1 アメリカ独立革命

2 独立戦争

 植民地側は、第1回大陸会議(1774)を開いてボストン港の閉鎖やマサチュセッツ州の自治権剥奪などに対してイギリス本国に抗議したが、本国政府と国王は態度を変えず、植民地側とイギリス本国との戦争は避けがたい情勢となった。

 当時、ヴァージニア植民地議会議員として印紙法に反対して独立運動の急先鋒となり、熱烈な雄弁家として知られたパトリック=ヘンリ(1736〜99)は、1775年3月に開かれた非合法の植民地協議会で「われに自由を与えよ、しからずんば死を与えよ」という有名な演説によって本国との武力抗争が避けられないことを説いた。

 1775年4月、ボストンに駐屯していたイギリス本国軍は、ボストン郊外のコンコードに植民地民兵の武器・弾薬が相当集められているという情報を得てこれを押収しょうとした。4月19日早朝、ボストン郊外のレキシントンに到着した約800名のイギリス兵とこれを待ちかまえていた約50名の植民地民兵の間で武力衝突が起こり、アメリカ独立戦争(1775〜83)の火ぶたが切られた。

 レキシントン・コンコードでの武力衝突の知らせはたちまち全植民地に伝えられ、各地から義勇兵が続々と集まってきた。5月には第2回大陸会議が開かれ、6月にワシントンが植民地軍総司令官に任命された。

 ワシントン(1732〜99)は、ヴァージニアの富裕なプランター(プランテーションの経営者)の子に生まれ、兄の死後農場を継いだ(1752)。フレンチ=インディアン戦争(1755〜63)にイギリス軍少佐として従軍し、その後ヴァージニア植民地議会議員となり、イギリス本国の課税に反対し、独立戦争が始まると第2回大陸会議で植民地軍総司令官に任命された(1775)。

 1775年4月に独立戦争が始まったが、独立戦争を支持・推進した独立派(愛国派、パトリオット)はプランター・自営農民・商工業者に支持され、その勢力は植民地人口の約3分の1であり、これに対して独立に反対した国王派(忠誠派、ロイヤリスト)も約3分の1を占め、残りの約3分の1は中立派か無関心であったといわれている。忠誠派(ロイヤリスト)の多くは高級官吏・大商人・大地主であった。

 このような状況にあった植民地の人々の気持ちを一挙に独立の方向に持っていったのが、1776年1月に出版されたトマス=ペインの『コモン=センス(常識)』であった。

 トマス=ペイン(1737〜1809)は、イギリス生まれの文筆家・革命思想家で、ロンドンでフランクリンと出会ってアメリカに渡り(1774)、独立戦争が起きると小さなパンフレットである『コモン=センス(常識)』を出版し、独立の必要と共和政の長所を力説し、独立して共和国になることが常識であると説いた。『コモン=センス(常識)』は数ヶ月で12万部も売れ、独立への機運を盛り上げた。

 さらに1776年7月4日、大陸会議はフィラデルフィアでトマス=ジェファーソン(1743〜1826)らが起草した『独立宣言』を発表した。

 「われわれは、次のことが自明の真理であると信ずる。すべての人は平等に造られ、造化の神によって、一定の譲ることのできない権利を与えられていること。その中には生命、自由、幸福の追求がふくまれていること。これらの権利を確保するために、人類の間に政府がつくられ、その正当な権力は被支配者の同意に基づかねばならないこと。もしどんな形の政府であっても、これらの目的を破壊するものになった場合には、 その政府を改革し、あるいは廃止して人民の安全と幸福をもたらすにもっとも適当と思われる原理に基づき、そのような形で権力を形づくる新しい政府を設けることが人民の権利であること。・・・」(山川出版社「詳説世界史」より)という有名な文で始まる『独立宣言』は、まず基本的人権・人民主権・革命権などを主張し、次に当時のイギリス国王ジョージ3世(位1760〜1820)の暴政を列挙し、最後に13州の独立を宣言したもので、後のフランス革命の『人権宣言』とともに近代民主政治の基本原理となったが、独立宣言の最初の部分の基本的人権・人民主権・革命権などの主張には、イギリスの啓蒙思想家ロックの思想的影響が強く表れている。 

 なお独立宣言の起草者5人の中には、トマス=ジェファーソン(後の第3代大統領)の他にフランクリンやジョン=アダムス(後の第2代大統領)も入っている。

 独立宣言を発表した翌年に、大陸会議はアメリカ最初の憲法である「アメリカ連合規約」を承認し、「アメリカ合衆国(United States of America)」の名称を採択した(1777.11)。

 この間、独立軍は、初め武器・弾薬・食料の不足などで苦戦を続けていたが、ワシントンの指揮下でよく戦い、サラトガの戦い(1777.10)でイギリス軍数千を降伏させた。

 この勝利を見て、翌年フランスはアメリカ合衆国を承認し、米仏同盟を結んでイギリスに宣戦して参戦した(1778)。このフランスの参戦には、駐仏大使として活躍したフランクリン(1706〜90、独立宣言の起草者の一人、新聞発行・出版業・ジャーナリズムの他に政治・外交・科学の分野でも活躍した)が大きな役割を果たした。またスペインもフランスと同盟してイギリスに宣戦した(1779)。

 さらにフランスの自由主義貴族ラ=ファイエット(1777〜81年に義勇軍を率いて独立軍に参加)やポーランドの愛国者であるコシューシコ(1776〜84年にワシントンの副官として活躍)、そしてフランスの空想的社会主義者のサン=シモンなどのヨーロッパ人が義勇兵として独立軍に参加した。

 1780年には、ロシアのエカチェリーナ2世の提唱によって、ロシア・スウェーデン・デンマーク・プロイセン・ポルトガルが武装中立同盟を結んだ。武装中立同盟は、イギリスの中立国船舶の規制に対抗し、中立国船舶の航行の自由と禁制品以外の物資の通商の自由を主張したものであったが、イギリスを完全に孤立させ、独立軍の士気を高める役割を果たした。

 このように国際情勢が独立軍に有利に展開する中で、ついにヨークタウンの戦い(1781)で、米仏連合軍に包囲された7000のイギリス軍は降伏し、大勢は決した。

 イギリスは1783年のパリ条約で、アメリカ合衆国の完全独立を承認し、合衆国にミシシッピ川以東のルイジアナを割譲した。    




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