2 ギリシア世界


(3)ポリスの発展(その2)
(4)奴隷制度

(3)ポリスの発展(その2)

  第3回ペルシア戦争 マラトンの敗戦を知ったダレイオスは、ただちに より大規模な遠征の準備に取りかかったが、4年目の前486年に亡くなり、王子 クレルクセス1世(位前486〜前465)が後を継いだ。クレルクセスは前480年、 空前の規模の大遠征軍を率いてギリシアに侵攻した。このため陸上部隊を全員 船で運ぶことは不可能となり、陸上部隊はエーゲ海の北岸沿いに進み、海軍が これを援護しながら進んだ。前492年のアトス岬の悲劇を避けるため、半島の 付け根にに運河を開鑿した。ペルシア軍の兵力は、ヘロドトスは陸軍210万人と しているが、実際は約30万人、そして海軍は三段櫂船(上中下3段にならんだ 漕ぎ手が櫂を使って動かす古代の軍船 )約1200隻位と考えられている。

 マラトン以来、ペルシアの来寇が予測される中でも、ギリシアは まとまりを欠いていた。アテネでは、クセルクセスの準備が本格化していた 前483年に大きな銀山が発見された。アテネ市民は慣例にしたがってこれを 市民の間で分配しようとしたが、この時、テミストクレス(前528頃 〜前462頃 )は、その分配を差し止め、200隻の三段櫂船の新造させ、ペルシアの侵攻に 備えた。

 ペルシアの侵攻が始まった頃、アテネはデルフィの神託を求めた。 最初、巫女はアテネの壊滅を予言した、さらに神託を求めたところ「ゼウスは、 女神(アテナ)に木の壁(艦船の意味)を与え給う。これぞ唯一つ難攻不落に して汝と子に益さん。」とのお告げを得たとされている。

 ペルシア軍はマケドニアから南下し、ギリシア連合軍も出撃し、 テルモピレー(海沿いの土地で山が迫り、隘路になっている)でペルシアの 南下を阻もうとした。前480年8月、ここに有名なテルモピレーの戦いが 始まった。

 テルモピレーのギリシアの守備隊は、スパルタ王レオニダスの指揮下に、 スパルタ市民の精鋭300人を中心に総勢約6000人であった。守備隊は、ペルシアの 弓兵の威力が発揮できないように、隘路の断崖で戦った。守備隊はペルシアの 大軍を相手によく戦ったが、地元のギリシア人がペルシア軍に迂回路を教えた ため、背後をつかれ挟撃にあい激戦の末、300人のスパルタ兵は全員戦死した。 この戦場跡に建てられた墓碑の詩「旅人よ、ラケダイモン(スパルタのこと) の国人に行き伝えよ。御身らが命に服して、我らここに死にきと」

 テルモピレーの戦い後、ほとんど無抵抗状態のなかを南下し、9月に ついにアテネのアクロポリスを占領した。アテネでは、「テミストクレスの 決議」に従ってほとんどの市民は、アテネの南にあるサラミス島へ疎開して いて、少数のものが籠城していた。

 テミストクレスは、軍船の数で劣るため広い水域での戦いを避け、狭い 水道での戦いに持ちこもうと考え、内通者を装った使者をペルシア軍に送り、 ギリシア海軍がサラミスから撤退しようとしていると告げさせた。 クセルクセスはサラミスを封鎖する作戦に出て、500隻のペルシアの主力艦隊が 狭い水道に侵入した。ギリシアの三段櫂船の総数は約310隻と伝えられている。

 こうして夜明けとともに狭い水域で史上有名なサラミスの海戦(前480年9月 下旬)が始まった。機動力に優るギリシア海軍は追い風を利用して、いわゆる 衝角戦法(出来るだけ直角に近い角度で相手の船にぶつかって打撃を与える 戦法)で、狭い水域で混乱に陥ったペルシア海軍に襲いかかり、敵艦を多数 撃沈した。

 このサラミスの海戦はペルシア戦争の勝敗を決定づけた戦いで あるだけでなく、ギリシアのその後の歴史を考えるときたいへんな意義ある 戦いであったと言える。特に三段櫂船の漕ぎ手として無産市民が活躍した ことは後の民主主義の発達に大きな影響を及ぼした。

 三段櫂船の漕ぎ手は 1隻あたり170〜200名なので、アテネの軍船200隻には漕ぎ手だけでも3万 4千人以上が必要になる。当時ののアテネの重装歩兵階層以上の市民が 約1万5千人、無産市民が約2万人と推定されているので、全市民が乗り 組んだであろう。特にマラトンの戦いでは活躍出来なかった無産市民 (文字通り財産がないために、武器・武具を自分で買うことができず、重装歩兵 部隊に入れなかった人々、当時は武器・武具は、ポリスから支給されず、自分で 調達しなければならなかった)の活躍が大きな比重を占めた。このため、 戦後、従来参政権を与えられなかった無産市民が参政権を要求し、それが 認められて行くなかで、ギリシアの民主主義が完成して行く。

 サラミスの敗戦後、クセルクセスはサルディスに退いたが、約15万人の ペルシア軍はギリシア半島の北方で越冬待機していたので、ギリシアは依然と して大きな脅威にさらされていた。

 前479年、アテネ・スパルタ連合軍は プラタイアに進撃してペルシア陸軍を撃破した。同じ頃、イオニアのミカレー 岬ではギリシア連合艦隊がペルシア艦隊を破り、ギリシア側の勝利が確定した。 前449年に「カリアスの平和」でアテネとペルシア間の和約が結ばれ、 小アジアのギリシア植民市の独立が承認され、ペルシア戦争は正式に終わった。

 ペルシア戦争はギリシア的なヨーロッパとアジアとが衝突し、ギリシア的な 自由な市民国家がオリエント的な専制国家に対して勝利し、以後のギリシア のみならず、後世のヨーロッパの歴史にも大きな影響を及ぼす出来事であるといえる。

 第3回ペルシア戦争後も、ペルシアの再攻の可能性は依然としてあった。 こうした状況のなかで、従来のスパルタに替わって「ギリシア連合」の中心と なったアテネを盟主として、前477年にデロス同盟が結成され、エーゲ海周辺の 数百のポリスが参加した。

 参加したポリスは、ペルシアに対抗するための軍船・ 兵員を提供するか、軍資金として貢租を納める義務を課せられた。この同盟 資金は、最初はエーゲ海の小島デロスに置かれたが、前454年に同盟の金庫が アテネに移され、資金がアテネ財政に流用されるようになり、アテネは盟主と して他の同盟国を支配下に置き、アテネは事実上の[アテネ帝国」となり、 繁栄していく。

 前述したように、サラミスの海戦で活躍した無産市民は、自分たちが ギリシアの自由を守ったと主張し、政治的権利を要求を強めていった。この ような状況のなかで、ついに前462年に、母はクレイステネスの姪という富裕な 名門の出である若きペリクレス(前495頃〜前429)が一種のクーデターによって、 元老院から実権を奪い取り、政治・司法における実権を五百人評議会、民会、 民衆裁判所に与えた。

 特に民会が政策決定の最高機関として、民衆裁判所が 最高の司法機関としての力を持つようになった。このためアルコン(最高官職、 執政官、任期1年)の権威は落ち、任期は1年だが重任、再任が認められていた 将軍職の地位がきわめて高くなり、15年間連続で将軍職に重任したペリクレスが 台頭し、前443年に保守派の中心人物が陶片追放で退けられると、”名の うえでは民主政だが、事実は第一人者による支配”と言われた、いわゆる ペリクレス時代(前443〜前429)が現出した。このペリクレス時代にアテネ 民主主義が完成した。

 国家の最高決定機関は民会であった。民会は500人評議会が提案した 議案のみを審議した。民会には成年男子市民であれば誰でも出席し、自由に 発言できた。民会への出席者には日当が支給された。民会は年に40回位開かれたが、 出席率等分からないことも多い。また将軍・財務官などの一部の官職を除いて、 一般官職が市民に開放され、抽選で決められた。官職抽選制も古代ギリシアの 民主主義の特色である。このように庶民までが役人となったため、官職についた とき報酬が支給されるようになった。

 これを現代の民主主義と比較してみると 当然のことながらいくつかの相違点がある。まず第1に、現代の間接民主制に 対して直接民主制であったこと、第2に成年男子市民による民主制であり、 女性には参政権がなかったこと、第3に民主主義に最も相反する奴隷制の上に 成り立っていた民主主義であるということである。そのほかに官職抽選制が 取り入れられたこと、政党がなかったことなどがあげられる。

 ペリクレスは、市民の日当を公金から支払う政策を取って市民の歓心を かい、その資金はデロス同盟の資金を流用し、同じくデロス同盟の資金で アテネ海軍の増強にも務めた。対外的には、ペルシアとスパルタを同時に敵に まわすことの不利をさとり、前449年にはペルシアと「カリアスの平和」を結び、 前446年にはスパルタと30年間の和約を結んだ。またペルシア戦争の際、破壊 された神殿の跡にパルテノン神殿を再興し(前447年着工〜前432年完成)、 文化を奨励し、アテネの全盛期を現出したが、晩年には専横な行動もあった。 嫡子2人をペストで失い、自らもペストにかかって亡くなった。

(4)奴隷制度

 奴隷制は古代社会にはどこでもみられるが、ギリシアのポリス社会は、 古代ローマとともに、世界史上最も奴隷制が発達した社会である。奴隷とは、 他人への隷属性が最も強い人間であり、人格が認められず、所有者の意の ままに労働を強制され、譲渡・売買された人々である。一般的に、その発生の 原因は、戦争の捕虜・略奪・世襲・債務の不払いなどである。ギリシアでも 債務のために転落した市民、捕虜、奴隷として輸入された異民族などが奴隷と して売買された。

 アテネには、人口の約3分の1にあたる約8万人の奴隷がいた。 その多くは異民族の奴隷であった。債務奴隷も多かったが、ソロンの立法以後は 禁止された。アテネの場合、奴隷の多くは召し使いなどの家内奴隷であったが、 銀山(ラウレイオン銀山が有名)をはじめ鉱山でも大量の奴隷が使用されたが、 その生活は最も悲惨であった。また陶器の製造をはじめとする手工業でも奴隷が 使用され、市民の生活を支えた。スパルタでは被征服民が奴隷とされ、 ヘロットと呼ばれ、農業労働に従事した。

 有名な哲学者アリストテレスは「奴隷は生きた財産である。・・・ 奴隷と家畜の用途には大差がない。なぜなら両方とも肉体によって人生に 奉仕するものだから。・・・」と述べている。当時のギリシアでは奴隷制は 不可欠であったので、大学者にとっても疑問を持つ余地のないことだったのである。




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