1 絶対主義国家の盛衰

5 フランスの宗教戦争と絶対主義(その2)

 リシュリューの死の翌年にルイ13世も亡くなり(1643)、5歳のルイ14世(1638〜1715、位1643〜1715)が即位し、母后が摂政となった。母后の摂政時代に実権を握ったのが名宰相のマザランである。

 マザラン(1602〜61)は、イタリアに生まれ、教皇の外交使節となり、パリに派遣されてリシュリューの信任を得てフランスに帰化し(1639)、リシュリューの死後その推薦によって宰相となり(1642)、ルイ13世の死後は摂政(母后)によって宰相に登用された。

 マザランはリシュリューの政策を継承し、国内ではフロンドの乱を鎮圧し、対外的には三十年戦争への介入を続け、巧みな外交手腕によってウェストファリア条約(1648)でアルザスの大部分とヴェルダン・メッツ・トゥールを獲得した。

 フロンドの乱(1648〜53)は、ルイ14世が幼少であったことや外国人であるマザランへの反感、三十年戦争への介入による増税に対する市民の不満、リシュリュー・マザランに抑圧されてきた貴族の不満などが結びついておこった反乱である。

 初めは高等法院の反抗が中心であったが、後半には大貴族の反乱が中心となり、全国的な内乱に発展した。ルイ14世とマザランは一時パリを退去せざるを得なくなったが(1651)、マザランは反乱側の不一致に乗じて鎮圧した。

 フロンドの乱は、フランス最後の貴族の反乱となり、その鎮圧によって貴族勢力は打倒され、結果的には王権が一層強化されることとなり、フランス絶対主義が確立した。 

 マザランが亡くなると、ルイ14世は親政を宣言し(1661)、以後宰相を置かず、自ら全権を握って政務をおこなった。ルイ14世は「太陽王」と呼ばれ、「朕は国家なり(国家、それは朕である)」という言葉にふさわしい強大な王権を築き、フランス絶対主義の極盛期を現出した。

 内政では、コルベール(1619〜83)を財務総監(長官)に任命し、商工業の育成と貿易の振興など典型的な重商主義を行い財政の充実に努めた。

 コルベールは、毛織物商人の子に生まれ、マザランの推挙でルイ14世に登用され、財務総監(長官)に任命された(任1665〜72)。保護関税政策によって国内産業を保護・育成し、王立マニュファクチュアを設立し、また東インド会社を再興して(1664)貿易の発展・植民地獲得に乗り出し、そのために海軍力の強化にも努めた。コルベールが行った経済政策は典型的な重商主義で、コルベール主義(コルベールティズム)と呼ばれ、重商主義の代名詞になっている。

 ルイ14世は、パリの南西約20kmのヴェルサイユに壮大な宮殿を造営して王宮とした。ヴェルサイユには、ルイ13世の狩用の仮泊所が建てられていたが、ルイ14世は改築に着工し、20数年を要して(1661〜82)豪壮な宮殿を造営し、ここに宮廷を移した。

 ヴェルサイユ宮殿はバロック式の代表的な建築で、豪華な室内装飾と広大な庭園で有名である。そこには国王の廷臣と化した貴族が集まり、日夜舞踏会やオペラ・演劇が演じられ、ヴェルサイユ宮殿はヨーロッパの外交・文化の中心となり、フランス語はヨーロッパの国際語となった。ラシーヌ・モリエールらに代表されるフランス古典主義文学もヴェルサイユ宮殿を中心に発展した。

 カトリック教徒であったルイ14世は、絶対王政を強化するために、ユグノーを弾圧し、1685年にナントの勅令を廃止した。このルイ14世最大の失政といわれるナントの勅令の廃止によって、20〜30万人に及ぶユグノーが国外に逃亡した。ユグノーには商工業者が多く、彼らの逃亡はフランスの産業・経済に深刻な打撃を与え、ルイ14世の晩年の財政窮乏の大きな原因となった。

 対外的には、充実した国力とヨーロッパ最強の陸軍を擁する強大な軍事力を背景に、ハプスブルク家の打倒を目標として自然国境説(大西洋・ライン川・アルプス山脈・ピレネー山脈の内側はフランスの領土であるべきだとの考え方)を口実に、しばしば隣国に侵略戦争をしかけて領土の拡大をはかった。

 スペインでフェリペ4世が亡くなると(1665)、ルイ14世はスペイン領ネーデルラントの継承権が王妃マリア=テレーズ(フェリペ4世の娘)にあると主張して南ネーデルラント継承戦争(1667〜68)を引き起こしてフランドルに出兵した。しかし、フランスの進出を恐れるオランダがイギリスと同盟して調停に乗り出し、アーヘンの和約(1668)が結ばれ、フランスはフランドルの一部を得たにとどまった。

 南ネーデルラント継承戦争の際に、オランダが妨害したとして、その報復のために突如出兵したが(オランダ侵略戦争(1672〜78))、各国の反対とオランダの激しい抵抗にあい、ナイメーヘンの和約(1678・79)を結んだ。この和約によってオランダは全領土を回復し、フランスはスペイン領のフランシュ=コンテとフランドル南部のいくつかの都市を獲得するにとどまった。

 さらにドイツのファルツ選帝侯領の継承権を主張して大規模な侵略戦争であるファルツ継承戦争(アウグスブルク同盟戦争、1689〜97)を引き起こした。当初、フランスはファルツ伯領に侵入し、破壊・掠奪・放火を行い、ファルツ伯領を荒廃させたが、ヨーロッパ諸国がアウグスブルク同盟(オランダ・神聖ローマ皇帝・ドイツ諸侯・スペイン・スウェーデンの同盟に後にイギリスも参加)を結んでフランスに対抗したため、 フランスはライスワイク条約(1697)を結んで、ナイメーヘンの和約以後に獲得した領地を返還した。

 ルイ14世の侵略戦争は莫大な戦費を使いながら、得たものはわずかで、その戦費の負担が晩年の財政窮乏の大きな原因となった。

 ルイ14世の侵略戦争のうち最後にして最大の戦争がスペイン継承戦争(1701〜13)である。スペインでカルロス2世(位1665〜1700)が亡くなり、病弱で子供がなかったカルロス2世の遺言によってルイ14世の孫のフィリップがフェリペ5世(位1700〜24、24〜46)として即位した。

 これに対して、オーストリア・イギリス・オランダは、同じブルボン家のスペインとフランスが合同すれば、海外の植民地を併せて飛び抜けた強大な王国が出現することになり、ますます侵略の恐怖にさらされることになるとして、同盟を結んで反対し、スペイン継承戦争が勃発した。

 戦争は、初めフランスが優勢であったが、1704年頃からは同盟国側が優勢となり、1706年にはマドリードが陥落してフェリペ5世が一時追放された。しかし、1710年頃からフランスが再び盛り返し、またフェリペ5世の対立候補として同盟国側が推していたカールが神聖ローマ帝国ヨゼフ1世の死によってカール6世として即位したこともあり(1711)、1713年にユトレヒト条約が結ばれて戦争は終結した。

 このユトレヒト条約によって、フランスとスペインが合併しないことを条件にフェリペ5世の王位継承が承認された。スペイン継承戦争の際に、英仏は北米でアン女王戦争(1702〜13)を戦ったが、植民地に関してはイギリスがフランスからニューファンドランド・アカディア・ハドソン湾地方を獲得することが認められた。またイギリスがスペインからジブラルタル・ミノルカ島を獲得することも認められた。

 ルイ14世は、孫のフェリペ5世をスペイン王につけることで面目を保ったが、北米の植民地を失って植民地争いで大きく後退することとなり、結局イギリスがユトレヒト条約で最大の利益を得た。

 ルイ14世の時代は、フランス絶対主義の極盛期・フランスの黄金時代であり、フランスはヨーロッパ一の強国となり、ヨーロッパの政治・外交・文化の中心となった。

 しかし、たび重なる侵略戦争や宮廷の浪費のために、特にルイ14世の最大の失政といわれるナントの勅令の廃止(1685)によってユグノーの商工業者が大量に国外に亡命してフランス経済は大打撃を受けたことなどによって、王の晩年には国家財政が窮乏し、国民は重税に苦しむようになった。

 このため、ルイ14世が72年に及ぶ治世の末に亡くなり、曾孫のルイ15世が即位したが、次のルイ16世の時代にかけて国家財政はますます悪化し、のちのフランス革命の原因になっていく。




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