4 ローマ帝国


(2)ローマの発展と内乱(その1)

 ローマのイタリア半島征服に最後に立ちはだかったのが、南イタリアの ギリシア人植民市タレントゥムであった。タレントゥムは前8世紀にスパルタ人の 植民市として建設され、前5世紀から前4世紀にマグナ・グレキア(ラテン語で 大きいギリシアの意味、南イタリアのギリシア植民市群をさす )の中心都市として 繁栄した。そのタレントゥムがギリシアのエピルス王ピロスの援助を得てローマと 戦ったが、前272年に敗れてローマの支配下に置かれた。これによってローマの 100年以上にわたるイタリア半島征服が終わった。

 ローマが短期間にイタリア半島征服に成功したのは、訓練された重装歩兵の 活躍、軍道の建設、要所に植民市を設置したこと等もあるが、最大の理由はローマ 以外の都市、部族に対する統治政策が賢明・巧妙であったことにある。市民権 賦与について寛大であり、また「分割統治」と呼ばれるように100以上の「同盟者」 (ローマに服属した都市、部族 )の待遇に差別をつけ、団結して反抗することを防いだ 巧みな統治方法をとった。

 イタリア半島を統一したローマは西地中海の覇権をめぐってカルタゴと死闘を 演ずることになる。これが三回にわたるポエニ戦争(前264〜前146)である。

 カルタゴは現在のチュニスの近くにあったフェニキア人の植民市で、前9世紀 頃ティルスの人によって建設された。前6世紀に西地中海の商業権を握り、シチリア・ サルディニア・イスパニアにも進出し、前5〜前4世紀にはシチリアをめぐって ギリシアと激しく争った。ポエニとはラテン語でフェニキア人の意味である。

 当時のシチリア島はカルタゴが西半分を押さえ、東半分にはギリシア人の 勢力がシラクサを中心に少し残っていた。そのシチリア島の東北部のメッサナを 押さえていた傭兵隊のマメルス隊に対して、シラクサのヒエロンがカルタゴと 結んで討伐にかかった。そのためマメルス隊はローマに救援を求めてきた。 これがポエニ戦争のきっかけとなった。

 第1回ポエニ戦争 前264年ローマは艦隊を派遣し、カルタゴが宣戦を布告 して戦いは始まった。シチリア島をめぐる戦いではローマはカルタゴの拠点の アグリジェントを陥れ、シチリア全土を支配下に置いたが、カルタゴは西地中海では 無敵を誇る五段櫂船120隻から成る海軍を擁し、ローマ軍を奇襲した。このため 決定的な勝利を得るにはカルタゴ本拠を攻撃しなければならず、そのためには 海軍が不可欠と考え、軍艦の建造を始め、前260年春までに120隻の艦隊を作り 上げた。

 当時の海戦は、船同志がぶつかり合って打撃を与え、相手の船を沈める 作戦が中心になっていた。そのため船首には強固な鉄嘴が装備されていたが、 急造のローマの軍艦には、船首に跳ね橋(桟橋)が装備され、強力な鉄の鉤が ついていた。相手の船に接近した時、跳ね橋を降ろし、鉄の鉤で繋ぎ止め、敵の 甲板に乗り移り、陸上の戦闘と変わらない戦いに持ちこもうとした。前260年、 シチリア島の東北沖のミレ岬の海戦で新工夫は効果をあげ、敵艦の半分の約50隻を 撃沈・拿捕する大勝利を得て、一躍、海軍国にのしあがった。

 その後、ローマは 直接カルタゴを攻撃したがカルタゴの反撃に合い、シチリアをめぐる戦いが続いたが、 前241年にカルタゴ海軍を全滅させ、講和条約が結ばれ、第1回ポエニ戦争は終わった。 この結果ローマは、シチリア・サルディニア・コルシカ島を獲得し、巨額な賠償金を 課し、20年賦とした。

 第2回ポエニ戦争(前218〜前201) ハミルカル・バルカスは第1回ポエニ戦争の 後半からカルタゴ軍の指揮をとったがローマに敗れた。彼は前236年に部隊を率いて カルタゴを出て、北アフリカを西進し、北上してスペインに入り、前228年に亡く なるまでスペイン経営に専念した。

 その父の後を継いだのが、世界史上有名な 名将の一人、ハンニバル(前247/246〜前183)である。前221年、26才の ハンニバルは全スペイン軍の指揮官となり、前219年、スペインにあったローマの 同盟都市を包囲し、陥落させた。この戦争が第2回ポエニ戦争のきっかけとなった。

 イタリア遠征の準備を整え、前218年春、歩兵9万、騎兵1万2千、アフリカ象37頭を 率いて陸路イタリアに向かった。そしてピレネー山脈を越え、ローヌ川を渡り、 8月から9月に有名なアルプス越えを行った。しかし、9月に入って雪も降り初め、 道に迷い、谷に転落し、9月半ばに北イタリアの平原に着いたときには、歩兵5万、 騎兵9千のうち、半分以上を失っていた。

 北イタリアに入ったハンニバル軍は、南下し、ローマの近くまでせまったが、 ローマを中心とするイタリア同盟都市の固い結束をみて、アペニン山脈を越えて 南下しカンネーを奪った。ローマ軍もハンニバルの進出を何とかくい止めようと、 歩兵8万、騎兵6千を集めた。対するハンニバル軍は歩兵4万、騎兵1万であった。 この有名なカンネーの戦い(前216)は、ハンニバル軍の大勝利に終わり、 ローマ軍の戦死者は7万人に達した。

 ハンニバルはさらにカプア(ナポリの北)に 進出し、そこに本営を置いた。カンネーの戦いに敗れたローマは、中・北部の イタリア諸都市が依然として忠誠を誓う中で、軍の再建に努力を払い、前215年 には逆にハンニバル軍とカプアを包囲した。一方、ハンニバル軍は、彼を支援 すべきカルタゴ本国が動かず兵力・兵器の補充がつかず、スペインから援軍を 率いてイタリアに向かった弟もスキピオ軍に完敗して戦死した(前207)。 また同盟していたマケドニア軍も来援せず、イタリアの戦争は膠着状態に陥る なかで、戦いはシチリア、スペインにも拡大した。

 この時スペイン遠征の指揮を 自ら志願したのが、スキピオ(大アフリカヌス)(前236〜前184)である。 彼はカンネーの戦いでかろうじて死を免れた後、前210にスペイン遠征を行い、 前206年までにスペインは完全にローマ領となった。スペインから帰国した彼は、 前205年にコンスルになり、元老院の反対を押し切ってカルタゴ遠征に踏み切った。

 前205年シチリアで艦隊を建造し、遠征軍を準備した。前204年彼はアフリカに 向かい、カルタゴの近くに上陸し、カルタゴ軍を破った。カルタゴはハンニバルを イタリアから呼び返し、ハンニバルは北アフリカに上陸し、西進した。こうして 前202年の春、ザマの戦いが始まった。両軍の死闘の末、騎兵の活躍でローマ軍が 勝ち、ハンニバル戦争と呼ばれた第2回ポエニ戦争はようやく終わった。この結果、 カルタゴは一切の海外領土を失い、以後50年間の賠償金を課せられ、北アフリカ 以外では戦争をしないこと、アフリカでの戦争もローマの許可を必要とすること となった。

 ハンニバルは、敗戦後国政の改革に当たったが、親ローマ派の政敵に 陥れられ、シリアに亡命し(前196)、さらにローマの追求を逃れて小アジアへ 逃げ、ローマの身柄引き渡し要求にあってついに自殺した。

 第3回ポエニ戦争(前149〜前146) 第2回ポエニ戦争の敗戦後もカルタゴの 経済力は衰えず、50年賦の賠償金を10年で一度に支払った。こうしたカルタゴの 潜在力に対してローマのなかでは、「カルタゴを滅ぼすべし」の声も高まった。 この頃、カルタゴは西隣りのヌミディア王の侵入に悩まされていた。前150年に カルタゴはたまりかねてヌミディアに開戦したが、これは“アフリカでの戦争も ローマの許可を必要とする”という約束に違反するものであった。翌年のローマの 宣戦に対してカルタゴは泣訴して和議を求めた。ローマ軍は無抵抗のうちに上陸し、 武装解除を行い、さらに全住民の立ちのきと内地移住を命じた。そのため カルタゴは抗戦に踏み切り、ゲリラ戦でローマ軍を悩ました。

 こうした状況の なかでスキピオ(小アフリカヌス)(前185〜前129)が登場してくる。彼は 大アフリカヌスの長男の養子で、前147年、若くしてコンスルとなりカルタゴ 遠征軍を率いて、前146年にカルタゴを陥落させ、カルタゴの町は徹底的に破壊され、 捕虜は奴隷として売られ、17日間にわたって焼き払われ、カルタゴはついに滅びた。

 このカルタゴが滅びた年に、他のギリシア都市が衰退していくなかで 繁栄を続けていたコリントがローマに反旗を翻したが敗れ、コリントの町は 徹底的に破壊され、婦女子は奴隷として売られ、ギリシはローマの支配下に置かれた。

 第2回ポエニ戦争の勝利によってローマは海外に広大な属州(プロウィンキア、 一般的にはポエニ戦争以後にローマが獲得したイタリアの外の海外領土をいう ) を獲得し、地中海の支配に乗り出した。ヒスパニア(スペイン)を(前197)、 三回にわたるマケドニア戦争でマケドニアを(前168)、そして前146年に カルタゴ、ギリシアを、さらに前133年には小アジアを征服し、属州として、 総督を派遣して直接支配した。この属州から安い穀物が大量に流入し、 おびただしい安価な奴隷が流入したことは、ローマ社会に大きな影響を及ぼす こととなった。

 最大の問題は中小土地所有農民の没落である。彼らは重装歩兵として征服戦争に 連年にわたって従軍し、その負担と戦争による農地の荒廃のため離農する者も多く、 次第に窮乏していった。そのためこれまでローマの発展を支えてきた重装歩兵を 中心とするローマ軍の編成が維持出来なくなり、傭兵制に変わらざるを得なくなっていく。

 中小土地所有農民の没落のもう一つの大きな原因は、ラティフンディア (ラティフンディウム、広大な土地を意味するラテン語)の発展である。 ローマの発展に伴う占領地は国有地とされたが、未分配の公有地は資力のある者から 地代を取って占有を許した。はじめは単に彼らの占有地であった土地が次第に 私有地化され、大規模に果樹栽培や牧畜を経営するようになり、そこでの 労働力として当時大量に安価に手に入れることができた奴隷を使用した。 この奴隷制大農場経営をラティフンディアと呼んだ。このラティフンディアの 発展に伴って没落しつつあった中小農民の私有地は次々に買い占められて行き、 そのことが中小土地所有農民の没落を一層促進していった。

 もう一つの大問題は、奴隷制の問題である。ローマがイタリア半島を統一し 地中海へと発展していくなかでの相つぐ戦勝はおびただしい安価な奴隷を供給した。 前2世紀から前1世紀は奴隷制の最盛期で、多くの奴隷が家内奴隷や手工業・鉱山労働、 大規模な農場での穀物・果樹栽培に使用された。奴隷反乱はしばしばおこり市民を 脅かした。特に前135年のシチリアの奴隷反乱は全島をあげての大反乱となった。

 前3世紀頃から元老院を中心に政権を独占してきたのは、新貴族 (ノビレス、ノビリタス)と呼ばれる人々であった。新貴族は富裕なプレブス (平民)とパトリキ(貴族)の両身分の最上層部が融合し、最高官職(コンスルなど)に 就任した者の直系の子孫で形成され、少数の家柄の者が主要な官職を独占した。 彼らは政治的決定は元老院によってなされるべきだと考え、閥族(オプティマテス)と 呼ばれ閥族派を形成し、貴族中心の元老院支配を守ろうとした。

 ローマ市民のなかで貴族に次ぐ階級としてのし上がり、経済的には第一の勢力と なったのが騎士(エクィテス)階級である。彼らは元来は馬にのって戦う騎兵の身分、 従ってある程度富裕な階級であったが、ローマの属州が増えるに従い、元老院議員が 商業に従事することを禁止されているのに乗じて、商業・貿易・公共事業の請負、 特に属州における徴税請負によって財を成し、一部は政治家、元老院議員など 政界に進出していく。

 一方で中小農民は没落して離農し、「遊民」となって各地をさまよい、 ローマに流れこみ、「パンとサーカス(見世物)」を要求した。または遊民と ならず有力者の傭兵となり、一部はラティフンディアの小作人になっていった。

 こうした状況のなかで、下層民の権利と利益を守るという口実のもとに 貧民の支持を得て、民会の多数決によって政治が成れるべきだと唱え、民会を 足がかりに政権を握ろうとする政治家、及びそのグループが現れてくる。 彼らは平民派(ポプラレス)と呼ばれる。

 このようにローマでは平民の間にも 貧富の差が拡大し、そのなかで閥族派と平民派の争いが激しくなって行く。 このローマの危機、いわゆる「内乱の一世紀」(前133〜前30)に、没落していく 中小土地所有農民を何とか救済し、もう一度かっての重装歩兵である平民を 中心とする社会を再建しようとしたのがグラックス兄弟である。

 兄、ティベリウス・グラックス(前162頃〜前132)は、政治家・ 将軍の父とスキピオ(大アフリカヌス)の娘を母として生まれた。若い頃軍務に ついた後、中小農民の没落・貧民化が大問題になってきた頃の前133年に護民官に 選ばれた。彼は、リキニウス・セクステイウス法を復活させ大土地所有を 125haに制限し、制限以上の占有地を取り上げて土地のない市民に分ける土地法案を 成立させ、自ら土地分配委員の一人となり、実行に移した。しかし、土地問題などで 元老院と対立し、その上政策をやり遂げるため伝統を無視して護民官の再選を 企てたため、翌年暗殺(撲殺)され、遺体はティベル川に投げ込まれた。

 彼は貧民のために論じるときはいつも「イタリアの野に草を食む野獣でさえ、 洞窟を持ち、それぞれ自分の寝ぐらとし、また隠処としているのに、 イタリアのために戦い、そして斃れる人たちには、空気と光のほか何も与えられず、 彼らは、家もなく落着く先もなく、妻や子供を連れてさまよっている。・・・」と論じた。

 弟、ガイウス・グラックス(前153頃〜前121)は、兄とともに 土地分配委員となったが、兄は暗殺された。前123・前122年と続けて 護民官となったガイウスは、兄の改革運動を受け継ぎ、土地法で大土地所有を 制限するとともに、穀物法で貧民に対して穀物を一定の安い価格で売ることとした。 さらにカルタゴに植民市を建設する法案を通過させたが、全イタリア人に市民権を 拡大しようとして元老院と激しく対立し、武力闘争に発展し、最後は自殺に追いこまれた。




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