1 ルネサンス

5 技術と科学精神のめざめ

 「自然と人間の発見」(スイスの歴史家ブルクハルトの言葉)は、ルネサンスを端的に表した言葉として有名である。

 ルネサンスの時代には、自然の観察や実験が重んじられた科学や技術が著しく発達した。 

 技術の分野では、火薬(火砲)・羅針盤・活版印刷のいわゆる三大発明(正確には発明でなく改良である)が成しとげられ、以後のヨーロッパの発展に大きな役割を果たした。

 火薬は、中国の宋・元で実用化され、イスラムを経て、13世紀にヨーロッパに伝わり、大砲や鉄砲に使用され、従来の戦術を一変させて騎士階級の没落を早めた。

 羅針盤も、宋代に実用化されたものが、14世紀にイタリアで改良され、大洋航海を容易にし、大航海時代を促進した。

 ドイツ人のグーテンベルク(1400頃〜68)は、1440年頃合金活字と加圧式の印刷機を発明し、1450年頃ラテン語聖書を初めて印刷した。印刷本は従来の手写本に比べて約10分の1の値段となり、書物やパンフレットの出版を容易にし、書物と知識の普及に大きく貢献した。

 ヨーロッパで活版印刷が盛んとなった背景には製紙技術の普及があった。中国で発明された製紙法は8世紀にイスラムへ、12世紀頃に西ヨーロッパに伝わり、製紙業の発達により紙が大量に安価に作られるようになり、それまでヨーロッパで使用されてきた羊皮紙に取って代わった。これにより従来大変高価であった書物が安くなり、書物の大衆化が可能になった。

 中世ヨーロッパでは、科学精神はキリスト教の教義によって抑圧されてきたが、ルネサンス期には自分の目で見て判断しようとする合理的・科学的な精神が生まれ、地動説などに繋がっていった。

 コペルニクス(1473〜1543)は、ポーランドに生まれ、クラクフ大学で医学・天文学を学んでイタリアに留学し(1495〜1505)、留学中に古代の太陽中心説(地動説)に接し、カトリック教会公認の天動説に疑問を抱くようになった。帰国して聖職につき、天文観測を続けるなかで地動説を確信したが(30年頃)、教会との争いを恐れて公表せず、友人の勧めで「天球回転論」(1543年刊)が刊行されたのは死の直前であった。

 「天球回転論」は激しい非難をあび、のちにカトリック教会の禁書とされたが、コペルニクスはすでに亡くなっていたので教会の迫害を受けることはなかった。

 しかし、ジョルダーノ=ブルーノ(1548〜1600、イタリアの学者)は、コペルニクスの説を主張したために捕らえられ、7年間投獄された後、宗教裁判によって火刑となった。

 ガリレオ=ガリレイ(1564〜1642)は、ピサに生まれ、ピサ大学で医学を志したが、数学・物理学に転向し、25歳でピサ大学の教授となった。のちにパドヴァ大学に転じ、自ら製作した望遠鏡で天文観測を続け、木星の衛星を発見したり、コペルニクスの地動説に有利な事実を多数発見し、コペルニクスの地動説を側面から証明した。

 このためローマの異端審問所に召喚されて宗教裁判にかけられ(1616)、地動説に関する著述と教授を禁止された。しかし、ガリレイはその後も観測を続け、「天文対話」(1632)を刊行したので、宗教裁判にかけられ、地動説の放棄を誓約させられた(1633)。この時ガリレイが「それでも地球は動く」とつぶやいたという伝説は、彼の無念な気持ちをよく表している。その後フィレンツェ郊外に幽閉され、その地で没した。

 地動説は、その後ケプラー(1571〜1630、ドイツの天文学者、惑星の運行の法則を発見、地動説を数理的に完成した)やホイヘンス(1629〜95、オランダの物理・天文学者)そしてニュートン(1642〜1727)らによって力学的に基礎づけられ、18世紀末までには完全に実証された。 




目次へ戻る
次へ