5 キリスト教の成立と発展


(1)キリスト教の成立
(2)キリスト教の発展

(1)キリスト教の成立

 キリスト教の始祖はいうまでもなくイエスである。しかしイエスの生誕についてははっきり分かっていない。現在では研究の結果、前4年頃ということになっている。「新約聖書」の「福音書」(新約聖書の中のイエスの言行を記録した部分で、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4者によるイエスの伝記をいう)ではナザレ(パレスティナの北部)の大工ヨセフを父とし、母マリアとの子としてベツレヘム(イェルサレムの南)の馬小屋で生まれたとされている。マリアが聖霊によって懐妊したこと、処女懐胎はよく知られている。しかし幼少時代についてはほとんど分からないが、30才頃まで小村ナザレで成長し、そこで生活していたらしい。

 30才の頃ユダヤの預言者(人々の信仰に厳しい反省を求めた宗教活動家のこと)ヨハネによってヨルダン川で悔い改めの洗礼を受け、メシア(救世主)であることを自覚し、「神の国は近づいた。悔い改めて福音(よい知らせの意味で、イエスの教えのこと)を信ぜよ」と説き、ガリラヤ(ナザレのある地方)を中心に至る所で集まってくる群衆に教えを説いた。彼は神は罪を自覚し、救いを求める全ての人々を救ってくれるという神の絶対愛と敵をも愛せよという隣人愛を説き、ヘブライ人(ユダヤ人)のみが救われるとする選民思想と律法(ユダヤ教の戒律)の形式的な遵守を排し、律法学者やパリサイ人(宗教儀礼を極端に重視したユダヤ教徒の一派)と対立した。

 彼の説教と病気を直すなどの数々の奇跡によってイエスの名声は高まり、彼の教えはローマ帝国と富裕者の重圧に苦しむユダヤの民衆に受け入れられ、多くの人々が彼につき従うようになった。彼の説教のなかでも、「マタイによる福音書」第5章の「こころ貧しき人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」に始まる「山上の垂訓」は特に有名である。

 イエスはペテロ・ヤコブ・ヨハネなどの12人の弟子を選び(彼らは12使徒と呼ばれる)伝道を助けさせ、ガリラヤからイェルサレムに入ってその神殿の内外で説教をし、当時のユダヤ教の指導者たちを批判した。ユダヤ教の祭司・律法学者・パリサイ人らはイエスを捕らえ、審問にかけようとした。彼はそのことを悟り、12人の弟子とともに「最後の晩餐」をとり、この中に裏切り者がいること、その訴えにより自分は捕らえられるであろう事を弟子たちに告げた。(この瞬間の情景を描いたのが有名なレオナルド=ダ=ヴィンチの「最後の晩餐」である)そしてユダの手引きによって捕らえられ、ユダヤの評議会の審問で神への不敬罪とされ、ローマ帝国への反乱を企てるものとしてローマ帝国のユダヤ総督のポンティウス=ピラトゥスに訴えられ、後30年頃、イェルサレム郊外のゴルゴタの丘で十字架の刑に処せられた。ティベリウス帝(第2代ローマ皇帝)の時代のことであった。

 ところが処刑され、いったん墓に葬られたイエスが三日後に復活したという信仰が弟子たちの間に生まれた。そして彼こそ「メシア(救世主)」(そのギリシア語訳がキリスト)である、神のひとり子が全ての人々の罪をあがなうために十字架に架けられて死んだと信じられ、「主キリスト」を礼拝するキリスト教が成立した。

(2)キリスト教の発展

 キリスト教は以後、ペテロ・パウロなどの使徒たちによってシリア、小アジアなどパレスティナ以外の地に広められていった。特に「異邦人の使徒」とよばれるパウロは最初は熱烈なユダヤ教徒でキリスト教徒を弾圧していたが、ダマスカス城外で天からの光に打たれ、復活したイエスの声を聞いて回心し、以後熱心な伝道者となり、小アジアからギリシアに伝道し、61年頃には首都ローマに行き、ペテロとともにローマ伝道に力を尽くした。

 64年、「ローマの大火」があり、ローマは数日間燃え続け、当時人口100万人と言われたローマの市街の大半が消失した。有名な暴君ネロの治世の時である。このときネロが新しい、きれいなローマ市街を建設するために不潔な汚いローマ旧市街に放火させ、焼き払わせたという噂がたち、民衆が暴動を起こしそうになった。ネロはこの噂を消すために放火をキリスト教徒のせいにして、多くの信者を捕らえ、十字架の刑にしたり、火あぶりの刑にしたり、獣の皮をかぶせて猛犬にかみ殺させたりした。

 当時はキリスト教の信仰はもちろん許されていなかったので、信者たちはカタコンベと呼ばれる古代ローマ人の地下納骨墓に夜ひそかに集まって礼拝を行っていた。ローマには総延長560kmに及ぶカタコンベがあったといわれ、しかもローマ人は墓所を神聖視し、役人も立ち入らなかったので、キリスト教徒たちが集会・礼拝所として利用した。そのため一般のローマ人から誤解され、魔術を行うとか、幼児の血を吸うとか、人肉を食べるとか、さては近親相姦・獣姦を行っているとか、ひどい噂が立ち、ローマの良き伝統をけがす者であると憎まれたいた。ネロはこれを利用し、放火の罪をかぶせ、彼らを弾圧した。

 このネロの迫害のとき、難を逃れてローマ市街に出たペテロは霧のなかでキリストに会い、「クオ・ヴァディス・ドミネ」(主よ、いずこに、行きたもう)と尋ねると、「私はローマへ行き、十字架に掛かるのだ」と答えられたので、ペテロは恥じ、ローマへ戻り、逆さ吊りの十字架に掛かって殉教したと言う伝説が生まれた。これを題材としたのが、ポーランド人のシェンキェヴィッチの名作「クオ・ヴァディス」(1896刊)で1905年にノーベル文学賞を受賞している。(第1回ノーベル賞は1901年)

 キリスト教は当時のローマの多神教とあいいれず、またローマ皇帝を神として崇拝する皇帝崇拝を拒否したため、たびたび迫害を受けて多くの殉教者を出した。しかし、たび重なる迫害にもかかわらず、まずこの世の生活になんら希望を見だせない奴隷をはじめ下層民の間に普及し、次第に上流社会にも広がっていった。この間に各地に信者の団体である教会が生まれた。

 またマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネによるイエスの言行を記録した「福音書」、使徒の活躍を述べた「使徒行伝」、書簡集を集めた「新約聖書」がヘレニズム世界で広く使われたギリシア語、コイネーと呼ばれる、で2世紀中頃までに書かれた。しかし、現在の形の「新約聖書」が正式に公認されるのは397年のことである。

 歴代の皇帝の迫害にもかかわらず、キリスト教徒はますます増大し、4世紀初めの、ディオクレティアヌス帝による大迫害のあと、もはやキリスト教徒を敵としてはローマ帝国の統一は困難であるとさとり、キリスト教徒の団結を帝国の統一に利用しようとしたのが、コンスタンティヌス帝である。当時、西の副帝であったコンスタンティヌス帝は、6人と帝位を争っていたが、順次これらを破り、特にイタリア半島を支配していたマクセンティウスとの戦いの際、天に十字架と「汝これにて勝て」という文字を眺め、それを旗印に戦って勝利を得たので、翌313年にリキニウス帝とミラノで会見し、属州総督あての書簡の形でキリスト教の信仰を公認した。これが有名な「ミラノ勅令」である。

 コンスタンティヌス帝はキリスト教徒の団結を国家統一のために利用しょうとしたが、教会内に教義の対立があったので、教義の統一を計るため小アジアのニケーアに全教会の司教、長老など約300人を集め、いわゆる「ニケーアの公会議」を開いた。そして激しい論争の末、「父なる神と、子なるキリストおよび聖霊とは、三つでありながらしかも本質的には同一である」という三位一体説を唱えたアレクサンドリアの助祭のアタナシウス(295頃〜373)の説を正統とし、アレクサンドリア教会の長老のアリウス(250頃〜336)のキリストの神性を否定し、人性を重んじる、いわゆるアリウス派を異端とした。このためローマ帝国から追放されたアリウス派は以後ゲルマン人の間に広まって行く。

 キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝の甥に当たるユリアヌス(位361〜363)はギリシア文化に心酔し、ミトラ教などの密儀宗教にひかれ、即位後異教に改宗し、キリスト教を弾圧したため「背教者」と呼ばれた。

 その後379年に皇帝となったテオドシウス1世は、380年にアタナシウス派キリスト教を国教とし、392年には他の宗教を厳禁とした。

 その後もさまざまな教説があらわれ異端とされた。特に431年に開かれたエフェソスの公会議でコンスタンティノープルの総大司教であったネストリウス(?〜451頃)は、イエスと聖母マリアの神性説に反対し、イエスについては神・人両性説をマリアについては非聖母説を唱え、異端を宣告され、国外追放となった。彼の説はササン朝ペルシアを経て唐代の中国に伝わり、景教と呼ばれ栄えた様子は、長安の大秦寺内に建立された「大秦景教流行中国碑」に詳しく書かれている。

 この頃までに教会の組織化が進み、聖職者身分が成立するとともに、「教父」と呼ばれるキリスト教の正統教義の確立に努めた多くの学者が現れた。特にアウグスティヌス(354〜430 )は最大の教父・神学者であった。彼の母は熱心なキリスト教徒であったが、彼は放縦な生活に溺れ、肉欲に苦しみ、一時マニ教に帰依したが、後に母の祈りに心を動かされ、回心を決意し、回心してからは異教や異端との激しい論争を通して正統教義の確立に努めた。彼の著書「神の国」(神国論)はアラリックのローマ荒掠をキリスト教の責任と非難したのに対して擁護したものでキリスト教歴史哲学のもととなった。また「告白録」は三大告白録の1つとして有名である。




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