2 ギリシア世界


(6)ギリシア文化

 ギリシア人は、東方の先進文化であるオリエント文化の影響を受けながらも、 自由なポリスの市民生活のなかから、独自の人間中心的な、現実的な、合理的な 文化をつくりあげた。広義でのヘレニズム(ギリシア風文化)は、ヘブライズム (キリスト教)とともにヨーロッパ文明の二大潮流として後世に大きな影響を 及ぼした。

 ギリシア人はゼウスを主神とするオリンポスの12神など多くの神々を 信仰した。彼らが信仰した神々は、人間と同じような系図を持ち、喜怒哀楽の 感情を持ち、恋愛をし、時には嫉妬もする人間的な神々であり、人間との違いは 不老不死であることにあった。この人間的な神々の姿はギリシア神話に生き生きと 描かれている。

 文学は、神話の中から生まれ、神々や英雄の活躍を描いた叙事詩が前8世紀から 前7世紀頃に盛んとなった。最古の大叙事詩である「イリアス」と「オデュッセイア」の 作者であるホメロス(生没年不明、前8世紀頃 )は盲目の詩人であった。

 「イリアス」はトロヤ戦争が10年目を迎えた時の49日間の出来事を総指揮官の アガメンノンと第1の勇者アキレウスの対立を軸に描いている。そして 「オデュッセイア」はその後編とも言えるもので、トロヤ戦争が終わって諸将が 帰国した後も、イタカの王オデュッセウスはトロヤの神の怒りに触れ、10年に わたって海上を漂流し、様々な冒険・苦難の末に帰国に成功するまでを描いている。 この二大叙事詩は、今日に至るまで世界中の多くの人々に愛読されている。

 ヘシオドス(前700年頃)は、「労働と日々」で知られるが、この作品は 小土地所有農民であった彼が、怠惰な弟への戒めのかたちで書いたもので、 人間は額に汗して働くべきであると、勤労の尊さを歌った。彼には、神々系譜を 扱った「神統記」があり、ホメロス以来の大叙事詩人とされている。

 前7世紀から前6世紀の貴族政の末期になると、人々の感情を歌った叙情詩が 盛んとなっり、有名な女流詩人のサッフォー(前612頃〜? )は、レスボス島の 富裕な家に生まれた。少女時代をシチリアで過ごし、帰郷後、宗教団体をつくり 少女たちと生活をともにし、詩や音楽を教えたとされる。恋愛詩が残っているが、 少女達への激しい情熱を歌っているところから、”レスボスの女”からレスビアン (同性愛)という言葉が生まれた。後に彼女の詩は激しすぎるという理由から禁書と なった。さらに恋と酒を歌ったアナクレオン(前560頃〜? )、オリンピアの 競技祝勝歌で有名なピンダロス(前518〜前438 )などが活躍した。

 前5世紀のアテネ民主政の全盛期の時代に盛んとなったのが演劇である。 演劇はギリシア文化を代表する分野といってもよく、優れた作品は今日でも しばしば上演されている。演劇は、元来はぶどうの神、ディオニソス(バッカス) に捧げる祭礼であったが、国家の祭典にともなう行事となり、この頃から コンクールの形を取るようになり、市民から選挙と抽選で選ばれた5人の審査員の 投票により順位が決められ、優勝者にはオリンピア競技の優勝者と同様の称賛が 与えられたので、多くの劇作家が競って優れた作品を発表した。

 そのために立派な 野外劇場が建てられた。現在までよく保存されており、その音響効果のすばらしさで 有名なペロポネソスにある「エピダウロスの劇場」、アテネの「ディオニソスの劇場」 などが特に有名である。多くの劇作家の劇が上演され、競いあった。 なかでもアイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスは三大悲劇詩人と讃えられて いる。

 アイスキュロス(前525〜前456)は、マラトンやサラミスの戦いに参加して いるが、悲劇作家として活躍し、90の作品を書いたといわれるが、現存するのは 7編である。「ペルシア人」「アガメムノン」「縛られたプロメテウス」などが 代表作品とされている。悲劇のコンクールでもしばしば優勝している。

 ソフォクレス(前496頃〜前406)は、最初の作品で優勝し、120編以上の作品を書き、24回 優勝している。代表作の「オイディプス王」他7編が現存している。エウリピデス (前485頃〜前406頃 )新しい手法をとったため優勝回数は5回と少ないが、18編が 現存しており、特に「メディア」は代表作とされている。彼の後、悲劇は急速に衰え、 前5世紀から前4世紀には喜劇が隆盛となった。

 悲劇とは、不老不死の神と違い、いつか死ぬ運命にあり、しかも神の意志に よって運命が決められる人間そのものが悲しいということで、神に操られる人間の 運命を題材とした。これに対して喜劇は、権力や金に固執する人間や社会の 批判・風刺を題材とした。

 代表的な喜劇作家がアリストファネス(前445頃〜前385頃)である。彼の青年時代は ペロポネソス戦争の時代で戦乱に明け暮れた時代であり、アテネではデマゴーグの 時代であり、ポリス社会が腐敗・衰退していく時期であった。そのなかで彼は 平和を念願し、デマゴーグを徹底的に批判した。喜劇44編のうち、現存するのは 11編で、そのなかでは「女の平和」「女の議会」「雲」「蜂」などが代表作品と して知られている。前411年に上演された「女の平和」は、アテネとスパルタ双方の 女達がセックス・ストライキによって戦争を中止させるという反戦劇になっている。

 美術の分野では、絵画は壺絵などに盛んに描かれたが、後世でいう絵画は 発達せず、彫刻が中心となった。ギリシアではよい大理石が取れたことも1つの 原因と考えられる。

 最も代表的な彫刻家はフェイディアス(前490頃〜前430頃 ) である。彼はアテネの人で神像彫刻に優れ、ペリクレスの知遇を得て、パルテノン 神殿造営の監督をした。パルテノン神殿の「アテナ女神像」は代表作だが模造が 伝わるのみである。しかし、パルテノン神殿造営で不正があったと摘発され獄死 したといわれる。さらに「円盤投げ」で知られるミュロン(前5世紀)、 「オリンピアのヘルメス像」で有名なプラクシテレス(前4世紀)らが活躍した。

 ギリシア美術を代表するのが、神殿建築を中心とする建築の分野である。特に パルテノン神殿は荘重なドーリア式の代表で、ペリクレスの時に建立され、 フェイディアスが造営監督を務めた。現在もアテネのアクロポリスの上にそびえ 立っているが、ギリシア政府はその保存に頭を痛めていると言われている。 神殿建築の様式は時代とともに変化している。一般的には、ドーリア式から イオニア式へ、そしてコリント式へと、特に列柱形式に特色が顕著に表れている。 優雅なイオニア式、華麗で技巧的なコリント式と言われている。

 ギリシア文化のなかで特に重要なのが哲学と歴史である。哲学とは国語辞典 によると、「人生・世界、事物の根源のあり方・原理を、理性によって求めようと する学問」とある。ギリシア語のphilo(愛する)ーsophia(知、叡智)が英語の philosophy(哲学)の語源であることはよく知られている。今日では 「人間とは何か」「人はいかに生きるべきか」を追求する学問である哲学の元は、 自然哲学と呼ばれた学問である。

 自然哲学は前6世紀頃、ミレトスを中心とする イオニア植民市で、万物の根源を追求する学問として成立した。その最初の有名な 学者がタレース(前624頃〜前546頃 )である。前585年におきた皆既日食の予言や ピラミッドの高さの測定などで有名でギリシアの“七賢人”の一人として知られている。 彼は「万物の根源は水である」と唱え、自然哲学の祖とされている。

 彼の後に多くの学者が出て、様々な説を唱えた。アナクシマンドロス(前611頃〜前547頃)は、 「万物の根源は特定できない無限なるもの」と考えた。“ピタゴラスの定理”で 有名な数学者・哲学者であるピタゴラス(前582頃〜前497頃 )は「万物の根源 は数である」とした。アナクシメネス(前580頃〜)は「万物の根源は空気である」と 言い、ヘラクレイトス((前544〜?)は宇宙の根源は「永遠に生きている火」で あり、一切の物は火に発して火に還るとし、「万物は流転する」という言葉を残している。 アナクサゴラス(前500頃〜前428頃)は物体は微小なスペルマタ(種子)に分けられ、 それが混沌の状態から知性によって整理され世界を形成したと説いた。 そしてエンペドクレス(前493頃〜前433頃)は、土・水・火・風の4元素による 結合・分離から万物の生成・消滅を説明した。

 自然哲学の大成者とされるのが、 デモクリトス(前460頃〜前370頃 )である。彼は、同質・不可分・不変不滅の 小粒子であるアトム(原子)こそが実在で、無数のアトムが結合・分離して万物が 生成・変化・消滅するという「原子論」を唱えた。この原子論によって万物の 根源の追求には終止符がうたれた。

 彼が活躍した時期は、アテネの民主政治の 全盛期であったので、アテネでは弁論・修辞を教え、報酬を受け取る職業教師とも 言える人々が活躍していた。彼らは自ら、“知恵のある者”と称したので ソフィストと呼ばれた。

 その代表的な学者がプロタゴラス(前485頃〜前415頃 )で ある。彼は「人間は万物の尺度である」という有名な言葉を残している。 この言葉は色々に解釈されているが、普遍的な真理の存在を否定して全てを 相対化する、ソフィストの相対主義を表わしていると、また哲学の主流を従来の 自然哲学、自然論哲学から人間論哲学、現在の哲学のように「人間とは何か」 「人はいかに生きるべきか」を追求する学問に転換させる契機になったとされている。

 このソフィストの相対主義に対して、絶対的真理の存在を説いたのが、 有名なソクラテス(前469頃〜前399)である。彼は彫刻家(または石工)を父に、 助産婦を母としてアテネに生まれたが前半生は不明である。後半はペロポネソス 戦争の時期に当たるが、3回従軍して国外に出たほかはアテネで暮らした。 デルフィの神託の「ソクラテスより賢者はなし」という神託の真意を確かめるため、 当時ソフィスト(知恵のある者)を尋ね、問答を行った。その結果、“何も 知らないことも知らない”ソフィスト達よりは“何も知らないことも知っている” 自分のほうが勝っていると確信した。これが「無知の知」である。

 そこで「汝自身を知れ」、無知を自覚せよ、無知を自覚した上で、真理を追求 しようとして、街頭で「問答法」によって人々を真理に導こうとした。この時、 ソフィストの相対主義を批判し、絶対的真理(真なるもの・善なるもの)の 存在を説きたので、ソフィストの反発を招き、衆愚政治に堕した民主政治に 反対したので、ペロポネソス戦争に敗れたアテネで、青年を害し、堕落させたのが スパルタに敗れた原因だという理由で告発され、死刑の判決を受けた。1ヶ月間の 入獄中に脱走を進められたが、「悪法といえども国家の法に従うべし」といい、 毒盃をあおいで死んだが、彼の死は弟子達に衝撃を与えた。彼は著書は一切 残してないが、我々は、プラトンの「ソクラテスの弁明」「クリトン」「饗宴」や クセノフォンの「ソクラテスの思い出」などから彼の哲学を知ることができる。

 ソクラテスの最大の弟子がプラトン(前427〜前347 )である。アテネの 名門に生まれ、10代の終わり頃からソクラテスに師事し、10年間教えを受けた。 ソクラテスの死後、一時国外に亡命したが、後帰国し、「ソクラテスの弁明」 などを執筆した。のちシチリアに旅行し、同市の僭主と親交を持ち、「国家論」で 知を愛する哲学者(哲人)が支配者になれば、理想的な政治が実現できるという “哲人政治”を説き、実現を期待したが、裏切られ、奴隷にされそうになったが、 かろうじて逃れ、帰国した。帰国後、「アカデメイア」(学園、英語 academyの 語源)を創設し、弟子の教育にあたった。

 彼は”イデア論”によってギリシア 最高の哲学者と言われている。彼は、イデアこそが完全な、真の実在であり、 現実の世界にある個々の事物は不完全な”イデアの影”にしか過ぎないという。 それではなぜ人間は見たこともない完全なものに憧れるのか。それは人間の魂は、 かってイデアの世界に住んでいて、完全なものを知っている、ところが現実の 世界に生まれ肉体に閉じ込められ、不完全なものしか見えない。そこで魂が イデアを想起し、完全なもの、真なるものに憧れるのだと説いた。そして最高の イデアは”善のイデア”であるとし、善は人間の最高目的であり、実現すべき 最高目標であると説いた。

 プラトンの最大の弟子が、アリストテレス(前384〜前322 )である。 彼は、17才の時アテネに出て、プラトンの「アカデメイア」で20年間学び かつ教えた。プラトンの死後、各地を旅行し、マケドニアのフィリッポス2世に 招かれ、王子のアレクサンドロス(後のアレクサンドロス大王)の家庭教師を 勤めたことは有名である。フィリッポス2世の死後、アテネに帰り、学園 「リュケイオン」を開いた。彼は、哲学・政治・倫理・歴史・経済・心理・ 論理・美学・生物などあらゆる学問の祖であり、「万学の祖」と言われ、古代の 学問の集大成者であった。彼の哲学は後世、イスラムや中世のヨーロッパの 学問に大きな影響を及ぼすこととなる。

 自然哲学は、現在の学問の分野から言うと自然科学に近い。 その意味からも自然哲学から自然科学が起こったのも当然である。 ”ピタゴラスの定理”で有名な数学者・哲学者であるピタゴラス (前582頃〜前497頃 )、”医学の父”ヒッポクラテス(前460頃〜前375頃 ) らが活躍した。ヒッポクラテスは、当時の医学が宗教的・迷信的であったのに 対し、人体の自然治癒力を重んじ、病気の原因を科学的に追求しようとした。

 イギリスの歴史学者、E.H.カーは「歴史は、過去と現在との対話である。」 と言った。 歴史は過去の具体的な出来事を扱う学問である。過去の事実が不確かで あってはならない、従って、正確な事実をつきとめることがまず大切である。 しかし、いくら正確な事実であっても、単にそれを積み重ね、列挙しただけでは 歴史とはいえない。それらの事実を取捨選択し、意味のあるものに組み立てると いう歴史の解釈が不可欠である。我々が歴史を学ぶのは、単に過去の事実を知る ためだけではなく、過去を知ることによって社会全体の発展の過程を学び、 現在の社会をよりよく理解するためである。現在の問題を知るために学ぶと いうことがなければ、歴史は単に好奇心を満たすものとなってしまう。 そうした意味を込めて、カーは「歴史は、過去と現在との対話である。」と言った。

 古代オリエントにも、王の業績など事実を記録した年代記のようなものは あったが、本当の意味での歴史はギリシアに始まる。

 「歴史学の父」と呼ばれるのは、古代ギリシアの歴史家ヘロドトス (前485頃〜前425頃 )である。彼は、小アジアのハリカルナソスの名家に 生まれ、同市を追われ、前445頃アテネに移り、南イタリアの植民市の建設に 参加、そこで亡くなった。その間、彼は北アフリカ、エジプト、フェニキア、 バビロン、黒海北岸を旅行した。

 彼は、ペルシア戦争そのものと、それに至る 背景を叙述することを生涯のテーマとし、「ヒストリアイ」(「歴史」、 あるいはその内容から「ペルシア戦争史」と訳されている。historiaiは、 言うまでもなく英語historyの語源となった言葉で、もとは探求の意味である)を著した。 「歴史」は、ペルシア戦争の原因・背景に始まり、前479年までを叙述している。 旅行から得られた見聞を豊富に使い、伝承もそのまま取り入れるなど、 読んでおもしろい物語風の歴史になっている。

 ヘロドトスの物語的歴史に対して、徹底的に史料批判を行い 「科学的な歴史の祖」とされているのがトゥキディデス(前460頃〜前400頃 ) である。彼は、ペロポネソス戦争が始まると「この戦乱が史上特筆に値する 大事件に発展することを予測して、ただちに記述を始めた」と自ら記している。 また「実際に自分で見聞したこと、または本当に確かだと思えることのみを 記述する」と事実を正確に伝えようとした。しかし、前424年には彼自身将軍の 一人として戦争に参加し、作戦失敗の責任を問われて国外追放となり、トラキア に移り、「歴史」(「ペロポネソス戦争史」)の著述を行った。ペロポネソス戦争の 終了で帰国を許されたが、数年後に没した。「歴史」は、前411年の部分までで 未完に終わった。

 クセノフォン(前430頃〜前354頃 )は、アテネに生まれ、 後アケメネス朝ペルシアの王子キュロスのギリシア人傭兵隊に参加(前401)、 バビロン付近で戦ったがペルシア王ダレイオス2世軍に敗れ、キュロスも 戦死したので、彼は1万人のギリシア兵を率いて黒海沿岸に脱出し帰国した。 この体験を「アナバシス」に著述した。また「ギリシア史」7巻の初め2巻で、 トゥキディデスの後を継いでペロポネソス戦争の終結までを叙述した。




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