2 イギリス立憲政治の発達

3 王政復古と名誉革命

 クロムウェルの死後、子のリチャード=クロムウェルが護国卿の地位を継いだが、その頃開かれた新議会では長老派が勢力を盛り返し、王党派との妥協をはかった。

 リチャード=クロムウェルが護国卿を辞任すると、長老派勢力が中心となって、フランスに亡命していた(1651〜60)チャールズ1世の子を国王として迎え、彼は1660年に帰国してチャールズ2世(1630〜85、位1660〜85)として即位した(王政復古)。

 ただし、この王政復古にはいくつかの条件がつけられていたが、チャールズ2世は帰国の直前にオランダのブレダで宣言を発し(ブレダ宣言、1660)、父チャールズ1世の死刑宣告書にサインした生存中の政治犯の大赦・ピューリタン革命中に没収あるいは売却された土地に対する購入者の権利の承認・信仰の自由・軍隊の未払い給与の支払いなどを約束した。

 しかし、チャールズ2世は即位後はこの公約を守らず、すでに死亡していたクロムウェルの墓をあばいて遺体を絞首刑にしたり(1661)、多くの生存者を死刑や投獄刑に処した。また革命中に没収・売却された土地を無償で元の所有者に戻したり、宗教についてもピューリタンを地方の公職から追放する(1661)などピューリタンに対する圧迫を強めた。そのためピューリタンの勢力は次第に衰え、ジェントリや商工業者の中には国教会に改宗するものも多かった。

 さらにフランス亡命中にルイ14世の影響を受けていたチャールズ2世は、ルイ14世と密約を結び(ドーヴァー密約、1670)、ルイ14世のオランダ侵略を支援することやカトリックの復活を約束した。

 チャールズ2世のカトリック擁護・復活政策に対して議会は、1673年に官吏と議員を国教徒に限るという審査法(審査律)を制定し、カトリック教徒を公職から追放した。

 さらに1679年には人身保護法(人身保護律)を制定し、国民を不当に逮捕しないことを定めた。これに対してチャールズ2世は議会を開かないことで(1681〜85)対抗したために議会との対立がますます強まった。

 王政復古後の1661年に召集された新議会では王党派が多数を占めていたが、もはや国王は課税権を持たず、財政権は議会が握っていたので、国王は議会を無視して政治を行うことは出来ず、議会は立法府としての機能を発揮し始めていた。こうした状況の中で1670年代末頃からトーリー党とホイッグ(ウィッグ)党という2つの政党が生まれた。

 チャールズ2世には子がなかったので、王弟でカトリック教徒のヨーク公(後のジェームズ2世)の王位継承が大きな問題となっていた。

 トーリー党(反対派からつけられたあだ名でアイルランドの無法者の意味)は、王弟ジェームズの王位継承排除法案への反対者で組織された。貴族や地主に支持され、王権や国教会擁護を主張した。トーリー党は後に保守党に発展していく。

 これに対してホイッグ党(トーリーが呼んだあだ名でスコットランドの謀反人の意味)は、王弟ジェームズの王位継承排除法案に賛成する人々で組織された。都市の商人や非国教徒の支持を受け、議会を中心とし王権を制限することを主張した。ホイッグ党は後に自由党に発展していく。

 王弟ジェームズの王位継承排除法案は下院を通過したが、上院で否決され、1685年にチャールズ2世が亡くなると、王弟ジェームズがジェームズ2世として即位した。

 兄のチャールズ2世よりさらに反動的であったジェームズ2世(1633〜1701、位1685〜88)は、即位すると専制政治の強化とカトリックの復活をはかり、議会と対立した。ただ彼には男子がなく、ステュアート朝の断絶が予想されたので、トーリー党が多数の議会はあまり強く抵抗しなかった。

 しかし、1688年に王子が誕生すると、トーリー党とホイッグ党は結束し、ジェームズ2世の長女メアリの夫・オランダのオラニエ公ウィレム(後のウイリアム3世)に招請状を送り、武力援助を要請した。

 オラニエ公ウィレムが、14000の軍を率いてイギリスに上陸すると、軍や臣下にも見放されたジェームズ2世は抗戦をあきらめてフランスに亡命した(1688.12)。

 翌1689年2月、議会は王位の空席を宣言した後に「権利の宣言」を議決し、オラニエ公ウィレムとメアリの即位の条件として提出した。両者はこれを承認し、共同統治者ウイリアム3世(位1689〜1702)ならびにメアリ2世(位1689〜1694)として即位した。これが名誉革命(1688〜89)である。イギリス人はこの無血革命を誇ってGlorious Revolutionと呼んだが、日本では名誉革命と訳されている。 

 議会は同年12月、「権利の宣言」を「権利の章典」として制定した(1689)。権利の章典は、全13項目から成るが、これにより王権に対する議会の優越が確認され、イギリス立憲王政が確立された。イギリス憲法史上最も重要な文書である権利の章典の主な項目は次の通りである。
 1 王は、その権限によって、議会の同意なしに、法の効力を停止したり、法の執行を停止したりする権力があるという主張は違法である。
 4 国王大権を口実として、議会の承認なしに、議会が承認するよりも長期にわたり、また議会が承認するのと異なる方法で、王の使用のために金銭を徴収することは違法である。   
 6 議会の同意しない限り、平時に王国内で常備軍を徴募し維持することは、法に反する。
 8 国会議員の選挙は自由でなければならない。
 9 議会での言論の自由や討論や議事手続きは、議会以外のいかなる裁判所や場所でも弾劾されたり問題とされてはならない。
13 また、すべての苦情を除き、法を修正・強化・保持するため、議会はしばしば開かれなければならない。・・・   (山川出版社「詳説世界史」より)




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