4 ローマ帝国


(1)共和政ローマ

 インド=ヨーロッパ語族に属するイタリア人は、ギリシア人とほぼ並行して イタリア半島に、2波にわたり南下した。第1波は前16世紀頃、第2波は前11世紀頃、 半島中部の西側に入り、定着して農業を営んだ。イタリア人の第2波南下で ラティウム地方に定住した人々がラテン人と呼ばれる。彼らは、イタリア半島の 中央を流れるティベル川の下流、ティベル川北岸を中心に少数の都市国家を建設した。

 ローマはイタリア人の一派のラテン人が、ティベル河畔に建設した都市国家 からおこった。ヴェルギリウス(前70〜前19)が大叙事詩「アエネイス」で建国 伝説を歌っている。それによるとトロヤの英雄アエネイス(アエネアス)が、トロヤ落城後、 長い漂浪をへてラティウムにローマ建国の基礎を築いたこと、その子孫ロムルスは 双子の兄弟レムスとティベル川に捨てられたが、牝狼に拾われ育てられ、後に 協力して、前753年にローマ市を建て、ローマ初代の王となり、39年間在位した という。

 ロムルス以下7代の王が立ったが、7代目の王は傲慢であったので貴族の 協力によってローマから追放され、前509年(510)に共和政が樹立された伝えられている。

 エトルリア人は古代イタリア北部に住んだ民族だが、民族系統は不明である。 小アジアからイタリア半島に来住した。彼らは早くから都市に分かれて住み、 12の都市国家が分立していた。前7世紀から前6世紀頃が全盛期で、イタリア半島 南部のギリシア植民地を除けば、最も進んだ文化を持った民族であったが、 前5世紀以後衰え、前3世紀にローマに征服された。しかし、その芸術・宗教・ 習俗はローマに大きな影響を及ぼした。

 王政時代のローマもエトルリア人の支配下に置かれた。7人の王の最後の 3人はエトルリア人と考えられている。前509年に王政を廃止して共和政を樹立 したと伝えられているが、これはエトルリア人の支配から解放され、貴族共和政を 樹立したことを意味する。

 貴族共和政のもとでは、貴族が重要な官職を独占していた。当時のローマ ではパトリキ(貴族、名門)とプレブス(平民、中小農民)の二つの身分の差が はっきりしていた。2名のコンスル(執政官、統領と訳す、最高政務官、任期1年、 無給)やディクタトル(独裁官、非常時に臨時に置かれる、元老院の提案で コンスルの1名が任命される。任期は半年で重任は認められない。)、そして 300人の元老院議員はすべて貴族から選ばれた。元老院は最高の立法・諮問 機関で、議員の任期は終身、定員は最初300人、後に600人(一時900人)で構成された。

 共和政が成立して間もない、前494年に貴族に対する平民の不満が爆発し、 平民達は団結してローマを退去し、北方の聖山と呼ばれた丘に立てこもり、 ローマとは別に自分たちの国を創ろうとした。いわゆる聖山事件である。平民の 強硬な態度に対して、平民を国家の中に留めて置くために貴族達は譲歩し、護民官の 設置を認めたと言われている。

 護民官は平民の生命・財産を守るために生まれた 官職で平民会の投票で選出された。任期は1年、定員は初め2名、前449年以降は 10名になった。身体は神聖不可侵でコンスルや元老院の決定に拒否権を行使できる 権限を持った。その権限が拒否権に留まったとは言え、平民の権利伸長に果たした 役割は大きかった。

 護民官の設置を認めさせた平民が次に要求したのは、成文法の 制定であった。従来パトリキ(貴族)とプレブス(平民)間の身分的差別が厳しく、 法知識もパトリキが独占していたのに対し、プレブスは平等を求めて、パトリキと 闘争し、前450年頃、従来の慣習法を成文化したローマ最初の成文法である 十二表法を制定させた。内容は私権の保証、強大な家父長権、身分差別など 原始法的色彩が強いが、成文法を公布させたことはプレブスにとって勝利であった。

 ケルト人はインド=ヨーロッパ語族に属し、前10〜8世紀頃に原住地の ライン・エルベ・ドナウ川から出て、前5〜4世紀にはガリア(現フランス)、 ブリタニア(現イギリス)に広まり、前3世紀には小アジアにも侵入した。 鉄製武器を使用し、好戦的で中央ヨーロッパでは最も有力な民族であった。 しかし、ガリアは前1世紀に、ブリタニアは後1世紀にローマに征服された。 ケルト人は現在ではアイルランドで民族の独立を保っているが、イギリスの ウェールズ地方、フランスのブルターニュ地方にも住んでいる。

 ケルト人によるローマの劫掠後の貧しい農民の没落、ローマが獲得した 公有地を貴族の有力者が勝手に占有する問題など多くの問題が出てきた。 こうした状況のなかでプレブスの間から、単にパトリキの施政に反対する だけでなく、プレブスのなかからコンスルを出す運動が、前370年頃から激しく なった。

 護民官のリキニウス(前376〜前367)とセクスティウス(前376〜前367)が この運動の先頭に立ち、パトリキの激しい抵抗を排除して、前367年にリキニウス・ セクスティウス法を成立させ、ついにコンスルのうち一人はプレブスから選出する ことを認めさせた。また同法によって、一人の占有地は500ユゲラ(約125ha) 以下とし、そこに放牧される家畜は牛・馬は100頭まで、羊・山羊なら500頭に 限ると定められた。コンスルが平民に開放された後、ディクタトル(独裁官)・ 法務官・神官職にも平民がつけるようになり、前300年までには官職の上での 身分の差は完全になくなった。

 最後まで残った問題が、平民会の決議の取り扱いについてであった。 当時、ローマは近隣のラテン人のラティウムの諸都市と戦い(前340〜前338)、 東南方のサムニウム人と3回にわたるサムニウム戦争(前343〜前290)に苦戦し ながらもこれに勝ち、有名な軍用道路であるアッピア街道の建設(前312) などが相次いでいたが、その一方で中小農民の負債問題(征服戦争に駆り 出され、武器・武具・遠征費の負担が重くなり、借金が支払えず、奴隷に転落する ものが多かった )から貴族・平民の対立が激化した。プレブスはティベル川の 向こう側のヤニクルム丘に拠ってローマからの分離も辞せずとの行動に出た。

 この危機を乗り切るためにディクタトルに選出されたのがプレブス出身の ホルテンシウス(生没年不明 )である。彼は有名なホルテンシウス法を成立 させた(前287年)。ホルテンシウス法は「平民会の決議を元老院の承認が なくても国法とする」と言う内容で、貴族と平民は法的に完全に平等となった。 この身分闘争で貴族が譲歩したのは、当時最終段階を迎えていた半島の 征服戦争で重装歩兵として活躍した平民の協力が必要としたからである。




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