4 ローマ帝国


(2)ローマの発展と内乱(その2)

 グラックス兄弟の改革が失敗に終わった後、ローマでは閥族派と平民派の党争が激しくなった。その中で登場してきたのが平民派のマリウス(前157〜前86)である。一兵士から身を起こした彼は前119年に護民官となり、さらに前107年にはコンスルとなった。そしてアフリカのヌミディア王とのユグルタ戦争(前111〜前105)に勝利し、以後亡くなるまでに7回コンスルとなった。彼は中小農民が没落し従来の兵制が維持できなくなったので無産市民を志願兵として採用し国費で武装させる傭兵制を取ったが、これは「私兵」の始まりとされる。

 前100年兵士への土地分配をめぐって閥族派と結んだ部下のスラとの抗争が激しくなったが一時閥族派が平民派を押さえた。この時期に起こったのが同盟市戦争(前91年〜前88)である。イタリア半島の同盟市がローマ市民権を要求して反乱を起こしたが、スラが元老院の了解のもとに市民権の付与を約束して鎮圧した。しかしこの結果、ローマ市民権は全イタリア半島に広がり、イタリアは一つの領土国家となった。

 同盟市戦争が鎮圧された前88年にミトリダテス戦争(前88〜前63)が始まった。小アジアのポントス王のミトリダテスが3回にわたってローマと争ったが、このミトリダテス討伐権をめぐってマリウスとスラは激しく争い、前87年にスラの留守中にローマでスラ派に対して大虐殺を行ったが、翌年に病死した。

 マリウスの後ローマで一時独裁権を握ったのがスラ(前138〜前78)である。貴族に生まれ、初めマリウスの部下であった彼はユグルタ戦争などで功績があり、閥族派の巨頭となり、ミトリダテス戦争から帰国後、マリウス派を全滅させ、無期限のディクタトル(独裁官)に就任して(前82)、独裁政治を行った。のち突然ディクタトルを辞し、翌年没した。

 スラの死後、台頭してきたのがポンペイウス(前106頃〜前48 )である。彼はマリウスとスラの争いにはスラを支援して名をあげ、スラの後継者となり、特にスパルタクスの反乱の鎮圧に功績をあげ、前70年にコンスルに選出された。

 スパルタクスの反乱(前73〜前71)は当時ローマを揺るがした大事件であった。その中心人物であるスパルタクスは兵士から盗賊の首領となり、捕らえられて剣奴(グラディアトール)にされた。ローマ人は有名なコロッセウム(円形闘技場)で奴隷に生死をかけた決闘を行わせ、それを見て楽しむという悪趣味な娯楽を好んだが、そのために養成されたのが剣奴である。

 前73年、カプアの剣奴養成所から78人の剣奴がスパルタクスを頭として脱出し、ヴェスヴィオス山に立てこもり反乱を起こした。奴隷制度の廃止を宣言したことから、多数の逃亡奴隷や貧民も合流したのでその数は急増し、最盛期には12万人に達した。当初は奴隷たちが生まれ故郷に帰ることを目的にしたので、南イタリアを占領した後、北イタリアに進出した。北イタリアに進出したのは奴隷の中にはガリア(現在のフランス)やトラキア(現在のブルガリア辺り)の出身の者が多かったからだが、彼らが帰郷よりも掠奪を望んだので、再び南下してシチリア島に渡ろうとして失敗し、スパルタクスは南イタリアでクラッススの軍と戦って戦死した。そのため大反乱も総崩れとなり、残党はポンペイウスに討伐され、捕虜の約6千人がアッピア街道で磔にされた。

 スパルタクスの反乱の鎮圧に功績をあげ、前70年にコンスルに選出されたポンペイウスはスラの政策を是正し、次第に平民派に接近していった。さらに地中海の海賊討伐にあたっては元老院から強大な権限を与えられ、それに成功し(前67)、ついでミトリダテスを破り(前66)、セレウコウ朝シリアを征服し(前63)、エジプトを除く東方の平定という偉業を為し遂げた。

 しかし、その後自分の軍隊への土地分配などをめぐって元老院と対立したので、彼はカエサル(シーザー)(前100頃〜前44)とクラッスス(前114頃〜前53)と組んで元老院に対抗しようとした。一人一人では元老院に対抗できないので三人が団結して政権を独占するために密約を結んだ。これが第1回「三頭政治」(前60)である。ポンペイウスはイスパニア、クラッススはシリア、カエサルはガリアの特別軍令権を得てそれぞれ勢力圏とした。

 クラッススは名門の出身で、マリウスとスラの対立ではスラを支持し、スラが行った市民の財産没収に乗じて巨富を得て「富裕者」と呼ばれた。スパルタクスの反乱の鎮圧に成功しコンスルに選ばれ(前70)、前60年にはポンペイウス・カエサルとともに第1回三頭政治を成立させた。前55年コンスルに再選され、翌年パルチィア遠征を行ったが、パルチィア軍に苦戦し、前53年にカラエで息子とともに戦死した。

 カエサル(シーザー)はローマの古い名門ユリウス家の出身。最初の妻が平民派の政治家の娘であったことなどから平民派と見なされ、スラの迫害を受け、各地を転々とした。スラの死後、ローマに帰り政界に入り、財務官などを歴任し大神官となったが(前63)選挙で派手な買収を行い、また剣奴の試合の費用などで巨額の負債をせおった。このため前62年にイスパニア総督として赴任するときには債権者たちに阻止され、クラッススの保証によってやっと出発出来たといわれている。

 イスパニア遠征で功績をあげてローマに帰国、ポンペイウス・クラッススと結んで第1回三頭政治を始め(前60)、前59年にコンスルとなり国有地分配法案を可決させ、その他さまざまな案を民会で成立させた。そしてコンスルの任期終了後5年間ガリアの総督になることを承認させ、前58年から前51にガリア遠征を行い、これを平定した。

 このガリア征討については「ガリア戦記」で自ら記録している。最初の3年間はケルト諸族や侵入してきたゲルマン人を討ち、前55年にライン川を渡ってゲルマニア(現在のドイツ)にも入った。この間の前55、前54にはブリタニア(現在のイギリス)にも侵入した。前52年、アルウェルニ族のヴェルキンゲトリクスを中心とする大反乱では絶体絶命になったがこれを切り抜け、前51年には全ガリアを平定し、アルプス以北をローマの版図とし、征服した異民族に課税し、戦利品と課税によって巨額の軍資金を手に入れた。

 前54年にカエサルの娘でポンペイウスの妻となっていたユリアが亡くなり、翌前53年にクラッススが戦死すると、カエサルとポンペイウスの対立が表面化してきた。前49年、ポンペイウスと結んだ元老院が、カエサルに対して軍隊の解散と属州の返還要求を決議し、さらにローマへの召喚を決議した。これに対してカエサルは「骰子は投げられた」という有名な言葉とともに、自分の任地の属州と本国イタリアとの境をなすルビコン川を渡ってローマに進撃した。この時のカエサルの軍隊は11箇軍団(1軍団は約4200人)を擁していたが、多くの軍団はアルプスのかなたにあった。

 一方、「国家防衛の大権」を与えられていたポンペイウスはイタリアで13万人の兵士を動員する権限を得ていたし、スペインには7箇軍団を擁していた。カエサルは5箇軍団を率いてルビコン川を渡って進撃した。ポンペイウスは南イタリアに退き、さらにイタリアでの決戦を避け、バルカン半島に渡り、東方の軍を結集してカエサルに対抗しようとしたが、テッサリア(北部ギリシアの一地方)のファルサロスの決戦(前48)に敗れ、エジプトのプトレマイオス朝に保護を求めた。しかし、エジプト側はローマの内乱に巻き込まれることを恐れ、港に着いたポンペイウスを出迎えると見せて暗殺した。

 当時、エジプトのプトレマイオス朝は、王家内部の争いと原住民の反抗によって衰退の一途をたどっていた。プトレマイオス12世の死後、クレオパトラ7世(前69〜前30、位前51〜前30)が慣習により、弟のプトレマイオス13世と結婚して共同統治者になっていた。

 絶世の美女として有名なクレオパトラはマケドニア系のギリシア人でエジプト人の血は入ってない。弟と共同統治者になったが、弟と廷臣のために一時エジプトを追われが、ポンペイウスを追ってエジプトに現れたカエサルの愛人となって王位に復し、プトレマイオス13世がカエサルと戦って死んだ後は、単独統治を行った。カエサルとの間にはカエサリオン(小カエサルの意味、後のプトレマイオス15世 )をもうけ、ローマに赴いたが、カエサルの暗殺後はエジプトに帰った。

 ポンペイウスを追ってエジプトに進出したカエサルはクレオパトラの虜となり、プトレマイオス13世側についたアレクサンドリア市民との間のいわゆる「アレクサンドリア戦役」(前48〜前47)に勝利し、クレオパトラを王位につけた。さらに小アジアのポントス王を破り、前47年にはアフリカの元老院派を破り、前46年7月にローマへ凱旋した。そして終身ディクタトル兼インペラトール(最高軍司令官、皇帝emperorの語源)となり独裁権を握った(前44)。

 彼はコリントやカルタゴに貧民を送り込み、植民市を建設して無産者や老兵へ土地を分配し、属州での徴税請負制の廃止、100万都市ローマの都市計画に取り組んだが、後世に大きな影響を及ぼしたのがエジプトの太陽暦の採用である。ユリウス暦と呼ばれるこの暦は1年365日に加えて4年に一度閏年を置くこととし、1582年に現在のグレゴリ暦に変わるまで使用された。

 しかし、彼個人の神格化が進み、王位につこうとしたことから独裁に対する反感が強まり、ブルートゥス、カッシウスを首謀者とする60人以上の同志による共和派の暗殺計画が進められ、前44年3月15日にカエサルは元老院の会議の席上23ヶ所刺されて、ポンペイウスの立像の下に倒れた。「ブルートゥス、お前もか」は、この時のカエサルの発した言葉として有名である。

 共和政擁護の英雄として歓呼されるというブルートゥス(前85〜前42)、カッシウス(前?〜前42)らの目論見ははずれ、市民の反発にあって彼らはローマから逃げ出さねばならなくなった。

 カエサルの死後、彼の姪の子で遺言によって養子となったガイウス=ユリウス=カエサル=オクタヴィアヌス(前63〜後14、位前27〜後14)とカエサルの部将であったアントニウス(前82〜前30)とキケロを中心とする元老院の三者による抗争が1年半続いたが、前43年、オクタヴィアヌスは元老院と対立し、ローマに進軍して自らコンスルとなり、カエサルの部将であったレピドゥス(?〜前13年頃)の仲介によってアントニウスと和解し、三者会談の結果、前43年11月末にいわゆる第2回三頭政治が成立した。

 彼らはバルカン半島に逃れて再起を計っていたブルートゥス、カッシウスと前42年にマケドニアのフィリッピで戦い、カッシウス・ブルートゥスを破り、両者は自殺した。

 この戦いで功績をあげたアントニウスの声望があがり、再びオクタヴィアヌスとの抗争が起こったが、前40年に協定が結ばれ、オクタヴィアヌスはガリアとイスパニアを、アントニウスは東方の属州を、レピドゥスはアフリカを支配地とすることとなり、たまたまアントニウスの妻が亡くなったので、オクタヴィアヌスの姉で寡婦であったオクタヴィアと結婚し、両者は結合を強めた。

 アフリカを得たレピドゥスはシチリアを要求してオクタヴィアヌスと対立したが失脚させられ、政界から引退し(前36)、閑職の大神官の地位に追いやられた。オクタヴィアヌスはレピドゥスの支配地と部下を合わせたので三頭政治は崩れ去り、オクタヴィアヌスとアントニウスの対立は避けがたいものとなった。

 東方を支配下に置いたアントニウスは、パルティア遠征の軍費を獲得するためにエジプトに目をつけ、カエサルの死後エジプトに帰り君臨していたクレオパトラをタルソスに呼び寄せた。彼女の美貌に魅せられたアントニウスはクレオパトラと結ばれ(前41)、翌40年にかけてエジプトに滞在した。

 帰国後、オクタヴィアヌスの姉のオクタヴィアと結婚し(前40)、オクタヴィアヌスとローマを東西に分割する協定を結んだ。しかし、前36年パルティア遠征を行ったが大失敗に終わり、以後ますますクレオパトラに溺れ、いわゆる「アレクサンドリアの寄贈」でキプロス島などをクレオパトラに与える約束をした。前34年に「アレクサンドリアの寄贈」が公けにされ、アントニウスのローマ市民に対する裏切りが明らかになり、さらに前33年アントニウスがクレオパトラと正式に結婚し、オクタヴィアを離婚したことからオクタヴィアヌスとの対立は決定的となった。

 前32年、オクタヴィアヌスはクレオパトラに対して宣戦を布告した。 アントニウスは約7万の歩兵、1万2千の騎兵、500隻の艦隊を、翌31年までに ギリシアに進めた。これに対してオクタヴィアヌスは歩兵8万、騎兵1万2千、 400隻以上の艦船を擁して東に進み、アントニウスの海陸軍を4ヶ月にわたって 包囲した。

 前31年9月、アントニウスの艦隊が出動し、有名なアクティウムの 海戦が始まった。オクタヴィアヌス軍とアントニウス・クレオパトラ連合軍、 双方約500隻以上の艦船がぶつかりあったが戦闘は1回の激突で終わり、10〜15隻の 艦船を失ったアントニウスの艦隊は逃げ出し、あるいは降伏し、クレオパトラは その艦隊を率いていち早くエジプトに逃亡し、アントニウスもクレオパトラを追い、 その旗艦に移ってアレクサンドリアに逃げ帰った。

 翌年の前30年夏、オクタヴィアヌス軍はシリアからエジプトに迫り、 アントニウスはしばらく抵抗したが敗れ、クレオパトラの死の誤報を聞き、 8月1日自害し、アレクサンドリアは陥落した。アントニウスの死を知った クレオパトラも毒蛇にその腕を噛ませて自殺し、その後カエサリオン(カエサルと クレオパトラの子 )がオクタヴィアヌスに殺され、300年間続いた プトレマイオス朝エジプトはついに滅亡した。




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