1 絶対主義国家の盛衰

4 イギリスの興隆

 イギリスは、ばら戦争後、テューダー朝(1485〜1603)のヘンリ7世(位1485〜1509)の時代に王権が強化され、絶対主義の基礎が固められた。次いで宗教改革を行ったヘンリ8世(位1509〜47)によって王権はさらに強化され、エリザベス1世(1533〜1603、位1558〜1603)の時代にイギリス絶対主義は全盛期を迎えた。しかし、イギリスの絶対主義は フランスに比べ、強力な官僚制や常備軍が整備されず、州の有力者であるジェントリ(地主階級)の勢力が強かった。

 エリザベス1世は、ヘンリ8世の第2王妃アン=ブーリンの子として生まれたが、3歳の時に母が刑死したので、以後メアリ1世によってロンドン塔に幽閉されるなど苦難の時代を送った。しかし、ヘンリ8世の遺言によってエドワード6世、メアリ1世に次ぐ王位継承者となり、メアリ1世の死によって、25歳で即位した。

 エリザベス1世は、即位の翌年(1559)に首長法(首長令)・統一法(統一令)を発してイギリス国教会制度を確立した。またその頃イギリスの国民的産業になっていた毛織物工業を保護・育成し、大商人に独占権を与えて国家財政の充実に努めた。

 エリザベス女王は私拿捕船(しだほせん、商船捕獲の特許を受けた民有武装船、分かりやすく言うと海賊船)を保護し、ホーキンズやドレークらを援助した。私拿捕船は、新大陸のスペイン植民地と密貿易を行い、新大陸から大量の銀を本国に運ぶスペインの銀船隊を襲撃して巨利を得た。スペインのフェリペ2世は私拿捕船の取り締まりを女王に再三要請したが女王はこれを無視した。

 ドレーク(1543頃〜96)は、有名なイギリスの海賊で後にイギリス海軍提督となった人物であるが、ホーキンズ(イギリスの海賊、黒人奴隷貿易で巨富を得た、後にイギリス海軍提督となる)の船団に参加し、私拿捕船の船長として各地を航海した。 エリザベス女王から特許状を得て、女王の援助のもとに5隻の船を率いて西回り航路に出発し、2年10ヶ月かかってイギリス人として初めて世界周航(1577〜80)に成功した。 途中至る所でスペイン船を襲って莫大な財宝を満載して帰国し、女王からSirの称号とナイトの位を与えられた。後にホーキンズと共にスペイン無敵艦隊撃滅(アルマダの海戦)に大活躍した。

 またエリザベス女王は当時起こったオランダの独立戦争を援助したので、スペインのフェリペ2世はイギリス国内のカトリック教徒と結んでメアリ=ステュアートの擁立をはかった。  

 スコットランド女王メアリ=ステュアート(1542〜87、位1542〜67)は、父王の死によって生後6日で王位についた。のちフランス王フランソワ2世と婚約し(48)、10年間フランスの宮廷で養育された後に結婚した(58)。しかし、夫が早世したために帰国し(61)、カトリック教徒のダーンリ卿と再婚し(65)、反対した新教貴族を弾圧した。その後夫を暗殺したボスウェル伯と結婚したために(67)、国内で反乱が起こり、子のジェームズ6世に譲位したが監禁された。翌年脱出してイングランドに逃亡してエリザベス女王に保護を求めたが、かってエリザベス女王の即位の際に王位継承権を主張して対立したこともあり、エリザベス女王によって19年間も監禁され、各地を転々とした。そして彼女はカトリックの中心人物とみなされていたので、カトリック教徒による女王暗殺の陰謀に加担したとの疑いで斬首された(87)。このメアリ=ステュアートの処刑がフェリペ2世の無敵艦隊派遣の直接の原因となった。

 フェリペ2世は、1588年に無敵艦隊をイギリスに向けて出動させたが、イギリス海軍はアルマダの海戦(1588)で無敵艦隊を撃破して、以後イギリスが海外に発展していく道を開いた。

 エリザベス女王は多くの独占貿易会社を設立したが、特に1600年に設立された東インド会社は喜望峰からマゼラン海峡に至るアジア全域での貿易独占権を与えられた貿易会社で、イギリスのアジア進出、特にインドへの進出及びその植民地化に重要な役割をはたすことになる。また新大陸へも進出し、寵臣ウォーター=ローリーらはイギリスの北米最初の植民地であるヴァージニア植民地(「処女王」と呼ばれたエリザベス女王にちなんで命名された)を創設したが失敗に終わった。

 45年間にわたるエリザベス女王時代に、イギリスはそれまでの二流国からヨーロッパの強国に仲間入りし、イギリスは繁栄期を迎えた。

 この繁栄を背景に、シェークスピアやエドモンド=スペンサー(イギリスの代表的な詩人の一人)らが現れて活躍した。

 エリザベス女王は、「私は国家と結婚している」と言って、各国君主の求婚を全て退けて生涯独身を貫いたので「処女王」と呼ばれた。そのためエリザベス女王が死ぬとテューダー朝は断絶し、遠縁にあたるスコットランドのジェームズ6世(イギリス王としてはジェームズ1世)がイギリス王位を兼ねてステュアート朝(1603〜49、1660〜1714)を開いた。




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