2 ギリシア世界


(5)ポリス社会の没落

 アテネは、デロス同盟の盟主として、その地位をますます強化し、前449年の ペルシアとの和約によって存在理由がなくなった後も、デロス同盟の加盟国から、 貢租金を取り立て、それをアテネのために流用し、またアテネの民主制を加盟 ポリスに強要するなど、種々の干渉、強制を加え、反乱に対しては武力で弾圧した。 ペリクレス時代のアテネは、まさに「アテネ帝国」として、エーゲ海周辺に 確固たる覇権を確立した。

 このアテネの繁栄を快く思ってなかったのがスパルタである。スパルタは、 その強力な武力を背景に、前6世紀末までに、ペロポネソス半島一帯の諸ポリス から成るペロポネソス同盟の盟主となり、ギリシア随一の強力なポリスと 自他ともに認められるようになっていた。

 スパルタは、少数のスパルタ人が 多数のペリオイコイやヘロットを支配している貴族政の国であり、従って他の ポリスの貴族政や寡頭政を支持した。アテネのような民主政治が入ってくれば、 それはスパルタの崩壊につながると考え、民主派を弾圧するのが国是であった。 従って、アテネが興隆し、その影響が周辺に広まることはスパルタにとって 脅威であった。その意味でも、いずれ両ポリス間の激突は避けられないことでも あった。それでも前446年に30年間の和約が結ばれたが、結局15年で破綻し、 ギリシア世界を二分しての大戦争であるペロポネソス戦争(前431〜前404)が 勃発することになる。

 前431年3月、スパルタ側のテーベ軍がアテネ側の プラタイアに侵入した。これが以後27年間続くペロポネソス戦争のきっかけとなった。 スパルタはペロポネソス同盟軍を動員して、アッティカ(中部ギリシアの東部の エーゲ゙海につき出した半島部をさす、アテネはアッティカ地方にある )に侵入し、 耕地を荒らして引き上げた。

 当時、ペロポネソス同盟側の兵力は約5万人の重装 歩兵とそれを上回る軽装歩兵、約100隻の三段櫂船であり、対するデロス同盟側は 約3万人の重装歩兵、数千の軽装歩兵、約300隻の三段櫂船を持ち、陸軍では劣るが、 海軍力では圧倒的に強みをもっていた。そこでペリクレスは陸戦を避けて、海戦に 持ちこもうと考え、アッティカの田園地方を放棄して、籠城戦術を取っていた。 ペリクレスは艦隊をペロポネソス半島に出動させ、耕地や村落を荒らし回り、 第1年目はアテネ側がやや優勢のうちに終わった。

 翌年の前430年、アテネでは 戦死者の国葬が行われ、ペリクレスが有名な葬礼演説を行った。そのなかで、 民主政治、自由、勇気、理性など”ギリシアの学校”としてのアテネが優越する 点をあげ、次のように言っている。「われらの政体は他国の制度を追従するもの ではない。ひとの理想を追うのではなく、ひとをしてわが範を習わしめるものである。 その名は、少数者の独占を廃し多数者の公平を守ることを旨として、民主政治と 呼ばれる。」

 前430年、スパルタは再びアッティカに侵入し、40日間にわたり破壊を行った。 この侵入の直後に、思いがけないことが起こった。ペストの大流行である。 ペストはアテネの外港のピレウスで始まり、アテネに飛び火した。当時のアテネは 家も人も密集している不衛生な籠城生活であるため、このおそろしい疫病は 非常な勢いで広まり、2年間で全人口の3分の1が死んでしまった。

 現在ではペストは地球上からなくなったが、歴史的には何度も大流行し、多くの人々の 命を奪った。主な症状は、高熱、激しい嘔吐、下痢、腫物で、大多数は発病後 7〜9日目に死亡した。さいわい一命を取りとめた者も、末端部の機能喪失、 盲目、健忘症に悩まされた。死体は街路にも神殿にも積み重ねられ、それを 食べた鳥獣もまた死んだ。人々は自暴自棄に陥り、ペリクレスに非難が集中し、 彼は罷免され、前429年に再び将軍に選ばれたが、彼自身ペストにかかり、 この年に亡くなった。ペストは前430〜429年に荒れ狂い、ようやく下火に なったが、前427年にぶり返し、426年まで及んだ。

 ペリクレス亡き後のアテネの政治を指導したのは、いわゆるデマゴーグ 達であった。元来は”民衆を指導する者”を意味するが、普通”煽動政治家” と訳されているように、民衆に迎合してこれを煽動し、土地や戦利品獲得の 夢をかき立て、貧しい民衆達に好戦機運を盛り上げ、彼らの支持で政権を維持し ようとした人々をさす。”デマ”と言う言葉がこれから出ていることは言う までもない。民主政治はまさに衆愚政治へと堕落して行った。

 前426年、アテネ軍はピロスを占領し、スパルタ軍を包囲した。そのためスパルタは現状 維持の条件で和平を申し入れた。ところが有名なデマゴーグのクレオン(皮 なめし業者)は、和平に強硬に反対し、法外な要求を出し、もっと多くの戦争に よる利益を要求する民衆を煽動し、交渉を決裂させ、絶好のチャンスを逃がした。

 その後、スパルタはトラキアに出兵し、トラキアの諸都市をアテネから離反 させようとしたので、前422年、クレオンはトラキアに出陣したが、大敗し、 戦死した。そのためアテネでもようやく和平の機運が強まり、前421年に、 双方占領地を返還する条件で「ニキアスの和約」が締結された。

 ニキアスはクレオン亡き後の最も有力な政治家であり、銀山の採掘を営み、千人の奴隷を 所有する金持ちであった。彼はスパルタとの和平を続ける努力をした。ところが こうした状況のなかで、アルキビアデスが急に頭角を現してきた。彼は富裕な 名門の出で、後見人のペリクレスの家で育てられ、ソクラテスに愛された、 美貌、才気煥発の人気者であった。前420年、30才になり将軍に選ばれた彼は ニキアスと対立し、ニキアスの和平主義に対して、スパルタの仇敵アルゴスと 同盟し、前418年にスパルタと戦って大敗を喫した。

 この頃、シチリア島の アテネの同盟国がアテネに救援を求めてきた。アルキビアデスは第1人者となる 絶好のチャンスと考え、大衆は勇ましい計画に魅せられ、空前の大遠征が決議され、 アルキビアデスとニキアスが指揮官に選ばれ、前415年に60隻の三段櫂船を含む 100隻の大船隊と約6000人の歩兵からなる大遠征隊が出航した。ところがシチリア 到着後、アルキビアデスに対する本国への召喚命令が来た。彼は召喚の途上、 脱出し、スパルタに逃亡した。

 シチリア遠征軍は、シラクサを包囲したが、スパルタからの遠征軍の 到着によって、包囲軍は次第に不利な状況に陥り、前413年、陸戦で惨敗を喫し、 帰国しようとしたが、退路を封鎖され、それを突破しようとした海戦でも敗れ、 約4万人の退却は悲惨を極めた。約7千人が捕虜となり、多くの者が病気や 飢えで死んだ。アテネはこの遠征で莫大な艦隊と兵員を失い、資金面でも 大打撃をこうむった。

 シチリア遠征の失敗以後、小アジアのポリスがアテネから離反し、 スパルタと結んだため、以後小アジアをめぐって攻防戦が続いたが、スパルタは ペルシアと同盟を結んで海上で死闘を繰り返し、前405年の最後の海戦に敗れた アテネは海上から封鎖され、食料も尽き、翌年の前404年にアテネはついに 降伏し、ギリシア全土に惨禍をもたらしたペロポネソス戦争はスパルタの 勝利で終わった。

 ギリシアの覇者となったスパルタは、各国に監督官と守備隊を派遣し、 寡頭政を強要した。しかし、鎖国政策を放棄した影響がすぐに現れ、貨幣 経済が普及し、市民間に貧富の差が生じてきた。

 スパルタの覇権をくつがえそうとアテネ、テーベ、アルゴス、コリントが 同盟してコリント戦役(前395〜前386)を起こした。その背後にはペルシアの 策謀があった。ペルシアはスパルタが強大になることを警戒し、分裂・抗争を 起こさせることをねらってアテネその他のポリスを経済的に援助し、ギリシアの 政局を左右した。

 しかし、この頃テーベが急速に勃興してきた。テーベは、アテネの北方の ボイオティア地方にあり、早くからギリシア中部の中心のポリスであったが、 ペロポネソス戦争ではアテネ攻撃の先鋒となった。しかし、戦後はスパルタと 対立したが、前4世紀前半にエパメイノンダス(エパミノンダス)(?〜前362) の指導のもとで国力を充実させ、前371年のレウクトラの戦いで、 エパメイノンダスの考案した斜線陣戦法で、スパルタに対して決定的な勝利を 得た。

 これによってギリシアの覇権はスパルタからテーベに移った。 エパメイノンダスはスパルタに対抗して諸ポリスの解放に努めたが、 前362年にエパメイノンダスはスパルタとの戦いで戦死し、テーベの覇権も、 彼の戦死とともに失われ、以後ギリシアは慢性的な戦争状態に陥り、 ギリシア世界全体が衰退していった。

 ちょうどこの頃、北方ではマケドニアが勃興し、その王フィリッポス2世 (位前359〜前336)が、ギリシアに侵入してきた。アテネとテーベは連合して、 前338年にカイロネイアで戦ったが敗れ、全ギリシアはマケドニアの支配下に 置かれることとなった。




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