2 ギリシア世界


(3)ポリスの発展(その1)

 ミケーネ時代の小王国は暗黒時代(前12世紀〜前8世紀頃)に滅び、王権は 衰え、ポリスが成立する頃には、王は貴族の中の第一人者にすぎなくなった。 従って、はじめ王を頂いていた各ポリスでは、前7世紀頃までには広い土地と 多くの家畜を保有し、馬を飼育し、高価な武具を備え、騎兵としてポリス防衛に 重要な役割を果たした貴族がポリスの政治・軍事の実権を握る、貴族政治が 確立した。アテネでも、貴族出身の9人のアルコン(執政官、任期1年)が実権を握っていた。

 前750年から550年の約200年間の間に、ギリシア人は地中海・黒海沿岸に かけてめざましい植民活動を行った。ポリス内部での人口の増大の結果、 土地獲得の要求が最大の原因だが、さらに商業活動への関心がそれに拍車を かけた。

 この植民活動の結果、新しいポリスが次々に誕生していった。その 中にはその後発展を遂げ、現在まで続いている都市がある。代表的な都市が マッシリア(現在のマルセイユ)、ネアポリス(現在のナポリ)、ビザンティオン (現在のイスタンブル)等である。

 植民活動による植民市の建設は、単にポリスの数が増えただけでなく、 ポリス内部にも大きな変化を引き起こした。本国のポリスと植民市のポリス間の 商業・貿易が盛んとなるに従って、貨幣が使われるようになった。

 鋳造貨幣の 使用は前7世紀頃、リディアで始まったが、小アジアとの交易を通してギリシアに 伝わり、広まっていった。さらに商業の発達にともなって、手工業も発達し、 陶器をはじめブドウ酒、オリーブ油、金属器等が作られ輸出された。このような 商業・貿易・手工業の発達、貨幣経済の進展により、貴族のように大きな土地は もってないが貨幣財産では彼らに負けない富を蓄えた豊かな平民が出現して くる。「貨幣こそは人」ということわざは当時の状況をよく現している。

 さらに、商工業の発達によって武器の製造も盛んとなり、安価な武器が 普及するようになり、豊かな平民の中には、武器・武具を手に入れ、重装歩兵と なり、ポリスの防衛に参加するものも出てきた。

 従来、貴族が政治を独占して きた最大の理由は、彼らが騎兵としてポリスの防衛の主体だったことにあった。 ところが平民の重装歩兵から成る密集隊(ファランクス)が戦術の中心となって くると、騎馬の貴族の役割が低下していく。そのため国防の主体である貴族が 政治を独占するのは当然であるという論理は崩れざるを得なくなり、いまや 自分たちもポリス防衛に重要な役割を果たしているのだから当然政権に参加 する権利があると主張する平民との対立・抗争が激しくなっていった。

 従来の貴族政治の時代には、慣習は成文化されず、貴族によって自分 たちに都合のよいように自由に解釈されてきたので、平民は慣習を成文化する ことを要求した。アテネではドラコン(生没年不明 )が、前621年頃、従来の 慣習法を整理・改正してギリシア最初の成文法をまとめた。その内容は刑罰が 非常に厳しく、やたらに死刑が適用されたので”血で書かれた”と評された。

 貨幣経済の発展によって、平民の経済的地位が向上したと前述したが、 もちろん全ての平民が豊かになったのではない。一方では貨幣経済の進展に よって没落していく者も多かった。農民の中には、借財に苦しみ、土地を失い、 奴隷に売られる者も次第に増えていった。借財を払えないものは土地を債権者に 差押さえられ、生産物の6分の1を彼に納めた。それが滞納になった場合とか、 はじめから身体を抵当として借金して返済できない者は、奴隷として外国に 売られるのが当時の慣習法だった。

 貴族と平民の対立・抗争が激しくなり、一方で農民の困窮が急速に進み 奴隷に転落する者が急増していくという、アテネの内政の危機に「調停者」と して登場してくるのがソロン(前640頃〜前560頃 )である。「調停者」とは、 ポリスが危機に陥ったとき、市民の合意により一定の期間全権を委ねられ、 相争う党派の調停に当たり、重要な立法を行う人をいう。

 王家にさかのぼる 名門生まれのソロンは前594年に「調停者」に選ばれ、有名な「ソロンの改革]を 行った。まず最大の問題であった没落する市民を救うために、いわゆる” 重荷おろし”といわれた借財の帳消しを行い、今後は身体を抵当とする借財を 禁止した。次に国政の改革を行い、「財産政治」を実施した。これは市民を 土地・財産によって4等級に分け、参政権や軍事上の義務をそれぞれの等級に 応じて決めた。第1級(富者、500メトロンの土地)はアルコンなどの最高の 官職に、第2級(騎士、300メトロンの土地)はその他の官職に、第3級(農民、 200メトロンの土地)は重装歩兵となり、その他の官職につける。そして第4級 (労働者、無産者)にも民会への参加を認めた。

 財産政治は生まれでなく、 土地・財産によって官職を定めているところから、平民にも最高官職への道が 開かれた。その意味で、貴族政治は終わりを告げた。しかし、当然のこと ながら借財の帳消しに対しては貴族・富裕者が強い不満を持ち、一方土地の 再分配、つまり大土地所有者の土地を取り上げ、それを貧しい農民に分ける ことを期待していた貧農も不満を持った。また身体を抵当とする借財の禁止に よって借金の道を閉ざされた人々の生活も問題であった。双方から不満を もたれたソロンは、国外に出て各地を旅行した。帰国後、僭主の出現に警告を したが効果なく、自分の法が行われないことを悲しみながら亡くなった。

 ソロンの改革後の30年間は、アテネは混乱の連続であった。当時、 3つの党派があり、対立していた。これは地域的な対立でもあり、中央の平野を 地盤とし寡頭政治を求めた平野党、中庸の政体を求める海岸党、そして山地党は 貧しい者の党で民主政治を要求した。

 この山地党の首領であった名門出身の ペイシストラトス(前600頃〜前528)が、前560年に山地党を率い、親衛隊と ともにアクロポリスを占領して僭主となり、政権の座についた。僭主とは貴族と 平民の対立を利用して非合法な手段で独裁権を握った者をいう。

 彼は、後に反対派によって2度亡命を余儀なくされるが、三たび僭主と して政権を担当した。彼の政権は手工業者・商人の支持を背景に中小農民を 支柱とし、農業奨励と小農民保護を政策の中心とした。また5%の地租を課して アテネの財政力を高めた。さらに手工業や海上発展にも力を注いだ。彼の人柄は 穏和で親しみやすく、ソロンの国政を変更せず巧みな政治運営を行ったので 、後世の人々からは理想の政治といわれた。

 しかし、彼は自分の一族を高官に つけたり、また彼の二人の子の時には僭主政治は暴政と化したので、僭主は 英語のtyrant(暴君)の語源となった。ペイシストラトスの長男のヒッピアスは 弟が暗殺された後、暴虐となり、前510年にはスパルタ王の軍がアクロポリスを 包囲し、約50年間続いた僭主政治は終わりを告げた。ヒッピアスは国外に 追放され、のちペルシア戦争の際には、ダレイオス1世の案内役をつとめたりした。

 クレイステネス(生没年不明 )は名門の出身で、民衆の支持を得て ヒッピアスを打倒し、貴族派がスパルタ王と結んで寡頭政治を樹立しようと した時、民衆と手を結んで民衆の力でスパルタ王を退去させ、前508年に最高官の アルコンとなり、いわゆる「クレイステネスの改革」を行った。そのなかで 最も有名なのが、陶片追放(オストラシズム)である。

 これは市民が僭主に なる恐れのある人物の名前を陶器の破片(オストラコン)に書いて投票し、 投票総数が6000票以上あったとき、最高得票者1人が10年間、国外に追放される 制度である。前487年にはじめて施行されたが、後には政敵を陥れる手段に 悪用され、有能な政治家が追放されたため、前5世紀末以降中止された。

 もう1つの重要な改革が、従来の貴族の権力基盤となっていた古い血縁的な4部族制を 改めて、市域・海岸・内地の3つの地域に分け、各々をさらに10の小地域に分け、 機械的に組み合わせて地域別による10部族制を創設し、各部族から50人ずつの 代表を選出し、「500人評議会」を創設した。また毎年各部族から1名、計10名の 将軍を新たに選びんだ。将軍は、アテネ民主政下で最重要官職となった。以後、 人々は居住地域によって部族が決まり、家柄を表に出させないようにした。 「500人評議会」は、世界史上最も古い比例代表制である。これによってアテネの 民主政の基礎が確立した。

 小アジアの西岸のイオニア地方には、ミレトスを中心とする多くの植民市 が建設されていた。当時、東方ではアケメネス朝ペルシアが大発展を遂げ、 小アジアにも進出し、イオニア諸都市を支配下に置いた。ペルシアはこの イオニア諸都市に専制政治・僭主政を強制し、課税した。

 これに対して、 前500年にミレトスを中心とするイオニア諸都市が反乱を起こした。イオニア 諸都市はギリシア本土へ救援を依頼したが、スパルタは応じなかった。前494年、 ペルシアはミレトスを占領・破壊し、反乱は鎮圧されたが、このイオニアの 反乱の際、アテネが20隻の軍艦を派遣したことがペルシアに懲罰の軍を派遣 する口実を与えることとなり、こうして歴史上有名なペルシア戦争(前500〜 前449、狭義には前492〜前449)が始まった。

 第1回ペルシア戦争 前492年、ダレオイス1世はトラキア、マケドニア 遠征を行ったが、アトス岬において猛烈な北風のために艦艇300、兵員2万人を 失い、失敗に終わったが、エーゲ海北岸に対するペルシアの支配権を確立した。

 第2回ペルシア戦争 前490年、ついにダレイオス1世は、アテネ・ エレトリアに対する報復の大軍を動かした。エレトリアもイオニアの反乱の際、 アテネとともに軍艦を派遣したので、ペルシア軍はまずエレトリアを攻撃、 これを陥落させ、ただちにアテネに向かい、9月初めアテネから東北方のかなり 離れたマラトンへ上陸した。この時ペルシア軍を導いたのが20年前にアテネを 追放されたヒッピアスであった。なぜアテネのすぐ近くに上陸しなかったか 謎である。アテネではマラトンへの出撃をめぐって意見が割れたが、積極作戦を 主張するミルティアデスの意見が入れられ、マラトンに出撃した。

 数日のにらみ合い後、激戦が始まった。10万人のペルシア軍(実際は3〜4万か)と 約1万人のアテネ軍が激突した、有名なマラトンの戦いは、夜明け前に始まり 午前中いっぱいで終わった。結果は、アテネ重装歩兵の密集隊の活躍でアテネ 側の勝利に終わり、ペルシア軍の大敗走となった。戦死者、ペルシア軍約6400名、 アテネ軍約200名であった。この有名な戦いは、今日「マラソン」によって記念 されている。激戦が終わった直後、エウクレスという市民が完全武装のままで アテネまで35kmを力走、”我ら勝てり”と一言いうなり息が絶えたと伝え られている。この故事を記念して、第1回オリンピック・アテネ大会で現在の マラトン村からアテネまでの約40kmの競技が行われ、後に42.195kmとなり 現在に至っている。




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