2 イギリス立憲政治の発達

1 王権と議会の対立

 イギリスではエリザベス1世の死でテューダー朝が断絶し、遠縁のスコットランドのステュアート家が王位を継承し、ジェームズ1世が即位した。

 ジェームズ1世(1566〜1625、位1603〜25)は、スコットランド女王メアリ=ステュアートの子に生まれ、1歳でスコットランド王ジェームズ6世(位1567〜1625)として即位した。エリザベス1世の死でテューダー朝が断絶すると、彼の曾祖母がヘンリ7世の娘であったことからイギリス王位を継いでジェームズ1世として即位し、ステュアート朝(1603〜49、1660〜1714)を開いた。

 ジェームズ1世は「監督なくば国王なし」と唱えて、イギリス国教会の監督制度(イギリス国王を首長として、教会は国家の監督・支配を受けるというしくみ)を重視し、ピューリタン(イングランドのカルヴァン派)・カトリック教徒を圧迫したので、ピルグリム=ファーザーズの新大陸移住を引き起こした(1620)。

 ピルグリム=ファーザーズとは信仰の自由を求めてメイフラワー号で北米のプリマスに移住した102名のピューリタンと非国教徒の人々のことである。

 またジェームズ1世は、イギリスの国情・特に議会についての理解が乏しく、王権神授説(国王の支配権は王の祖先が神から直接に授けられたものであるから、王権ははいかなる制限も受けないという論理)を信奉し、議会を無視して増税や大商人に独占権を付与したので、しばしば議会と対立した。

 次のチャールズ1世(位1625〜49)も王権神授説を信奉し、フランスの新教徒援助に失敗し(1627)、戦費支出の増大による財政難を打開するために課税を強化し、また国教会を強制してピューリタンを弾圧したので議会との対立が激化した。

 この頃、イギリスでは毛織物工業を中心に商工業が発達し、市民階級(ブルジョアジー、中世には都市の市民を指したが、近代では貴族に対して都市の富裕な商工業者を指すようになった)の力が強まっていた。また農村でも荘園制が崩壊する中で多くの独立自営農民(ヨーマン)が生まれ、多くのヨーマンは農耕とともに羊毛・毛織物生産に従事し、中には毛織物マニュファクチュアを営む富農も現れた。

 特にジェントリと呼ばれた地主階級が地方行政や議会で活躍した。ジェントリは郷紳と訳されてジェントルマンの語源となったが、身分的には貴族の最下層・ヨーマンよりは上層の地主階級で、富裕なヨーマンや商人が土地を買い取ってジェントリになった。

 このような中産階級の人々にはピューリタンが多く、彼らは議会を通して権利を伸ばそうとして貴族や特権大商人と結びついていた絶対王政と対立していた。

 1628年、議会は権利の請願を王に提出した。権利の請願は、全11条から成り、議会の同意なく課税することや不法な逮捕・投獄などに反対したもので、マグナ=カルタ・権利の章典と並んでイギリス憲法の三大法典といわれている。

 チャールズ1世は権利の請願をいったんは承認したが、翌年議会を解散し、以後11年間(1629〜40)にわたって議会を召集せず、専制政治を行った。

 1637年には、長老派(プレスビテリアン、スコットランドのカルヴァン派の称)が優勢なスコットランドに国教会を強制してスコットランドの反乱(1639)を招いた。

 チャールズ1世はスコットランド反乱鎮圧の戦費調達のために、翌1640年4月、11年ぶりに議会を召集したが議会が課税を拒否したために3週間で解散した。このためこの時召集された議会は短期議会と呼ばれている。

 しかし、戦費調達の必要から、同年11月に再び議会を召集した。この議会は1653年まで続いたので長期議会と呼ばれている。

 この長期議会でも王と議会は対立し、議会はチャールズ1世の失政を非難し、政治の抜本的改革を要求する大諌議書をわずかの差で可決したので(1641)、チャールズ1世は武力で議会を押さえようとし、反対派の指導的な議員5名を逮捕しようとして兵を率いて議場に乗り込んだが、彼らはすでに逃亡していたので失敗に終わった。

 この出来事をきっかけに王党派と議会派の間に内戦が始まり、ピューリタン革命(1642〜49)へと発展していった。 




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