4 ローマ帝国


(3)ローマ帝国

 ローマに凱旋したオクタヴィアヌスに、元老院は「プリンケプス(第1の市民)」の称号を(前29)、ついで「アウグストゥス(尊厳なるもの)」の称号を前27年に送った。アウグストゥス(オクタヴィアヌスは以後アウグストゥスと呼ばれるようになる)は軍隊の命令権、護民官の職権、宣戦・講和の大権、コンスルの指名権などあらゆる権限を握ったが、養父カエサルの失敗に鑑み共和政の伝統を尊重し、属州は元老院と分けて統治するなど元老院との共同統治の形を取った。

 事実上は君主政・帝政だが共和政の伝統を尊重した彼の政治は「プリンキパトゥス」(元首政)と呼ばれるが、一般的にはこの時から「帝政ローマ(ローマ帝国)」が始まるとされ、彼は初代のローマ皇帝(位前27〜後14)とされる。彼は「内乱の1世紀(前133〜前27)」と呼ばれた混乱の時代を収拾し、社会秩序の確立・財政の整備に力をそそぎ、また当時人口100万人の巨大都市ローマの美化にも努めた。彼の治世にラテン文学は黄金時代を迎え、ヴェルギリウスを初めとする多くの文人が活躍した。

 対外的には、後9年にトイトブルグの戦いでゲルマンに大敗北を喫し、2万人のローマ軍が全滅し、以後ローマはゲルマニア経営を断念せざるを得なくなり、退いてライン・ドナウ川を北境とし、東方では強国パルティアと講和してユーフラテス川を国境とした。このため以後200年間にわたって、一応の平和が保たれることになったので、アウグストゥス時代から180年までの約200年間を「ローマの平和(パックス=ロマーナ)」と呼んでいる。

 アウグストゥスの死後、後継者として第2代目の皇帝となったのは皇后の連れ子であるティベリウス(位14〜37)であった。次いで彼の甥の子のカリグラ(位37〜41)が皇帝となったが即位後、病を患い狂人の暴君となり、臣下に暗殺された。第4代皇帝となったカリグラの叔父、クラウディウス(位41〜54)の時、ブリタニア遠征が行われ、ブリタニアは属州となった。

 そして第5代皇帝となったのが、クラウディウスの後妻の子であり「暴君」として名高いネロ(位54〜68)である。ネロは初期の5年間は哲学者の家庭教師であったセネカらの後見で善政をしいたが、セネカの引退後、暴虐の性格を現わし、母・妻を殺害した。また64年のローマの大火の罪をキリスト教徒にかぶせ大迫害を加えたことは有名である。しかし、ガリアの反乱をきっかけに反乱は各地の軍隊に広まり、近衛軍に見捨てられたネロはローマを脱出したが自殺した。

 ネロの死によってユリウス=クラウディウス家(カエサル、アウグストゥスの系統)は断絶し、68年から69年にかけて4人の皇帝が入り乱れた内乱となったが、このなかからヴェスパシアヌスが位についてフラヴィウス朝が始まり、ティツス、ドミティアヌスと続いたが、ドミティアヌスが暗殺されフラヴィウス朝が絶えると、穏和で名門出身の元老院議員のネルヴァ(位96〜98)が元老院に推されて66歳の高齢ながら皇帝に即位した。彼は元老院との協調を図り、救貧制度の確立などに成果をあげたが、嗣子がなかったために、トラヤヌスを養子にして、有能な人物を後継者に選ぶ先例を開き、いわゆる「五賢帝時代」(96〜180)の幕開けとなった。

 トラヤヌス(位98〜117 )はスペインに生まれ、軍人として活躍し、コンスルを経てネルヴァの養子となり、翌年に即位した。彼は寛容・質素な性格で内政でも実績をあげたが、特に対外政策ではアウグストゥス以来の守勢から積極策に転じ、ドナウ川を渡ってダキア(現在のルーマニア)を属州とした(106)。さらに東方に進み、パルティアの首都を占領し、ローマ帝国の領土は史上最大となった。

 トラヤヌスのあと即位したハドリアヌス(位117〜138)もスペインの出身でトラヤヌスの甥にあたり、トラヤヌスの死で皇帝に推された。彼は内政を重視し、対外政策は再び守勢に転じた。また彼は帝国全土を2度にわたって巡察し、ブリタニアにも渡り(122)、「ハドリアヌスの長城」を築いて北方への防備とした。

 ハドリアヌスの養子となり位を継いだアントニヌス=ピウス(位138〜161)は、即位に際して「ピウス(敬虔な者)」の称号を与えられたが、穏健で仁慈に富み、国内はよく治まった。彼もハドリアヌスの意向に従って、マルクス=アウレリウス=アントニヌスとヴェルスを養子に迎えた。このため帝政になって初めて二人の皇帝の共同統治となった。

 五賢帝の最後の皇帝であるマルクス=アウレリウス=アントニヌス(位161〜180)は、スペインの名門貴族の子としてローマに生まれた。11歳で早くもストア派の哲学者として知られ、ピウス帝の娘と結婚し、帝の死後ヴェルスと共同統治となり、彼の死後(169)単独皇帝となった。彼は「哲人皇帝」として有名であり、寛仁な性格で善政を施したが、当時は「パックス=ロマーナ」も最終段階で、パルティアやゲルマン人の侵入に悩まされ、20年に及ぶ治世中の大部分をバルカン北方・シリア・エジプトなどの辺境の陣営で過ごし、最後は出征地のウィンドボナ(現在のウィーン)の陣中で病没した。

 彼の著書「自省録」はストア派の哲学者であった彼の自己反省の記録である。また中国の「後漢書」に大秦国王(ローマ皇帝のこと)安敦の使者と称するものがヴェトナム中部に到着し、入貢したと記録されているが、安敦はマルクス=アウレリウスのことをさしていると見られている。

 マルクス=アウレリウスは慣習を破って不肖の子、コンモドゥス(位180〜192)を後継者とした。彼は“第2のネロ”と呼ばれた暴君で政治はお気にいりの側近に任せ、日夜遊楽にふけった。元老院を無視し、近衛軍の俸給を増額しその機嫌をとった。財政は乱れ、政治は乱れ、コンモドゥスは近衛長官らが雇った剣奴によって暗殺された。

 コンモドゥスの死後近衛軍はますます横暴となり、近衛軍や属州の軍隊に推挙された4人の皇帝が分立したが、アフリカ出身で上パンノニア(現在のオーストリア、ハンガリー、スロヴェニア、クロアティア)総督であったセプティミウス=セヴェルス(位193〜211)が対立皇帝を破って帝位についた。最初の軍人皇帝(軍隊に擁立された皇帝)であるセヴェルスは従来イタリア人が独占していた近衛軍団をすべての属州民に開放し、地方軍団の兵で新しい近衛軍を編成し、近衛長官の権限を強化した。対外遠征もたびたび行ったが、ブリタニアに出征中に病没した。

 セヴェルスの死後、弟と共同統治皇帝となったが、弟を殺して単独の皇帝となったのがカラカラ(位211〜217)である。彼は軍隊の支持を得るために給与を増額し、租税の増徴を図って帝国内の全自由民にローマ市民権を与えるアントニヌス法を発布した(212)。また彼が建設したカラカラ大浴場は有名だが、そこで淫楽に耽り、パルティア遠征の途中に近衛長官に殺された。

 235年に皇帝となったマクシミヌス(位235〜238)はトラキアの農民出身で、一兵卒から身をおこし、巨体と怪力で軍隊の人気を集めた人物である。しかし、彼は元老院の承認を得られず、イタリアに向かって進軍中に、部下に殺された。それ以後は帝国各地に駐留する軍隊が、その軍司令官を勝手に皇帝に擁立したので、235〜284年の約50年間に26人の皇帝が立った。しかもうち25人は治世の半ばで殺されたり戦死したりした。大多数の皇帝は軍隊がかつぎ上げた皇帝なので軍人皇帝と呼ばれ、235〜284年の約50年間を軍人皇帝時代と呼ぶ。広義には193〜284年を言う場合もある。

 この内乱のため辺境の防備は弱まり、これに乗じて北方のゲルマン人、東方のペルシア人が国境を越えて侵入してきた。ヴァレリアヌス(位253〜260)は東方から侵入してきたササン朝ペルシアのシャープール1世と戦ったが捕虜となり、消息を絶った。このような内外の混乱のなかにあってローマ帝国を立て直そうとする動きはあったが、軍人皇帝時代の混乱に終止符を打ち、帝国を新しい組織の上に再発足させたのはディオクレティアヌスであった。




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