2 自由主義と国民主義の進展

7 ロシアの南下政策と東方問題(その1)

 ロシアは、17世紀に東方のシベリア方面へ領土を拡大し、18世紀には北方戦争(1700〜21)やポーランド分割(1772〜95)によって西方のバルト海方面へ領土を拡大した。さらに南方に向かっては、18世紀以後黒海へ進出し、19世紀に入ると不凍港の獲得とウクライナの穀物輸出の通路を求めて黒海から地中海への進出をはかる南下政策を積極的に推進した。

 19世紀に自由主義・国民主義がさかんとなる中で、オスマン=トルコ帝国の支配下におかれていた諸民族は独立運動を起こすようになった。しかし、これらの諸民族は自力では独立を達成する力がなかったので、オスマン=トルコの衰退に乗じてトルコ領内への進出をねらっていたロシアを初めとするヨーロッパ列強はこれに干渉し、オスマン=トルコ帝国の領土と民族問題をめぐって国際的諸問題が起こった。西ヨーロッパ列強はこの問題を「東方問題」と呼んだ。

 ギリシアがイギリス・フランス・ロシアの援助で独立したのはその最初の出来事である。このギリシアの独立の際、孤立したオスマン=トルコを援助したのがムハンマド=アリーであった。

 ムハンマド=アリー(メフメト=アリー、1769〜1849)は、マケドニア生まれのアルバニア人でオスマン=トルコに仕えて傭兵隊長となり、ナポレオンのエジプト遠征の際にはアルバニア連隊を率いて戦い、ナポレオンの撤退後、エジプト太守(総督、パシャ)となり(1805)、ムハンマド=アリー朝(1805〜1953)を創始した。1811年にはエジプト全土を支配下において事実上独立し、行政・産業・教育・軍事の西欧化を進め、エジプトの近代化に努めた。

 ムハンマド=アリーは、ギリシアの独立戦争(1821〜29)ではオスマン=トルコを援助してクレタ・キプロス島を獲得した。しかし、さらにシリアを要求して二度にわたってオスマン=トルコと戦った(エジプト=トルコ戦争(エジプト事件)、1831〜33、1839〜40)。

 1831年、ムハンマド=アリーはシリアを要求してオスマン=トルコと開戦し、翌1832年には全シリアを占領した(第一次エジプト=トルコ戦争、1831〜33)。この時ロシアはトルコを援助しようとしたが、ロシアの南下を恐れるイギリスとフランスがトルコに干渉し、トルコはエジプトの独立を承認してシリアを割譲した。

 これを不満とするオスマン=トルコは、1833年7月にウンキャル=スケレッシ条約を結び、ロシアと相互援助を約した。この条約は、オスマン=トルコにロシア援助義務の負担を免除する代償として、ロシア以外の外国軍艦に対してダーダネルス・ボスフォラス両海峡を閉鎖するという秘密条項を含んでいたのでイギリス・フランスは強く反発した。

 これによってロシアはダーダネルス・ボスフォラス両海峡を確保して、ロシアの南下政策が成功するかに見えたが、第二次エジプト=トルコ戦争の勃発によってロシアの南下政策は阻止された。

 1839年、ムハンマド=アリーはさらにエジプト・シリアなどの領土の世襲権を要求し、これを討伐しようとしたオスマン=トルコとの間で第二次エジプト=トルコ戦争(1839〜40)が起こった。ロシアの援助を受けたトルコはシリアに出兵したが、フランスの援助を受けたエジプトに大敗した。

 この情勢を見たイギリスのパーマストン外相は、フランス勢力がエジプトに定着することを恐れてトルコ保全策に転じ、イギリス・ロシア・プロイセン・オーストリアとの間に四国同盟を結んでトルコを援助した。このため国際的孤立化を恐れたフランスはエジプト援助をうち切り、孤立したムハンマド=アリーは屈した。

 1840年にロンドン会議が開かれ、ロンドン四国条約が結ばれた。この条約により、ムハンマド=アリーのエジプトでの世襲権を認める代わりに、彼の世襲領域をエジプトとスーダンに限定し、シリアを放棄させた。またウンキャル=スケレッシ条約も破棄され、外国軍艦のダーダネルス・ボスフォラス両海峡の通航が禁止され、これによってロシアの南下政策は阻止された。

 しかし、ニコライ1世は南下政策をあきらめず、たまたま聖地管理権問題が起きるとオスマン=トルコに抗議するとともに、トルコ領内のギリシア正教徒の保護を要求し、これが拒否されるとトルコに宣戦し、クリミア戦争(1853〜56)を引き起こした。




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