1 イラン文明


(1)パルティアとササン朝
(2)イラン文明

(1)パルティアとササン朝

 インド=ヨーロッパ語族のイラン(ペルシア)人は、南ロシアからイラン高原に移動し、遊牧民や農耕民として住み着いた。イラン人の最初の国家はメディア(前8世紀末〜前550 )である。ついで大帝国であるアケメネス朝ペルシア(前550〜前330)を建国したが、この国はアレクサンドロス大王に滅ぼされた。アレクサンドロスの死後、イラン高原はギリシア系のセレウコス朝シリア(前312〜前63)の支配下に置かれた。セレウコス朝はアレクサンドロス大王の政策を受け継いで、イラン各地にもギリシア人の植民市を建設し、ギリシア人を移住・入植させた。

 しかし、セレウコス朝の支配力の低下とともに、各地の有力者が王朝を築いて独立した。最も早く離反したのはアム川上流域のバクトリアで、前3世紀の半ばにギリシア人総督が独立して王国を建てた。このギリシア人が中央アジアに建てたバクトリア王国(前255頃〜前139)は、インドのマウリヤ朝の衰退に乗じて、西北インドにまで進出して最盛期を迎えた。その後、西方のパルティアや北方のスキタイ系の遊牧民の圧迫を受けて弱体化し、前139 年にスキタイ系のトハラ人によって滅ぼされた。

 バクトリア王国の建設に刺激されてイラン系遊牧民のパルニの族長であったアルサケス(ティリダテス1世)(生没年不明)が弟とともにセレウコス朝に反乱を起こし、イラン北東部のホラサーンの地に逃れ、遊牧民・定住農耕民をまとめて前248 年頃建国した国がパルティア(前248〜後226)である。中国ではアルサケスの名の音訳から安息と呼ばれた。

 パルティアはセレウコス朝を圧迫して領土を広げ、前2世紀に在位したミトリダテス1世(アルサケス6世)(位前171頃〜前138頃)は西はユーフラテス川から東はインダス川に至る大帝国を築き、東西貿易路(シルク・ロード)の要所を押さえ、最盛期を迎えた。都は最初ヘカトンピュロスに置かれたが、メソポタミアに進出後はティグリス川流域のクテシフォンに定められた。ローマがセレウコス朝を滅ぼし(前63)さらに東方に進出してくるとメソポタミア地方を中心にローマ帝国と激しい攻防をくり返した。ローマとの200 年にわたる激しい攻防によってパルティアの国力は次第に衰え、3世紀に入るとササン朝の攻撃を受け、後226年首都クテシフォンを占領され、王国は30代で滅亡した。

 パルティアは文化的には初めはギリシア・ヘレニズム文化の影響を強く受けた。ミトリダテス1世の治世の前半に鋳造された貨幣には「ギリシア文化の愛好者」の銘がある。しかし後1世紀頃からはイランの伝統文化の復活の風が強くなった。

 パルティアは実に約500年間にわたって続いたが、その割には扱いがギリシア・ローマや中国に比べて実に簡単である。このことは授業をしていていつも思うことである。彼らが遊牧民で記録を残してないことも原因の1つであろうが、どう思われますか。

 ササン朝ペルシア(226〜651)の創始者であるアルデシール1世(位226〜241)は、アケメネス朝の都であったペルセポリス付近の貴族から次第に勢力を拡大しパルティア王と対立するようになった。226 年パルティア王を破り、首都クテシフォンを占領し、全ペルシアの王となった。彼はイランの民族的宗教であるゾロアスター教を国教とし(230)、彼らの力を統治に利用して国の統一をはかった。

 第2代皇帝シャープール1世(位241〜272)は有能な王であり、すぐれた武人であった。彼は「イラン人及び非イラン人の諸王の王」という称号を名乗り、中央集権国家の建設に努めた。東方のクシャーナ朝を破ってアフガニスタンに進出し、西方ではローマ帝国と連年にわたって抗争した。特にエデッサの戦い(260)ではローマ皇帝ヴァレリアヌスを捕虜とした。ヴァレリアヌスがシャープールに跪くレリーフが岩壁に刻まれた戦勝記念碑に残されている。

 第10代皇帝シャープール2世(位310〜379)も英主として知られ、ローマ帝国と抗争した。ササン朝は5世紀の後半、中央アジアのイラン系遊牧騎馬民族であるエフタル(中国名は白匈奴)の侵入を受けて東方の領土を失い、国家と社会は混乱に陥った。

 混乱に陥ったこの国を再興したのが、ササン朝最大の名君とされる第21代皇帝のホスロー1世(位531〜579)である。対外的にはビザンツ皇帝のユスティニアヌス1世とシリアをめぐって激しく抗争し、562 年にはアンティオキアを攻略して有利な講和を結んだ。さらに当時中央アジアで急速に台頭してきた突厥と同盟して、今まで苦しめられてきたエフタルを東西から挟撃し(566〜567)、これを滅ぼしてバクトリア地方を奪回した。国内では貴族を押さえて専制体制を強化し、地租制度の確立・灌漑・農業に力を注ぎ国を繁栄させ、ササン朝の黄金時代を築いた。

 しかし、その後内紛が続き、国力は次第に弱体化し、最後の皇帝ヤズディギルド3世(位632〜651)の治世の642年ニハーヴァンドの戦いでアラブに敗れ、ササン朝は事実上崩壊し、王は651年に中央アジアのメルヴで殺害され、ササン朝は名実ともに滅亡した。

(2)イラン文明

 パルティアは文化的には初めはギリシア・ヘレニズム文化の影響を強く受けた。しかし後1世紀頃からはイランの伝統文化の復活の風が強くなった。

 ササン朝は、イランの伝統文化の復興を図り、イラン民族文化を確立した。このことはイランの民族的宗教であるゾロアスター教を国教としたことによく現れている。ゾロアスター教の経典である「アヴェスター」の成立年代は不明であるが、現存の経典はササン朝の時代に編集された。

 しかし、その地理的な位置から周辺の宗教が流入し、国教であるゾロアスター教の他にユダヤ教・キリスト教・仏教なども信仰された。特にネストリウス派キリスト教は比較的自由な活動が許されて発展し、中国にも伝播し、唐代の中国では景教と呼ばれ一時栄えた。

 バビロニアに生まれたマニ(216頃〜276)は初めはゾロアスター教徒であったが、神の啓示を受け、30才頃、預言者であることを自覚し、ゾロアスター教をもとにしてキリスト教・仏教の諸要素を融合した新宗教であるマニ教を創始し、シャープール1世の即位に際して、公然と布教を始め、広い地域にわたって布教活動を行ったが、異端として迫害を受け、276年に磔の刑に処せられた。マニ教はササン朝では異端とされ弾圧されたが、後にローマ帝国・中央アジア・インド・中国にまで広まった。

 マニ教と同様に弾圧された宗教にマズダク教がある。マズダク教はゾロアスター教の一派で極端な禁欲と平等を主張したため異端とされ、開祖のマズダクはホスロー1世によって処刑された。

 ササン朝では美術・工芸が独自の発達を遂げた。ペルシア固有の技法にギリシア・インドの要素を加えた銀器、青銅器、ガラス器、陶器、毛織物、絹織物などのササン朝美術はシルク・ロードを通じて東方に伝えられた。

 ササン朝美術は南北朝・隋・唐の中国を経て、飛鳥・奈良時代の日本にまで伝来した。法隆寺の獅子狩文錦、正倉院御物の漆胡瓶、白瑠璃碗などはその代表例としてよく知られている。




目次へ戻る
次へ