2 フランス革命とナポレオン

2 革命の勃発(その1)

 フランスは、ルイ14世の晩年にはたび重なる侵略戦争と宮廷の奢侈により、すでに国家財政は破綻のきざしをみせていた。

 次のルイ15世(位1715〜74、ルイ14世の曾孫)の時代に、ヨーロッパにおけるオーストリア継承戦争(1740〜48)・七年戦争(1756〜63)、それと並行しておこった新大陸のジョージ王戦争(1744〜48)・フレンチ=インディアン戦争(1755〜63)、さらにインドにおける植民地争奪戦などで莫大な戦費を費やし、国家財政はますます悪化した。さらにルイ16世(位1774〜92、ルイ15世の孫)は、アメリカ独立戦争(1775〜83)に介入し、20億リーブルの戦費を費やした。

 当時のフランスの国庫収入は年間約5億リーブルといわれ、ルイ14世以来の財政赤字はつもりつもって1789年には約45億リーブルに達していたといわれている。そのため革命直前のフランスは国庫収入の半分以上を国債の利子の支払いに充てなければならないほどの財政危機に陥っていた。

 ルイ16世は、即位後、重農主義者のテュルゴー(1727〜81)を財務総監に任命して(1774)財政の立て直しをはかった。彼は穀物取引の自由化・ギルドの廃止などの自由主義改革による財政再建を企てたが、特権階級の反対を受けて失脚した(1776)。

 テュルゴーの後、スイス生まれの銀行家であるネッケル(1732〜1804)が財務総監に任命された(1777〜81、88〜90)。ネッケルは宮廷費の削減や貴族への年金の停止など支出の削減によって財政危機を打開しようとしたが王妃や貴族の反対にあって辞職した(1781)。

 ネッケルの財政政策を批判して1783年に財務総監となったカロンヌ(1734〜1802)は、当初積極財政を試みたが成功せず、ついに特権身分の免税特権の打破以外に財政危機は解決できないと考えて改革案を作成し、名士会(近代フランスの身分制諮問議会、三部会と異なり、王族・大貴族・司教・知事・高等法院院長・大都市の市長・地方三部会の代表などからなるメンバーは国王の任命による)を召集してその支持を得ようとしたが、強硬な反対を受けて失脚した(1787)。

 特権身分に対する課税の企てを失敗させた貴族は、さらに特権身分の免税特権を再確認させようとして、1615年以来開かれていなかった三部会の召集を要求し、第三身分もこれに賛同した。

 1788年にはネッケルが再び財務総監となった(88〜90)。ネッケルもこの頃には特権身分への課税(免税特権の廃止)を主張していたが、就任の条件として三部会を1789年5月に召集することを要求し、宮廷もこれを承認した。

 三部会の召集が決定すると、貴族は旧来の三部会の召集を要求したが、第三身分は第三身分の代表者数を他の身分の倍にすること、また三部会においては身分制によらず多数決の議決を要求し、その要求が認められるまでは租税の支払いを拒否するという強硬な態度に出たので、結局貴族は第三身分の代表者数を他の身分の倍にすることを承認し、1789年1月に三部会の召集が公表され、選挙戦が始まった。

 シェイエス(1748〜1836)は、1789年の初めに『第三身分とは何か』と題するパンフレットを著し、三部会召集に際して特権身分を攻撃し、「第三身分とは何か・・・すべてである。今日までのその政治的地位はいかなるものであったか・・・無。それは何を求めたか・・・そこで相当なものになること」と述べて第三身分の権利を主張した。シェイエスは聖職者出身であったが、三部会には第三身分の代表として選出され、革命初期には理論的指導者として活躍した。

 1789年5月5日、選出された各身分の代表者が各地の陳情書をたずさえてヴェルサイユに集まり、三部会の開会式が行われた。

 三部会の各身分の定数は、300・300・600と定められていたが、この時ヴェルサイユに集まったのは第一身分(聖職者)代表308名、第二身分(貴族)代表290名、第三身分(平民)代表594名といわれている。

 しかし、会議は初めから議決方法をめぐって紛糾した。第一身分と第二身分は旧来の身分別の議決を、第三身分は一人一票の合同議決(多数決)を主張した。身分別議決とは、各身分別部会ごとに議決する方法で、例えば特権階級への課税が議題となったとき、第一身分と第二身分は反対、第三身分が賛成しても、反対2・賛成1で否決されるという議決方法である。そのためこの議決方法では第三身分の主張が通る可能性はまずなかった。これに対して一人一票の合同議決の場合では、第一身分・第二身分と第三身分はほぼ同数となり、特権身分の中にも第三身分の主張に同調する進歩的な人々がいたので、第三身分の方が有利になると考えられていた。このため双方ともに譲らず三部会は40日間にわたって紛糾した。

 こうした状況のなかで、シェイエスは第三身分の代表者だけで議会をつくることを主張し、第三身分の代表者達は三部会よりの分離を宣言し、第三身分こそ真に国民を代表するものであるとして「国民議会」(1789.6〜1791.9)と称した(6.17)。第三身分の断固とした態度に動揺した第一身分(聖職者)の部会も国民議会に合流することを議決した(6.19)。

 翌1789年6月20日、国王が議場を閉鎖したので、議員達はヴェルサイユ宮殿内の室内球戯場に集合して会議を開き、憲法制定までは解散しないことを誓い合った。これが有名な「球戯場(テニスコート)の誓い」である。この時の情景は、フランス古典主義の代表的画家であるダヴィドによって劇的に描かれている。

 国王は国民議会を武力を持って解散させようとしたが、聖職者・貴族の中から次々に同調者が現れて国民議会に合流し、もはや身分別審議が不可能となったので、国王はついに国民議会を承認した(6.27)。国民議会は、憲法制定議会と改称して、憲法の制定に着手した(7.9)。

 しかし、国民議会をいったんは承認した国王は保守的な貴族に動かされて外国人傭兵隊をパリ郊外に集結させ、武力による議会弾圧をはかったために事態が急迫した。しかもその責任を問うてネッケルを罷免した(7.11)。

 翌7月12日、前年からの凶作のためにパンが値上がり・不足に苦しんでいたパリの民衆は、当時民衆に人気のあったネッケルの罷免や数万の軍隊がパリを包囲しつつあることに反感を抱き、パリのあちこちに集まり不満や不安をもらしていた。パレ=ロワイヤル広場では、後に革命家として活躍するデムーラン(1760〜94)が6000人の群衆を前に「市民諸君、武器を取れ」と演説し、これに興奮した民衆は武器商を襲って武器を奪い、市民軍も結成された。しかし、武器・弾薬が足りない。

 1789年7月14日、パリの群衆は廃兵院に数万の小銃が蓄えられているという情報を得、廃兵院を襲って3万2000の小銃と20門の大砲を奪った。武器は手に入ったが弾薬が足りない。多くの弾薬がバスティーユ牢獄にあるとの情報を得た群衆は今度はバスティーユに向かった。バスティーユは、15世紀後半に建設された要塞であったが、当時は政治犯を収容する牢獄になっていたので、バスティーユ牢獄は圧制の象徴と見なされていた。

 バスティーユ牢獄に殺到した2万人以上のパリ市民は、100人ほどの守備隊との間での 2時間をこえる激しい砲撃・銃撃戦のすえに、夕方にはバスティーユ牢獄を占領して囚人(たった7人だった)を釈放した。

 バスティーユ牢獄襲撃の翌日に、ラ=ファイエットはパリ国民軍司令官に就任した。

 バスティーユ牢獄襲撃をもってフランス革命の勃発としている。フランス革命開始の日、7月14日はフランスの祭日(パリ祭)となっている。




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