1 絶対主義国家の盛衰

5 フランスの宗教戦争と絶対主義(その1)

 フランスでは、百年戦争末期に即位したシャルル7世(位1422〜61)、そしてシャルル8世(位1483〜98)の時代に中央集権化が進み、国民国家が形成されてきた。

 しかし、シャルル8世の死によって直系のヴァロア朝が断絶し、ヴァロア=オルレアン家のルイ12世(位1498〜1515)が即位した。

 ヴァロア=オルレアン朝(1498〜1589)の第2代国王フランソワ1世(位1515〜47)は、神聖ローマ皇帝位をカール5世と争って敗れ、以後イタリアをめぐって激しく争った(イタリア戦争)。フランソワ1世の治世の間にフランス=ルネサンスが栄え、王権はさらに伸張した。フランソワ1世の死後、アンリ2世(1519〜59、位1547〜59)が即位したが、アンリ2世の妃が有名なカトリーヌ=ド=メディシス(1519〜89)である。 

 カトリーヌ=ド=メディシスは、フィレンツェの名門メディチ家のロレンツォ=ド=メディチ(大ロレンツォ)の曾孫として生まれた。生後1ヶ月経たぬうちに両親を失い、叔母に預けられてローマ・フィレンツェで過ごし、1533年にオルレアン公アンリ(後のアンリ2世)と結婚した。夫の死後、長男のフランソワ2世(1544〜60、位1559〜60、彼の妃がメアリ=ステュアート)が即位したが早世し、次男のシャルル9世(1550〜74、位1560〜74)が即位すると母后カトリーヌは摂政となった。

 この間、宗教改革の影響は旧教国フランスにも波及し、1540年代後半頃からカルヴァン派が普及し、国民の約3〜5%の人々がカルヴァン派に改宗したといわれている。アンリ2世は統一を維持するためにカルヴァン派に厳しい迫害を加えたが、その数は減少しなかった。フランスのカルヴァン派の人々はユグノーと呼ばれ、都市の商工業者の他に、一部の有力な貴族にも広まり、ユグノー(新教徒)とカトリック教徒(旧教徒)の対立は宮廷をめぐる貴族の政争と結びついて内乱に発展していった。

 母后カトリーヌは、ユグノーとカトリックの勢力均衡によって王権の安定をはかろうとして、ユグノーに対して私的集会での礼拝の自由を認めるなどユグノー抑圧策を緩和した。

 これに対してカトリック側は態度を硬化させ、旧教派の中心人物であったギーズ公の兵士達が礼拝中のユグノーを攻撃して20数人を殺すという出来事がきっかけとなり、ついにユグノー戦争(1562〜98)と呼ばれる宗教戦争が始まった。

 内乱が長引くと、母后カトリーヌは新旧両教徒の調停をはかり、シャルル9世の妹マルグリートとナヴァル王アンリ(ユグノーの中心人物の一人、のちのアンリ4世)との結婚を成立させたので一時講和が成立した(1570)。

 1572年8月、マルグリートとナヴァル王アンリとの結婚式(8月19日に行われた)を祝って旧教派貴族はもちろん、多くの新教派貴族も続々とパリに集まってきた。

 母后カトリーヌは、この機会にシャルル9世の心をとらえて対スペイン戦争を企てたユグノーの首領コリニーを除こうとして、旧教派のギーズ公アンリ(1550〜88)と結んでサン=バルテルミの大虐殺を行った。

 1572年8月24日(サン=バルテルミの祭日の日)の未明、ギーズ公アンリの兵は鐘を合図にコリニーを急襲して殺害し、あらかじめ印がつけられていた新教派貴族の宿舎を次々と不意打ちし、3日間にわたって約3000人のユグノーを虐殺した。ナヴァル王アンリは改宗して殺戮をまぬがれ、宮中に監禁されたが、のちに脱走した(1576)。

 この有名なサン=バルテルミの大虐殺後、各地でユグノーによるカトリック教徒への復讐が行われ、内乱は再び激化した。この間、旧教徒側をスペインが、新教徒側をイギリスが援助し、ユグノー戦争は国際戦争の様相を呈した。

 シャルル9世はサン=バルテルミの大虐殺の2年後に亡くなり、弟のアンリ3世(1551〜89、位1574〜89)が即位すると、旧教派のギーズ公アンリ及び脱走後再びユグノーに戻ったナヴァル王アンリの三つどもえの争いとなった(3アンリの戦い)。

 アンリ3世は、王位をうかがうギーズ公アンリを暗殺したが(1588)、彼自身も旧教徒に暗殺され(1589)、ヴァロア朝が断絶した。

 アンリ3世の死後、ブルボン家のナヴァル王アンリが即位してアンリ4世(位1589〜1610)となり、ブルボン朝(1589〜1792、1814〜30)を創始した。

 しかし、パリ市民をはじめとする旧教徒はユグノーであるアンリ4世を王として認めなかったので、 アンリ4世は政治的配慮からカトリックに改宗し(1593)、1598年にナントの勅令を発布してユグノーの信仰の自由を認めた。

 ナントの勅令でユグノーは信仰の自由と公職につくことも認められたが、公的な場所での礼拝はパリでは禁止するなどの条件が付いていて、カトリック教徒に比べると不平等であったが、ナントの勅令の発布によって30年以上に及んだユグノー戦争は終結した。

 アンリ4世は混乱した国内治安の回復・弱体化した王権の再興・特に疲弊した国家財政の再建に取り組み、農業の振興など国力の回復に努めた。また対外的には国内の再建のために平和政策をとったが、1604年には東インド会社を設立し、北米にケベックを建設するなど海外進出を進めた。しかし、アンリ4世は狂信的な旧教徒に暗殺された(1610)。

 父アンリ4世が暗殺されたため、ルイ13世(位1610〜43)が9歳で即位したので、母后のマリ=ド=メディシスが摂政となった。彼女はリシュリューを用いて貴族を抑えたが、親政を始めたルイ13世と対立して追放された(1617)。

 この間、マリ=ド=メディシスは1614年に三部会を召集したが、第1身分(僧侶)・第2身分(貴族)と第3身分(平民)の利害が対立して混乱したために、三部会は1615年に解散され、以後フランス革命の直前の1789年まで召集されず、無議会の状態が続いた。

 ルイ13世は、1617年に親政を始めたが政治の混乱が続いたために、1624年にリシュリューを宰相に任命して王権の確立をはかった。

 リシュリュー(1585〜1642)は、地方貴族の次男に生まれ、聖職につき(1606)、聖職者の代表として出席した三部会で政治家としての才能を認められ、母后マリ=ド=メディシスに登用されたが、ルイ13世の親政開始によって失脚した。 しかし、その後復帰してルイ13世の宰相となり(1624)、死ぬまでその地位にとどまり名宰相とうたわれ、フランス絶対主義の確立に努めた。

 リシュリューは、王権の伸張とフランスの国際的地位の向上をめざし、内政では貴族とユグノーの勢力を抑圧し、対外的にはハプスブルク家の打倒に全力をそそいだ。

 1628年にはユグノーの最大の拠点ラ=ロシェルを陥れてユグノーの勢力をくじき、また三部会を開催せず、高等法院(フランスの最高司法機関で王令審査権を持ち、貴族の牙城であった)の権限を縮小し、貴族の反乱を鎮圧して貴族勢力の抑圧に努めた。

 対外的には、スペイン・オーストリアの両ハプスブルク家に対抗するために、旧教国であるフランスがドイツの新教徒や新教国(ルター派)のスウェーデンを援助して、隣国ドイツでおこった三十年戦争(1618〜48)に介入した。1635年にはスウェーデンと同盟してスペインに宣戦して直接介入し、フランスの国際的地位の向上を図ったが、彼自身は三十年戦争の終結を待たずに亡くなった。




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