4 ローマ帝国


(4)古代の終末

 ディオクレティアヌス(位284〜305)はダルマティア(旧ユーゴスラヴィア西部)の貧農、解放奴隷の子として生まれ、一兵卒から皇帝の親衛隊長となり、皇帝ヌメリアヌスが暗殺された後、ニコメディア(小アジア西北部の都市)で軍隊に推されて帝位についた。彼は広大な帝国を統治するために元の同僚のマクシミアヌスを第2の正帝に任命し、さらに2人の副帝を任命し、帝国の「四分統治」を成立させ、自らは東の正帝としてトラキア・アジア・エジプトを直轄し、さらに全帝国をも治めた。

 再び統一と秩序を取り戻した帝国では皇帝は「ドミヌス」(奴隷の主人の意味)と呼ばれ、市民は臣民となり、臣民は皇帝の前に出たときはペルシア風の跪拝(ひざまずいて拝礼をすること)をしなければならなかった。彼はまたローマ皇帝を現神として崇拝する皇帝崇拝を強要した。このような専制君主政を「ドミナートゥス」と呼ぶ。彼は軍制の改革、行政改革、税制・幣制改革を進め、またインフレを押さえるために最高価格令を発布したが効果はあがらなかった。

 新しい政治体制をしいたディオクレティアヌスは一方で古いローマの伝統の復活を図り、宗教の面では伝統的な多神教を崇拝した。キリスト教に対しては即位以来20年間は寛大であったが、303〜305年にわたって突然全帝国内で最後の、しかも今までになかったほどの激しい大迫害を行った。キリスト教徒が皇帝崇拝を認めなかったことが最大の原因である。しかし、キリスト教を根絶することはできず、305年病気のため退位した。

 四分統治はディオクレティアヌスという中心人物を失って崩れはじめ、各地に実力者が現れ帝位を争った。四分統治時代の西の副帝であったコンスタンティウス1世の子であるコンスタンティヌス1世(大帝)(位306〜337)は、父の死後副帝に任じられ(306)帝位争いに加わった。当時帝位を争うものは6人に及んだが、彼は312年にマクセンティウスを、そして324年には最後の競争者のリキニウスを破って単独皇帝となり、ローマ帝国の再統一に成功した。312年にマクセンティウスとの戦いの時、天に十字架と「汝これにて勝て」との文字が浮かび、これを旗印に戦って勝利したと伝えられている。

 コンスタンティヌス1世は、翌年の313年、「ミラノ勅令」を発布してすべての宗教の信仰の自由を認め、禁教令を廃止し、ここにキリスト教は公認されることとなった。またリキニウスを破って単独皇帝となった頃からギリシア時代の都市ビザンティウムに新都の建設を始め、330年に治世25年を記念して遷都した。新しい都は「コンスタンティヌスの都市(ポリス)」と名づけられ、コンスタンティノープル(現イスタンブル)と呼ばれるようになる。遷都の理由は千年の伝統を持ち、異教的伝統の強いローマのキリスト教化に見切りをつけたこと、帝国にとってバルカン半島・小アジアの属州の重要性が強まっていたこと、東方のササン朝ペルシアの侵入に備えるためなどが考えられる。

 コンスタンティヌスはキリスト教を国家統一のために役立てようとしたが、当時のキリスト教会内には多くの教理の対立があり、まとまりを欠いていたので教義の統一を図るため、325年小アジアのニケーアに司教、長老など約300人を集め公会議を開催した。このニケーア公会議(宗教会議)では、キリストの神性を否定するアリウス派(アリウスはアレクサンドリア教会の長老)を異端とし、キリストを神の子とするアタナシウス(アレクサンドリアの助祭)の主張する“父なる神と、子なるキリストおよび聖霊とは、三つでありながらしかも同一である”とする「三位一体説」を正統教義として教義の統一を図った。

 内政ではドミナートゥスを確立し、官僚制度の整備、幣制改革を行い、また332年にコロヌスの土地緊縛令を出し、本来自由な小作人であったコロヌスと呼ばれる農民を耕作している土地から離れなくし、逃亡した場合は連れ戻す権利を地主に与えた。

 コンスタンティヌスの死後、三人の子が帝国を分けて統治したが、長男と三男が非業の死をとげ、次男が再び単独で統治した。彼は父の死の翌年に一族を皆殺しにしたが、このとき難を逃れたコンスタンティヌス大帝の甥であるユリアヌスが、追放された後、副帝となりガリア遠征で戦績をあげ軍隊によって正帝に推戴され、コンスタンティウスの急死によって即位した。彼は即位すると公然と異教に改宗し、キリスト教徒を弾圧したので「背教者」と呼ばれた。内政では善政を行ったが、ササン朝遠征中に没した。

 ユリアヌスの死後、ローマ帝国はますます衰退に向かい、東方から、北方から異民族が侵入をくり返した。ヴァレンヌ帝(位364〜378)らは帝国の防衛に努めたが、375年にはフン族の圧迫を受けた西ゴート族がドナウ川を越えてローマ領内に移動した。いわゆる“ゲルマン民族の大移動”の始まりである。ヴァレンヌ帝はアドリアノープルの戦いで戦死した。

 ヴァレンヌ帝の死後、共同統治者となったのが、テオドシウス1世(大帝)(位379〜395)である。彼はゴート族を破った後和解し、394年には帝国最後の統一に成功した。その間、380年にはアタナシウス派キリスト教を信奉することを命じ、キリスト教を国教とし、392年には他の全宗教を厳禁した。395年、彼は死に際して帝国を二人の子に分与したため、ローマ帝国は東西に分裂することとなり、西ローマ帝国は476年にゲルマン民族の大移動の混乱のなかで滅亡したが、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は以後1000年以上にわたって続き、1453年に滅亡する。

 ローマ帝国滅亡の直接的な原因はゲルマン民族の大移動であるが、ローマ帝国は内部から崩壊しつつあったといわれる。ゲルマン人の侵入を防ぐために辺境の防衛に当たっていた軍隊はゲルマン人や異民族の傭兵に頼るようになっていた。また長い国境線を守るために多くの軍隊を必要とし、これら軍隊や官僚を雇うために莫大な財源を必要とし、その財源を得るために、都市に重税をかけたことから都市の没落を招いたこと。その一方で都市から地方に移った有力者の大所領が国家から独立の傾向を示し、中央政府の支配力を弱め、地方分権化が進むなど社会は次第に封建社会に近づきつつあった。

 大所領経営にも大きな変化がおきていた。共和制の末期から帝政の初めにかけて盛んであったラティフンディア(奴隷制農業にたつ大所領)は、奴隷制による経営が非能率であること(奴隷は鞭が怖くて働く振りをするだけで、奴隷が自ら進んで本気で働くとは思えない)、「ローマの平和」によって奴隷の流入が減少し、奴隷の価格が上昇したこと、奴隷反乱の危険が絶えずあることなどの理由から奴隷の大量使役は困難になった。

 そこで奴隷所有者は奴隷の地位を向上させたり、没落した自由農民を労働力として使役するようになった。彼らはコロヌスと呼ばれ、土地とともに売買されたり、相続されるようになる。彼らは、コンスタンティヌス大帝が332年に出したコロヌスの土地緊縛令によって移動を禁止され、土地に縛りつけられた隷属的農民の性格を強めていった。このコロヌス制(コロナートゥス)は中世の農奴制の先駆であり、有力者の大所領の独立と合わせて古代から中世への変化を示すものである。

 都市の没落に伴い、商工業も振わなくなり、貨幣経済も次第に衰退して自然経済(物々交換)へと後退し、社会の頽廃、治安の悪化、人口の減少などはローマ帝国を衰退・滅亡へと向かわせた。




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