3 ヘレニズム世界 


(1)ヘレニズム時代

 ヘレニズムという言葉は、広義と狭義の2義に使われる。広義には ヘブライズムとともにヨーロッパ文明の二大基調であるギリシア精神を意味する。 狭義には純粋のヘレネスの文化と区別される前4世紀末以後の文化をさし、 政治的にヘレニズム時代という場合は、前334年から前30年の約300年間をさす。 狭義のヘレニズムという言葉は、ドイツの歴史家ドロイゼン(1808〜84 )が、 新しい時代と文化に意義を見だして以来普及した。

 ギリシアのポリス社会が 衰退にむかっていた頃、ギリシアの北方でマケドニアが勃興してきた。マケドニア人は、 前12世紀頃、この地に侵入したドーリア人の一派で、はじめ部族的な原始王政の 形態をとり、ギリシアと交渉を持つようになったのはペルシア戦争の頃からである。

 前359年に即位したフィリッポス2世(位前359〜前336)は、15才から3年間テーベの 人質に取られていたが、その間、エパメイノンダスの斜線陣戦法を学んだ。帰国後、 摂政を経て王位につき、エパメイノンダスの斜線陣戦法を採用し、農民による長槍 歩兵のファランクス(密集隊形、古代ギリシアで行われた隊形で、重装歩兵を横長の 長方形に密に並べて敵と戦った)を完成し、巧みな外交政策によりマケドニアを 強国にするとともにギリシアのポリスの抗争に介入した。

 当時、アテネではイソクラテス(前436〜前338 )が、ペルシア征討のためのポリスの統一を フィリッポス2世に期待したが、これに対してデモステネス(前384〜前322 )は、 フィリッポス2世を弾劾する反マケドニア演説を行い、マケドニアがギリシアの ポリスの自由にとって脅威であることを力説した。彼はテーベに赴き、同盟を 作りあげた。

 これをみたフィリッポス2世は、2千の騎兵と3万の歩兵を率いて ギリシアに侵攻し、前338年にはカイロネイアの戦いで約3万5千のアテネ・テーベ 連合軍を撃破した。フィリッポス2世は前337年ヘラス同盟を成立させ、その盟主と なり、全ギリシアを統一した。続いて対ペルシアとの戦争の準備を進めている最中に、 娘の結婚式のとき部下に暗殺された。

 父王の暗殺後、20才で王位についたのがアレクサンドロス3世(大王) (前356〜前323、位前336〜前323)である。彼は、父王の暗殺直後に国内の反対 勢力を破り、動揺したギリシア諸市の反乱を平定し、テーベを徹底的に破壊し、 全市民を奴隷とした。そしてヘラス同盟の盟主として、前334年に父王の遺志を 継いでペルシア遠征に出発した。この時のマケドニア・ギリシア連合軍の兵力は、 騎兵5千・重装歩兵2万4千・補助部隊8千から成る計3万7千であった。

 遠征軍はヘレスポントス(現在のダーダネルス海峡の古名)を渡り、小アジア西岸から 東方に進撃した。当時、アケメネス朝ペルシアは、かっての繁栄は失われていたが、 なお老大国として体面を保っていた。その最後の王として前336年に即位した ダレイオス3世(位前336〜前330)は、小アジア防衛のために約4万の軍を小アジア 西北端に集結させた。前334年にグラニコス川の戦いで、ペルシア軍を撃破した アレクサンドロス軍は、小アジア西岸を南下し、サルデス、ミレトスなどの 諸都市を占領し、小アジアを平定しながら小アジアの東南に達した。

 ダレイオス3世は バビロンに大軍を集め、シリア北部に進出し、地中海東岸の北端で激突した。 前333年11月の有名なイッソスの戦いである。騎兵5千・歩兵4万からなる アレクサンドロス軍は、60万(明らかに誇張された数字だが、アレクサンドロスの 軍よりはるかに多い軍 )のペルシア軍を破り、ダレイオス3世を敗走させ、 母・妃・子を捕虜とした。この戦いによって、メソポタミアへの進出の道が 開かれたが、彼はシリアを南下し、フェニキア人の都市ティルスを攻略し、 さらに南下し、前332年にエジプトに入った。

 エジプト人はペルシアからの 解放者としてアレクサンドロスを歓迎した。そこに半年滞在し、その間ナイル 河口にティルスにかわる商港・軍港を建設し、自分の名にちなんで アレクサンドリアと名づけた(前331)。

 ついで北上したアレクサンドロスは、新たな兵を遠征軍に 加え、騎兵7千、歩兵4万の軍を率いて、いよいよペルシアの中心部のメソポタミアへ 侵入していった。ダレイオス3世はこれを迎い打つベく、4万の騎兵、1万6千の 重装・軽装歩兵と大鎌で敵をなぎたおす新式の戦車200、象15頭まで用意し、 ティグリス川の上流のガウガメラに進出した。前331年10月1日、アルベラ (ガウガメラ)の戦いが始まった。激戦の末、ペルシア軍が不利な形勢となり、 ダレイオス3世は戦車で逃走した。アレクサンドロス軍は追撃に移り、翌朝 アルベラを占領した。しかし、すでにダレイオス3世はイラン高原に逃亡した 後だった。

 アレクサンドロスは直ちにバビロン、スーサに進み、前330年 ペルセポリスを占領し、財宝を獲得し、壮大な王宮を焼き払った。彼は、 この地で東征終了を宣言した。しかし、彼はダレイオス3世がエクバタナにいるとの 情報を得て、ペルセポリスから西北のエクバタナに進出したが、ダレイオス3世は 逃亡した後だった。すでにペルシア帝国の首都・副首都をことごとく陥れ、 ペルシア戦争の復讐戦としての遠征は目的を達したので、アレクサンドロスは エクバタナに入ると、ヘラス同盟軍を解散し、一部の部隊は本国に帰した。

 新しく編成された軍は、マケドニア人が中心だが、彼らも従来の資格でなく、 傭兵として留まり、それに各地の原住民を傭兵として採用し編成された。 こうして軍を再編成して、残るペルシア帝国の領土征服に向かって、逃走中の ダレイオス3世の後を追って、東に軍を進め、パルティアからバクトリア (中央アジア)に進出した。しかし、ダレイオス3世はバクトリアのサトラップ (総督)に殺され、ついにアケメネス朝ペルシア帝国は前330年に完全に滅亡した。

 アレクサンドロスが次に目指したのがインドの征服であった。若き 日の大王は家庭教師であったアリストテレスからインドに関する知識を得ていて、 インド征服は彼の夢であったと言われている。いまや「アジアの王」となった アレクサンドロスにとって、彼の征服事業はインドの征服なしには完成しないと 考えていた。

 前327年の初夏、アレクサンドロスは、マケドニアを出発した時を上回る 大軍を率いて、ヒンドゥークシ山脈を越え、西北インドのパンジャープ地方へ 侵入した。翌年の前326年春、インダス川を渡り、さらに東進し、雨季に 悩まされながら、反抗する諸部族の鎮圧にあたり、さらにガンジス川流域に 進出しようとした。

 しかし、すでに出発以来の行程は約1万8千km(地球の周囲が 約4万km )に及び、軍隊は疲れきり、しきりに帰国を望み、それ以上の行軍を 拒否した。やむなく、水路と陸路を使って、前326年11月、インダス川を下り はじめた。彼は南下しながら、両岸の服従しない部族を鎮圧しながら下り、 インダス河口に前325年の7月に到達した。そこで季節風を待ち、9月に出発し、 スサへ向かった。彼自身は、約1万の軍隊を率いて陸路を、暑さ、飢え、砂に 悩まされ、惨憺たる状態で西に進んだ。海路も、インド人の妨害、逆風、嵐、 水と食料の不足に悩まされながら80日かかってペルシア湾に到達した。陸路、 海路ともに前324年の春にスサへ到着した。

 スサに数ヶ月留まったが、そのとき 有名な集団結婚式があげられた。彼自身は、ダレイオス3世の娘を娶い、 マケドニアの貴族約80人にペルシアの高貴な女性が割り当てられた。前323年の 初め、彼はバビロンに帰還した。そこで地中海西部への遠征、アラビア半島の 周航の準備にかかったが、7月初め、酒宴であびるように酒を飲んだ翌日に急に 熱病におそわれ、10日後の前323年6月13日に32才で波乱の生涯を閉じた。

 アレクサンドロスは、大帝国にオリエント的な専制君主として君臨した。 彼は東方を統治するうえで諸民族の文化や制度を尊重する融和政策が必要である ことを心得ていたので、ペルシアの行政組織や儀礼を継承し、東西の民族・文化の 融合をはかった。前述した集団結婚式はその現われと言える。また自身の名を 冠したアレクサンドリア市を70余り建設し、ギリシア人の東方移住を進めた。 そのため、ギリシア文化とオリエント文化が融合して独特の文化が生まれた。 これがヘレニズム文化である。大王は金・銀貨を鋳造したので貨幣経済が普及し、 東西貿易も活発となった。

 アレクサンドロスの後継者となったのは、フィリッポス2世が賤しい身分の 女に生ませたフィリッポス3世とアレクサンドロスとソグディアナの豪族の娘との 間に生まれた子供で共治という形を取ったが、前310年までに王家は断絶し、 ディアドコイ(「後継者」)は自ら王を称し始めた。

 アレクサンドロスの死後、、ディアドコイ(「後継者」)と呼ばれた マケドニアの武将達が領土をめぐって争った、前323年から前301年(または前281、 前276年)までは「ディアドコイ戦争」の時代と呼ばれる。主なディアドコイは 以下の通りである。

 カッサンドロス(358〜前297)は大王の死後、マケドニアとギリシアの 大部分を領有し、大王の異母弟のフィリッポス3世・母・子のアレクサンドロス 4世・妻を次々に殺し、前301年のイプソスの戦いではリュシマコスと結んで死ぬ までマケドニアを確保した。

 アンティゴノス1世(前382頃〜前301)は、マケドニアの下級貴族の生まれ、 部将として東方遠征に従軍したが、翌年、小アジアのペリギアの総督に任命され、 支配地を拡大し、大王の死後、マケドニア、小アジアを領有し、前306年に王を 称し、エジプトに侵入したが、前301年のイプソスの戦い(アンティゴノス、 デメトリオス父子対セレウコス、リュシマコス連合軍 )に敗れて戦死し、その 領土は勝者に分割された。後、孫のアンティゴノス2世がケルト人を撃退し、 マケドニア王に承認され、アンティゴノス朝(前276〜前168)を開いた。

 セレウコス1世(前358頃〜前280)は、マケドニアの貴族出身で、部将と して東方遠征に従い、死後バビロニア総督となり、大王領のうちシリアから 中央アジアを領有し、王を称し、セレウコス朝(前312〜前63)の創始者となった。 前301年のイプソスの戦いではアンティゴノス1世を、前281年にはリュシマコスを 破ったが、マケドニア遠征中にプトレマイオス1世の子に殺された。

 プトレマイオス1世(前367頃〜前283)は、マケドニアの貴族出身、大王の 部将、大王の死後、エジプトにおもむき、大王が任命した総督を追い払い エジプトを支配下におさめ、前304年に王を称し、プトレマイオス朝 (前304〜前30)の創始者となり、以後東地中海に領土を広め、アレクサンドリア市の 経営に努め、王朝の基礎を築いた。

 「ディアドコイ戦争」の後、かってのアレクサンドロス大王領はシリアから 中央アジアまでを領有するセレウコス朝シリア、エジプトのプトレマイオス朝 エジプト、マケドニアと小アジアの諸王国の4つに固まった。

 プトレマイオス朝エジプトは、いわゆる「ヘレニズム三国」の中でもっとも 繁栄した国家で、王は全国土を所有し、神として専制政治を行った。その首都 アレクサンドリアはヘレニズム時代を通して、もっとも繁栄した都市であった。

 プトレマイオス1世はアレクサンドリアに「ムセイオン」(Museion、これが英語の museum(博物館)の語源になっている)を建て、学者を集め、付属の大図書館を 設け、文化を保護奨励したので、アレクサンドリアはヘレニズム文化の一大 中心地となり、自然科学研究の中心地となった。アレクサンドリアは大貿易港でも あり、インド、アラビア、アフリカの産物が集まり、小麦などが地中海に輸出された。 人口は100万人を超えたとも言われ、「アレクサンドリアにないものは雪だけである」 とも言われた。

 プトレマイオス朝エジプトはヘレニズム世界の中心として、約300年間続いたが、 前30年、あの有名な最後の女王クレオパトラ7世の死とともに滅亡していく。

 セレウコス朝シリアは、かってのアレクサンドロス大王領の大部分を 支配下に置いたが、余りにも広すぎ、民族の上でも複雑な王国であったため、 早くから領土の分裂作用がおき、首都も最初はティグリス河畔のセレウキアで あったが、やがてシリアのアンティオキアに移された。これはシリアが王国の 中心となったことを示している。

 セレウコス1世の死後約30年後には、中央アジアに 移住していたギリシア人が独立してバクトリア(前255頃〜前139)を建てると 遊牧イラン人もパルティア(前248頃〜後226)を建国し、セレウコス朝は 前2世紀に入ると、パルティアに次々と領土を奪われ、シリアを領有する のみとなり、前63年にはローマのポンペイウスによって滅ぼされた。




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