1 絶対主義国家の盛衰

3 オランダの独立

 ネーデルラントは、「低い地方」の意味で、現在のオランダ・ベルギー・ ルクセンブルクを中心とする地方の総称である。ネーデルラントの南部、現在のベルギーを中心とする地方はフランドル地方と呼ばれ、中世以来毛織物工業が発達し、ガン・ブリュージュ・アントワープなどの都市が繁栄していた。ネーデルラントは、1477年に血縁関係によりハプスブルク家所領となり、カール5世の死後、フェリペ2世の支配下におかれることとなった。

 商工業が発達し、都市が繁栄していたネーデルラントにはカルヴァン派が普及し、ゴイセン(乞食の意味)と呼ばれたカルヴァン派の新教徒が多かった。

 熱烈なカトリック教徒であったフェリペ2世は、ネーデルラントに対しても厳しいカトリック政策をとり新教徒を迫害した。また都市の自治権を奪い、重税を課した。このようなフェリペ2世の政策に対してネーデルラントの民衆は教会を襲い、聖像を破壊するなどの行動に出、その動きは各地に広まった。

 フェリペ2世は、アルバ公を派遣して新教徒を徹底的に弾圧した。アルバ公は1567〜73年の6年間にわたってフランドル総督として、残酷な宗教裁判と重税でネーデルラントの民衆を苦しめた。

 エグモント伯(ベートーベンの「エグモント序曲」で有名)は、オラニエ公ウィレム・ホルン伯らとネーデルラントの独立運動を起こしたが、ホルン伯とともにアルバ公に捕らえられて処刑された(1567)。この出来事がオランダ独立戦争の導火線となった。

 ネーデルラントは、オラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム、1533〜84、独立後の初代総督(任1579〜84))を指導者として、1568年についに独立戦争を始めた(オランダ独立戦争、1568〜1609)。

 スペインは大軍をもって次々と都市を攻略し、破壊と略奪を行ったが、ネーデルラントのある町は堤防を破壊してスペイン軍の進撃をはばみ、ライデン市は6ヶ月にわたる防戦の末についにスペイン軍を撃退するなど抗戦を続けた。またアルバ公の圧政を逃れて国外に亡命していたカルヴァン派の人々は「海の乞食団(ゼー=ゴイセン)」を結成し、イギリスの援助を受けながらスペイン船に対してゲリラ戦を展開して苦しめた。

 オラニエ公ウィレムは、ネーデルラントの全州が団結してスペインに抵抗する同盟を成立させたが(1576)、スペインはネーデルラントの南北の諸州の間に民族・言語・宗教・産業などに相違があることを利用して南北の離間をはかった。

 北部7州(現在のオランダ)の民族はゲルマン系で、言語もドイツ系であり、造船・中継貿易・農業が主な産業であり、宗教はカルヴァン派の新教徒が多かった。

 これに対して南部10州(現在のベルギー)は、民族はラテン系、言語もフランス語系、産業は毛織物工業・牧畜が主で、宗教はカトリック教徒が多かった。

 そこでスペインは、カトリック勢力が強い南部10州を懐柔し、北部と切り離すことに成功し、南部10州はついにスペインと和平を結んで独立戦争から離脱した(1579)。南部10州は、北部の独立後もスペイン領(ハプスブルク家領)に留まり、1830年にベルギーとして独立することになる。

 しかし、北部7州はユトレヒト同盟を結んで(1579)、オラニエ公ウィレムのもとで抗戦を続け、1581年にネーデルラント連邦共和国(オランダ)の独立を宣言した。この国は連邦の中心となったホラント(Holland)州の名前をとって一般にはオランダと呼ばれている。

 オラニエ公ウィレム(ウィレム1世)は、独立後初代のオランダ総督(統領)(ネーデルラント連邦共和国の最高の官職)となったが、スペインにそそのかされたカトリック教徒によって暗殺された(1584)。ウィレム1世の死後、オランダ総督の地位はオラニエ(オレンジ)家が世襲した。

 オランダが独立を宣言した後も、スペインはオランダの奪回に努めた。特に1585年には当時最も繁栄していたアントワープを占領して徹底的な略奪・破壊を行ったので、アントワープは以後衰退し、かわってアムステルダムが政治・経済・文化の中心になっていく。

 当時、スペインのフェリペ2世はイギリスのエリザベス1世と激しく対立していた。エリザベス女王は私拿捕船を保護して新大陸から銀を輸送するスペインの銀船隊を襲わせ、またオランダの独立戦争を援助したので、フェリペ2世はイギリス国内のカトリック教徒と結んで、前スコットランド女王メアリ=ステュアートの擁立をはかったが失敗に終わり、メアリ=ステュアートは処刑された(1587)。

 そこでフェリペ2世は、エリザベス女王打倒とオランダ独立軍の鎮圧をねらって、スペインの誇る無敵艦隊をイギリスに向けて出動させた。しかし、アルマダの海戦(1588)で大敗北を喫した。

 無敵艦隊の敗北後も、フェリペ2世はオランダの奪回に努めたが1598年に没し、スペインはついに1609年にオランダと12年間の休戦条約を結んだ。この休戦条約によってオランダは事実上独立したが、オランダの独立が国際的に承認されるのは三十年戦争後に結ばれたウェストファリア条約(1648)によってである。

 17世紀は「オランダの世紀」と呼ばれている。
 オランダは、すでに15世紀末からハンザ同盟諸都市の衰退のあと、北海・バルト海での仲介貿易に進出して富を蓄えていた。またオランダ商人はリスボンで東洋の香辛料などを買い、それを北欧で売って利益を得ていたが、独立戦争が始まるとオランダ商人はリスボンから閉め出されたので、密貿易を行い、さらに直接東洋貿易や新大陸貿易に進出するようになった。

 1602年に設立された東インド会社は、東洋との貿易独占権を与えられて東南アジアに進出して、17世紀初めにはアンボイナ(香料諸島と呼ばれたモルッカ諸島の基地)をポルトガルから奪って香辛料貿易を独占し、ポルトガル・スペインの勢力を東洋から駆逐した。また1621年には西インド会社が設立され、アフリカ西岸と新大陸との貿易に活躍し、北米にニューネザーランド(ニューネーデルラント)植民地を建設した。

 この間、独立戦争から脱落した南部10州の毛織物業者の多くはオランダやイギリスに移住したので、オランダでも毛織物工業が発達するようになった。

 こうしてオランダはポルトガル・スペインに代わって世界商業の覇権を握り、首都アムステルダムはアントワープに代わって国際金融の中心となり、オランダは16世紀末から17世紀末の約1世紀にわたって全盛期を迎えた。

 文化面でも、画家のレンブラント・哲学者のスピノザ・法学者のグロティウスら優れた人物が活躍した。

 しかし、オランダは仲介貿易に重点を置く経済構造であったこと、特権的大商人の力が強かったこと、毛織物工業におけるマニュファクチュアの発展がイギリスより遅れていたことなどの弱点を抱えていた。そのため17世紀の後半にはイギリスとの3回にわたる英蘭戦争(イギリス=オランダ戦争)に敗れて衰退に向かい、その繁栄は長続きしなかった。




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