2 イギリス立憲政治の発達

2 ピューリタン革命

 1642年、ついに王党派と議会派の間で内乱が始まった。
 王党派(国王派)は経済的な発展が遅れたイングランド西北部を地盤とし、貴族・特権商人・保守的なジェントリなどに支持され、宗教的には国教徒が中心であった。

 これに対して、議会派はロンドンを中心に商工業の発達したイングランド東南部を地盤とし、進歩的なジェントリ・ヨーマン・商工業者などに支持され、宗教的にはピューリタンが中心であった。

 戦況は初めは王党派が優勢であったが、やがてオリヴァ=クロムウェルが鉄騎隊を編成してからは次第に議会派が優勢となった。鉄騎隊は、クロムウェルが信仰心にもえるピューリタンのジェントリ・ヨーマンを中心に編成した騎兵隊で、規律と闘志にすぐれ、議会派の勝利に大いに貢献した。

 議会派軍はネーズビーの戦い(1645)で決定的な勝利をおさめ、チャールズ1世はスコットランドに逃げ込んだが、議会派に身柄を引き渡されて幽閉され(1647.1)、第1次内乱は終わった。 

 しかし、この頃から議会派内部では長老派と独立派の対立が起こっていた。長老派と独立派の名称はピューリタンの派の名称に由来している。

 長老派は、長老教会制度、すなわち個別の教会が長老会の支配下におかれるとともに、全国の教会が長老会の指導下におかれる全国的な統一教会の実現をめざした。政治的には国王と妥協して立憲王政の実現をめざし、進歩的なジェントリやロンドンの大商人に支持された。

 これに対して、独立派は個別の教会の自主性を尊重する教会制度をめざした。政治的には、最初は王権の制限と議会主権を主張したが、後には制限選挙による共和政を主張し、ヨーマンや商工業者に支持された。クロムウェルはこの独立派の指導者であった。

 さらに1647年頃から水平派(平等派)が現れてきた。水平派は貧農・手工業者・小市民・軍の兵士などに支持され、普通選挙による共和政を主張した。

 こうした議会派内部での分裂・対立に乗じて、チャールズ1世が脱出し(1647.12)、翌年には第2次内乱が始まったが、クロムウェルは王党派及び国王と同盟したスコットランド軍を破って国王を再び捕らえ、第2次内乱は3ヶ月で終わった(1648)。

 オリヴァ=クロムウェル(1599〜1658)は、イングランド東部のジェントリの家に生まれ、幼少の時からピューリタンの影響を受け、熱心なピューリタンに成長した。ケンブリッジ大学(父の死で中退)で学んだ後、帰郷して所領の経営にあたり、1628年に下院に選出され、1640年には長期議会にも選出された。ピューリタン革命が勃発すると、鉄騎隊を編成して議会派の劣勢をはね返し、独立派の中心人物として軍の改革を進めた。

 クロムウェルはネーズビーの戦い(1645)で王党派軍を大破し、第2次内乱が始まるとスコットランド軍を破って国王を再び捕らえた(1648)。そしてなおも国王と妥協を続ける長老派を水平派と結んで議会から追放し(1648.12)、翌1649年1月国王チャールズ1世を国家に対する反逆者として処刑し、イギリス史上初めての共和政(コモンウェルス、1649〜60)を樹立した。

 さらに49年春、普通選挙を主張する水平派が革命の徹底化を求めて反乱を起こすと、クロムウェルは中産階級や地主の利益を養護する立場から、水平派を弾圧し、その指導者を処刑した。

 この間、チャールズ1世が処刑されると、子のチャールズ(後のチャールズ2世)が即位を宣言し、スコットランド・アイルランドは彼を支持した。チャールズは後にクロムウェルに敗れてフランスに亡命した(1651)。

 クロムウェルは王党派の殲滅を口実にカトリック派の拠点となったアイルランドに遠征し(1649〜52)、これを征服してアイルランド人の土地を没収し、イングランドの地主に分与した。このためアイルランド人は以後イングランドの不在地主の小作人となり、苛酷な収奪に苦しめられた。

 アイルランドは、ケルト人の住む島で、5世紀以後カトリックが普及していた。12世紀後半にイギリスの支配下におかれ、16世紀にはヘンリ8世がアイルランド王を称した。1649年のクロムウェルの征服によって植民地的な地位に落とされ、アイルランド人は以後宗教・政治・土地所有などの差別に苦しむことになる。

 またチャールズ1世の子チャールズがスコットランドに拠って王権回復を謀ったので、クロムウェルはスコットランド遠征を行い(1650)、スコットランド軍を破ってこの地を征服した。

 翌1651年には、中継貿易を主体とするオランダに打撃を与えるために、航海法(航海条例)を発布し、イギリスとの商品輸出入をイギリス船または当事国(地域)の船に限定した。

 航海法は、当時ヨーロッパ一の商船保有国であり・アジア・新大陸の産物をヨーロッパ各国に転売して利益を上げていたオランダの商船をイギリスから閉め出すこと及びイギリスの植民地貿易の独占を目的としており、航海法の発布は中継貿易を主体とするオランダにとっては大打撃であった。

 このため、航海法の発布が原因となって第1次英蘭(イギリス=オランダ)戦争(1652〜54)が始まった。イギリスとオランダは海上の覇権をめぐって激しく争ったが、オランダ側の貿易の損害が大きく講和条約が結ばれた。英蘭戦争はその後、第2次(1665〜67)、第3次(1672〜74)と続いたが、イギリスは次第にオランダを圧迫し、オランダから海上覇権を奪い、17世紀に繁栄したオランダが没落していく大きな原因となった。

 クロムウェルは、厳格なピューリタンの禁欲主義に基づく軍事独裁制を行ない、劇場の閉鎖・賭博や売春の禁止など庶民の楽しみを奪ったので、次第に国民の反発が高まる中で、1658年9月に亡くなった。

 クロムウェルの死後、子のリチャード=クロムウェル(1626〜1712)が護国卿に就任したが、彼は無能で人望が無く、軍の要求に屈して議会を解散したために議会の支持を失い、就任後わずか8ヶ月で辞任した(1659)。そして翌1660年、フランスに亡命していたチャールズ1世の子が帰国してチャールズ2世として即位した(王政復古)。   




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