画は有名である。

 有名なアジャンターの石窟寺院は、前3世紀頃から後8世紀頃にかけて、タプティー川の支流に臨む玄武岩丘陵の中腹を掘ってつくった29の石窟に僧院がつくられ、多くの仏像が刻まれ、壁に仏画が描かれた。6世紀から7世紀の壁画が多いが、その中にはグプタ様式の代表的な作品が多く含まれている。その画風は中央アジア・中国を経て日本に伝わった。法隆寺金堂の壁画の観音菩薩像はアジャンターの流れを汲むものとして有名である。

 4世紀前半以来、100年余にわたって繁栄したグプタ朝も、5世紀後半には支配下の諸勢力が独立するようになり、さらに中央アジアで強大となった遊牧騎馬民族であるエフタルの侵入を受け、次第にインド北西部の領土を失い、6世紀に入ると領土はビハールとベンガルの北部のみとなり、550年頃についに滅亡した。

 グプタ朝の滅亡後、北インドには小国が分立した。こうした状況の中でハルシャ=ヴァルダナ(位606〜647)の父と兄はガンジス川の上流域で勢力を伸ばし、西北からガンジス中流域に進出しようとしたが、兄はベンガルの王によって打ち破られた。ハルシャはその後を継いでガンジス流域を中心として北インドを統一し、カナウジ(カンヤクブジャ)を都として、古代インド最後の強力な統一王朝であるヴァルダナ朝(606〜647)を築いた。

 ハルシャ王は、初めはヒンドゥー教(シヴァ神)を信仰したが、のち熱心な仏教徒となり、国内に多くの仏塔・伽藍を建立し、仏教を保護した。彼は文人としても優れ、3編のサンスクリット語の劇を残こしている。学問・芸術を保護したので宮廷を中心に文芸が栄えた。

 唐の僧、玄奘がインドを訪れ、ナーランダ僧院で学んだのもこのハルシャ王の時である。玄奘の旅行記「大唐西域記」(これを元に後に小説化したのが「西遊記」)にハルシャ王は「戒日王」の名で登場する。

 しかし、ヴァルダナ朝はハルシャ=ヴァルダナ一代で終わる。王の死後、王国は急速に崩壊し、インドは再び分裂状態に陥り、やがて8世紀以後はイスラム勢力の侵入を受けることになる。




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