2 インドの古典文明


(4)古代統一国家の成立
(5)クシャーナ朝と仏教の革新

(4)古代統一国家の成立

 前7世頃のインドはいわゆる十六王国時代であるが、前6世紀にはいると、この中からガンジス川中流域、現在のビハール州を中心とするマガダ国と、同じくガンジス川中流域(マガダより上流域)のコーサラ国が強大な国家になっていった。

 マガダ地方は古代インドの政治・経済・文化の中心地であり、仏教の発生地でもある。 この両国の抗争は、前5世紀にマガダ国の勝利に終わり、コーサラ国は滅び、その領域はマガダ国に併合された。マガダ国では仏教・ジャイナ教が保護された。

 マガダ国では前4世紀後半に、シシュナガ朝に替わり、ナンダ朝がマガダ国王となり、ガンジス川流域を支配した。創建者であるマハーパドマは卑賤な身分の出身と伝えられ、「すべてのクシャトリヤを倒した」と言われた。

 その頃、中央アジアを征服したアレクサンドロス大王はカイバル峠を越えて、パンジャーブ地方へ攻め入った(前327)。彼はさらにインダス川を越えて東進しようとしたが、部下の反対にあい、インド征服をあきらめ西に引き上げていった。

 このアレクサンドロス大王のインド侵入は、インド人の間に統一の機運を生み出し、インドに統一国家を出現させることとなった。

 チャンドラグプタはカーストの卑賤な階級から身を起こし、ナンダ朝の武将となった人物であるが、アレクサンドロス軍の西北インド侵入の混乱に乗じて、ナンダ朝を滅ぼし、マウリヤ朝(前317頃〜前180頃)を樹立した。チャンドラグプタ(位前317頃〜前296頃)はガンジス川流域を征服し、西北インドに進出し、アレクサンドロスが残したギリシア勢力を駆逐し、セレウコス朝の進出を押さえてアフガニスタンを手に入れ、南にも勢力を拡大し、インド最初の統一国家であるマウリヤ朝を建設した。パータリプトラ(仏典にみえる華氏城)を都とし、強力な軍隊と官僚組織をもって、富国強兵策を推し進めた。

 彼の後は子のビンドゥサーラが継ぎ、国力はますます充実した。

 その統一事業を継承・完成させ、マウリヤ朝の全盛期を現出したのが第3代の王、有名なアショーカ(位前268頃〜前232頃)である。彼は東南方のカリンガを征服し、インドの南端を除く全インドを統一した。このカリンガ征服の際、10万人の死傷者、15万人の捕虜が出たが、その悲惨な状況を目にしたことから、悔恨の情に動かされ、仏教の慈悲の心にひかれ、以後仏教に帰依し、熱心な信奉者となり仏教を保護奨励した。

 彼は自分が理想とするダルマ(法と訳される、人間の普遍的な倫理を意味する)に基づく政治姿勢を詔勅として発布し、これを石柱碑、磨崖碑に刻ませ、各地に建立した。これらは現在までに数十ヶ所から発見されている。またサーンチーのストゥーパ(仏舎利を納めるための塔、日本の三重の塔などの起源とされる)などを建立した。

 また第3回目の仏典結集(釈迦の教説の編纂)を行い、仏教の布教のために王子のマヒンダをセイロン島に派遣した。セイロン島は後にインドで仏教が衰えるなかで、仏教の一大中心地となり、以後東南アジアに仏教が広まる拠点となった。

 マウリヤ朝は、アショーカの死後急速に衰退し、約50年後の前180年頃、最後の王は部下の将軍に殺され、マウリヤ朝は滅び、シュンガ朝(前180頃〜前80頃)が成立した。しかしこの王朝の勢力は西北インドには及ばず、西北インドにはバクトリア(中央アジア)のギリシア人やイラン系の遊牧民族のサカ族が侵入した。

(5)クシャーナ朝と仏教の革新

 前2世紀前半、中国の西・モンゴル高原の南で活躍した月氏(民族系統不明)は匈奴の攻撃を受けて西に追われイリ地方に移ったが、再び烏孫に追われてアム川上流のバクトリアに移り、大月氏国(前140頃〜後1世紀)を建てた。

 大月氏はバクトリアのイラン人を支配下に置き、その地に5翕侯(きゅうこう、諸侯の意味)を設けたが、その1つがクシャーナであった。

 このクシャーナ族に、前1世紀の後半にクジュラ=カドフィセス王が出て、他の4翕侯を併せてバクトリアの地を支配下に置き、その後南下してインダス川流域に進出し、パンジャーブ地方をも領有するようになった。

 クシャーナ朝(1〜3世紀)の第3代の王が有名なカニシカ王(位130頃〜170頃)である。彼はガンダーラ地方のプルシャプラ(現在のペシャワール)に都を置き、西は中央アジア・イラン方面、東はガンジス川中流域に至る北インドまで領域を拡大し、クシャーナ朝の全盛期を築いた。クシャーナ朝は東西通商路の要衝を支配したので、貿易の利益を独占して大いに栄えた。

 カニシカ王はあつく仏教を保護し、仏教徒からは第二のアショーカ王と呼ばれた。彼は仏教学者500人を選び、12年を費やして第4回仏典結集(釈迦の教説の編纂)を行った。このため仏教は西北インドで大いに栄えたが、この頃仏教に大きな変化があらわれた。大乗仏教の成立と仏像の製作である。

 大乗仏教は、保守化・形式化した従来の仏教(小乗仏教と呼ばれる)に対しておこった革新的な宗教で、広く万人の救済を約束する菩薩信仰が中心思想である。菩薩とは仏陀(悟りを開いた者)になりたいと誓願し、すべての人を平等に救済することを通じて自分も救済されようとして衆生救済のために種々の修行を積む者、いまだ仏陀とならない前の仏道修行者をいう。この菩薩の慈悲にすがって救済されようとするのが菩薩信仰である。

 大乗仏教は2〜3世紀頃のナーガールジュナ(竜樹)によって大成され、中国・朝鮮・日本に伝播したので北伝仏教とも呼ばれ、これに対して個人の救済を目的とする従来の仏教の一派である上座部仏教はビルマ・タイ・カンボジアなどの東南アジアに伝播したので南伝仏教とも呼ばれた。

 インドの仏教は釈迦の没後も、長い間その教祖の像を持たなかった。その仏像が最初に作られたのが、大乗仏教が栄えたクシャーナ朝の首都プルシャプラを中心とするガンダーラ地方においてであった。

 この地方はアレクサンドロス大王の東方移住政策によって多くのギリシア人が移住して以来ギリシア文化の遺産が残されていた地である。ギリシア人は人間の姿をした神々の像をはじめとして多くのすぐれた彫刻を残した。このギリシアの神々の像が仏教徒を刺激した。こうしてこの地の仏教徒が今まで禁止されていた仏陀の姿を像に刻み、礼拝の対象とするようになった。このため当然のことながら、ギリシアの神像を模範として作られた初期の仏像・菩薩像はカールした頭髪、深い目、高い鼻、ひげ、衣装などにギリシア的な仏像であった。これがガンダーラ美術である。

 ガンダーラ美術は5世紀頃まで続いたが、時代が下がるにつれてインド的要素が増していき、中央アジア・中国・朝鮮に影響を与えた。

 クシャーナ朝が栄えていた頃、デカン高原を中心に栄えていた国がサータヴァーハナ朝(アーンドラ朝、前1世紀〜後3世紀)である。中インドはマウリヤ朝が崩壊した後は小国が分立し、西北インドから侵入した外国勢力によって圧迫された時期もあった。

 サータヴァーハナ朝は外国勢力の一つであるサカ族の南下と戦いながら次第に強力となった。この王朝はインドの原住民ともいうべきドラヴィダ系の人々が建てた国で、1〜2世紀、特にガウタミープトラ=シャータカルニ(位80頃〜104頃)の時にデカン高原一帯を統一し最盛期を迎えた。

 この時期に全盛期のローマとの間に季節風を利用した貿易が盛んに行われ、インドからは象牙・真珠・香料・染料・宝石・木綿が西に運ばれ、ローマ帝国からはぶどう酒・ガラス・特に多量の金貨・銀貨が輸入され通貨として使用された。 この王朝では仏教が栄え、多くの遺跡が残っている。また仏教と並んでバラモン教も復興のきざしを見せており、次のグプタ朝ではヒンドゥー教となり民衆の間にひろまって行く。




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