1 アメリカ独立革命

1 イギリスの植民地政策

 イギリスは、17世紀初頭、北アメリカ東岸に最初の永続的な植民地であるヴァージニア植民地を建設し(1607)、18世紀前半までに13の植民地を設立した。イギリスの13植民地は、信仰の自由や政治的な自由を求めて新大陸に移住した人々や貿易・開拓の利益を求めて移住した人々によって設立された。

 1620年にピルグリム=ファーザーズ(巡礼始祖、メイフラワー号で移住した102名のピューリタンの一派の人々)によって設立されたプリマス植民地(1691年にマサチュセッツ植民地に併合)は信仰の自由を求めて新大陸に移住したピューリタンによって設立された植民地である。マサチュセッツ植民地も1629年にピューリタンによって建設された。

 メリーランド植民地(1634年設立)は、ボルティモア卿が国王から特許状を得て、カトリック教徒の植民地として設立された。またペンシルヴェニア植民地(1681年設立)は、ウィリアム=ペンによってクウェーカー教徒(17世紀中頃に創設されたプロテスタントの一派、徹底した平和愛好団体で戦争に反対し絶対に武器をとらない)のために建設された。その他、ニューヨークはイギリスがオランダからニューアムステルダムを奪取して設立された(1664)植民地であり、13植民地の最も遅れて最南部に建設されたジョージア植民地は本国の債務・貧困者救済のために建設された(1733)植民地である。

 このようにして、17世紀初頭から18世紀前半までの約130年間に北アメリカ東岸に13植民地が建設されたが、その地域は亜熱帯から亜寒帯に広がっていたので地域によって経済的には大きな差があった。南部では、主に黒人奴隷を使ってたばこ・米・藍などを栽培するプランテーションが盛んであったのに対し、北部では海運・造船・農業・漁業が盛んであった。

 各植民地は、本国の議会制度にならって植民地議会を設けるなど(最初の植民地議会は1619年にヴァージニア植民地で設立された)自治の制度を発達させていた。またイギリスからの移住者の多くが中産階級の人々で、13植民地では早くから出版・新聞の発行(1704)・大学の設立(ハーヴァード大学は1636年に、イェール大学は1701年に設立された)が行われたことも重要な特色であった。

 イギリス本国は、植民地に対しては植民地の自治を認める一方で、重商主義政策をとり、本国の利益のために商工業の発展を抑える政策をとり続けた。

 例えば、羊毛品法(1699)では本国の羊毛産業を保護するために植民地の毛織物の輸出を禁止した。糖蜜法(1733)は、植民地が西インド諸島の外国植民地から輸入していた安い糖蜜や砂糖に輸入税を課したものだが、これは西インドの英領ジャマイカのさとうきびプランター(プランテーション経営者)を保護するための条例であった。さらに鉄法(1750)では、本国の製鉄業を保護するために植民地の鋼鉄用溶鉱炉や圧延工場の建設を禁じた。

 これらの重商主義諸政策は植民地の経済に打撃を与えたが、「有益な怠慢」という言葉に表されているように、例えば密輸に対する取り締まりも不十分であったし、当時はフランス植民地から植民地を守るために本国の援助が必要であったために、本国に対する反抗は起こらなかった。

 しかし、フレンチ=インディアン戦争(1755〜63)でイギリスが圧勝し、1763年のパリ条約でカナダ及びミシシッピ以東のルイジアナを獲得してフランスの脅威がなくなったこと、また七年戦争(フレンチ=インディアン戦争)の戦費と獲得した広大な領土を統治するための費用をまかなうために重商主義を強化し、課税を強化したので植民地人の不満が高まった。

 1764年には糖蜜法に代えて砂糖法を制定して密貿易への処罰を強化し、さらに翌1765年には印紙法を制定した。

 印紙法は、植民地で発行される全ての法律・商業関係書類、新聞・暦などの刊行物に印紙を貼ることを要求した法律で、その収入を植民地に駐屯する軍の費用に充てようとした。印紙法は従来の法のように一部の人々にだけ影響を与える法でなく、全植民地の全ての職業・階層の人々に影響を与える法であったので、植民地住民は強硬に反対し、至る所で反対運動が起こった。

 ヴァージニア植民地議会は、印紙法反対決議案を可決し、ニューヨークでは9植民地の代表が集まって印紙法会議が開かれた。植民地側は、有名な「代表なくして課税なし」、植民地は本国議会に代表を送っていないから、本国議会は植民地人に課税出来ないという論理を主張し、イギリス商品の不買運動を行って抵抗した。このためイギリス商人は大きな不利益を受けたので、印紙法は翌年撤廃された。

 しかし、イギリス本国は1767年にタウンゼント諸法を制定し、植民地に輸入されるペンキ・紙・ガラス・茶に輸入税を課した。これに対しても植民地側はイギリス商品の不買運動を行って抵抗し、本国商人も反対したので、輸入税は1770年に茶税を残して撤廃された。

 さらに1773年には、当時経営難に陥っていた東インド会社を救済するために茶法を制定し、東インド会社にアメリカ植民地への茶の直送を認め、茶の独占販売権を与えた。

 この茶法は、当然植民地の商人に大きな打撃を与えたので、彼らと茶法に反対する急進派の人々がインディアンに変装して、1773年12月16日夜、ボストン港に入港していた東インド会社の3隻の船を襲って茶箱342箱を海中に投棄するという出来事が起きた。これが有名なボストン茶会事件(Boston Tea Party)と呼ばれる出来事で、独立戦争の導火線となった。

 イギリスは、この事件に対する報復として、翌1774年に強圧的諸法を制定し、ボストン港の閉鎖・マサチュセッツ州の自治権剥奪などを行ったので、植民地側は1774年9月にフィラデルフィアで第1回大陸会議(13植民地(13州)の代表で構成された植民地側の最高の連絡・意志統一機関)を開いて本国に抗議し、強圧的諸法の撤廃を求める決議や通商断絶同盟の結成を採択した。

 こうして植民地側とイギリス本国との戦いは避けがたい情勢となった。  




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