2 フランス革命とナポレオン

3 王政の動揺

 ミラボーの死後(1791.4)、宮廷・貴族を中心とする反革命派の策動はにわかに活発となった。ミラボーは宮廷に出入りし、財政的な援助を受けて革命派の内情を国王に知らせていたので、彼の死は宮廷にとって大きな打撃となった。

 そのため、ミラボーが病死して国民議会とのパイプが切れると、国王や王妃は内外の反革命勢力に頼ってパリから脱出し、国外へ逃亡する計画を進めた。

 1791年6月20日の深夜、国王一家はテュイルリー宮殿を脱出した。
 計画では、パリと国境のほぼ中間のシャロン近くで騎兵隊と落ちあい、騎兵隊に守られてベルギーとの国境近くまで行けば、ベルギー側にはオーストリア軍が待機していることになっていた。しかし、色々の事情で出発の時から予定の時間に遅れ、しかも特別仕立ての豪華な大型馬車に多くの物を積み込んだためにスピードが出ず、シャロン近くの町で騎兵隊と落ちあう時間に4時間も遅れてしまった。そのため、そこで待っていたショワズール公は計画が変更あるいは中止になったと考えて引き返してしまった。

 国王一家は待っているはずの騎兵隊がいないのでさらに先に進んだ。しかし、この時革命派のある男が国王一家だと見抜き、先回りして事態をふれまわり、21日の真夜中に国境に近いヴァレンヌという町でついに馬車はとめられた。町の警鐘が乱打され、人々が集まって騒ぎ出した。国王一家は有力者の家で一夜を明かした。

 この事態はパリに通報され、国民議会は身柄引き取りのために議員を派遣した。国王一家は厳重な警護のもとで、25日の夕方にテュイルリー宮殿へ連れ戻されて軟禁状態におかれた。

 この有名な「ヴァレンヌ逃亡事件」は国民に大きな衝撃を与えた。国王が国民よりも外国の宮廷の方を信頼していたということから、国民の国王に対する信頼は完全に失われ、以後共和主義が急速に台頭することとなった。

 ヴァレンヌ逃亡事件の2ヶ月後、神聖ローマ皇帝(オーストリア皇帝)レオポルト2世(位1790〜92、マリ=アントワネットの兄)はプロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム2世(位1786〜97)とピルニッツで会見し、列国の君主にフランスに対する共同抗議を呼びかけてフランス王権の回復を求める宣言を発し、革命に干渉する用意があることを示した(ピルニッツ宣言、1791.8)。このピルニッツ宣言は、フランス人の愛国心を燃え上がらせ、革命戦争の誘因となった。

 1791年9月3日、国民議会はフランス最初の憲法である「1791年憲法」を採択した。
 1791年憲法は、人権宣言を前文として207条からなり、立憲君主制・制限選挙・一院制を主な内容としている。国王は宣戦・条約締結などを除く行政権と議会が決めた法律に対する拒否権を持っていた。また選挙権は一定額以上の納税者に与えられた。

 憲法制定の役割を終えた国民議会は解散し(1791.9.30)、1791年10月1日に立法議会が召集された。立法議会ではフイヤン派とジロンド派が対立した。

 フイヤン派は、自由主義貴族や富裕市民を代表する立憲君主派で、ラ=ファイエットやバルナーヴ(1761〜93、第三身分の代表として国民議会で活躍、ヴァレンヌ事件以後国王に接近した)らが指導者であった。

 これに対してジロンド派は、中産階級や商工業者を地盤とし、穏和な共和主義を唱えた。 有力議員がジロンド県から選出されていたところからこの名称で呼ばれた。

 立法議会が直面した最大の問題は対外戦争であった。この頃、亡命貴族が外国と結んで国境に軍隊を集め、国内でも反革命の動きが活発になったので、ジロンド派の中でも、戦争によって内外の反革命勢力を一挙に倒してしまおうとする主戦論が強まった。

 1792年3月、ジロンド派内閣が成立すると、国王に迫ってオーストリアに宣戦させ(1792.4.20)、ここにフランス革命戦争(1792.4〜1799、1799〜1815まではナポレオン戦争と呼ばれる)が始まった。

 しかし、開戦はしたものの、貴族の司令官には戦意がなく亡命する者も多く、ベルギー戦線では敗北と後退が続き、6月にはジロンド内閣が崩壊した。さらにオーストリアと同盟を結んだプロイセン軍がライン地方に集結し、フランス国境に迫ってきた。

 その報を受けた立法議会は「祖国危機に瀕す」という非常事態宣言を発し(1792.7.11)、これに応じて各地から義勇軍がパリに集まってきた。義勇軍は、今までの豊かな市民を中心に結成された国民軍とは異なり、一般の民衆や農民が祖国と革命の防衛のために自発的に応募してきた義勇兵からなり、装備や訓練は不十分であったが闘志にあふれていた。

 この時、マルセイユから来た義勇軍によって歌われて広まったのが、現在のフランス国歌「ラ=マルセイエーズ」である。

 「起て、祖国の子らよ 今ぞ、光栄の日は来た! 吾らに向いて圧制の 血なまぐさき旗ひるがえる! 君聞くや、野に山に かの暴兵どもの吼えわめく声を? 彼らはすでに吾らの腕に迫り 吾らの子、吾らの妻を殺さんとする! 武器を取れ、市民たちよ! 汝らの軍隊を作れ! 進め! 進め! けがれた血で吾らの畝をうるおそう。」(山川出版社、史料世界史より)

 工兵大尉ルージュ=ド=リールが作曲したこの革命歌は、初めは「ライン軍の歌」として歌われたが、南方のマルセイユ方面に伝わり、そこからやってきた兵士達によって広められたのでラ=マルセイエーズと呼ばれるようになり、1875年に正式にフランス国歌となった。

 「祖国危機に瀕す」という非常事態宣言が出され、各地から義勇軍が集まり、前線におもむいた。しかし、この危機にあたっても国王は義勇軍を認めず、かえって外国と通謀し、王妃は敵軍の司令官に一刻も早くパリに入り国王一家を救出してくれるように要請した。

 これを受けて司令官は「もし王室に少しでも危害が加えられるならば、パリ全市を破壊して、永久に記念となるような復讐をするであろう」という威嚇宣言を発した。

 かねてから国王がオーストリアと通謀していることを疑っていたパリ民衆(サンキュロット、革命派の都市民衆は、当時の貴族や富裕市民が着用していた半ズボン(キュロット)をはかない者の意味でサンキュロットと呼ばれた)と義勇兵は、ジャコバン派の指導のもとで、1792年8月10日早朝、テュイルリー宮殿を襲って王宮内に侵入し、近くの議場に難を避けていた国王を捕らえた(8月10日事件)。

 立法議会は、ただちに王権の停止を宣言し、男子普通選挙による国民公会の召集を決議した。そして3日後に国王一家はタンプル塔(12世紀に造られた城のなかの高い石の塔)に幽閉された。

 この間も、戦況は依然として不利であったが、1792年9月20日、フランス軍はパリ東方の小村ヴァルミーでパリに迫ろうとしていたプロイセン軍を初めて撃退した(ヴァルミーの戦い)。この戦いは民衆の義勇軍が歴戦の職業軍人の軍隊に勝利をおさめたという意味で歴史的な戦いであった。

 この戦いをプロイセン軍の陣中で目撃していたドイツの文豪ゲーテ(1749〜1832)は「ここから、そしてこの日から、世界史の新しい時代が始まる」と書いた。  




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