3 宗教改革

3 イギリス国教会の成立

 イギリスでも宗教改革がおこったが、イギリスの宗教改革はテューダー朝第2代の国王ヘンリ8世(1491〜1547、位1509〜47)の離婚問題から始まり、宗教的動機よりも政治的・経済的な動機の方が強かったのが特色である。

 ヘンリ8世は、初めは熱心なカトリック教徒で、ルターの宗教改革がおこるとそれに反対する論文を発表し、教皇から「信仰の擁護者」という称号を受けるほどであった。

 しかし、その後ヘンリ8世は王妃キャサリン(カザリン)との離婚を教皇に願い出たが、教皇が認めなかったために教皇と対立するようになった。

 ヘンリ8世は、早世した兄の未亡人キャサリン(1485〜1536、スペイン王フェルナンド5世とイサベルの娘)と結婚したが(1509)、キャサリンには男子の後継者が生まれず、またキャサリンの侍女アン=ブーリン(1507〜36)と恋におち、離婚を決意して教皇に許可を求めた。しかし、教皇はキャサリンがスペイン王家の出身で、当時の神聖ローマ皇帝カール5世の叔母であったために許可しなかった。

 ヘンリ8世はキャサリンとの離婚を強行し、アン=ブーリンと再婚し(1533)、イギリス国民の間に強かった反ローマ教会の機運を利用してローマ教会からの独立を決意した。

 ローマ教皇はヘンリ8世を破門に処したが、ヘンリ8世は議会の支持のもとに、1534年に首長法(首長令)を発し、イギリス国王がイギリス国教会の唯一・最高の首長であると宣言し、イギリス国教会をローマ教会から分離・独立させた。また同じく議会立法で修道院を廃止し、その広大な土地・財産を没収した(1536、39)。

 このようにイギリスの宗教改革は、ルターやカルヴァンの宗教改革のように教義をめぐる宗教的動機からでなく、中央集権化をはかるヘンリ8世が、ローマ教会からの分離・独立と修道院財産を没収して王室財政の強化をはかるという政治的・経済的動機からおこしたということが特色である、そのため教義上の改革は不徹底で、イギリス国教会の教義はカトリックとほとんど変わらなかった。

 イギリスの代表的なヒューマニストであり大法官であったトマス=モアは国王の離婚と首長法に反対して処刑された(1536)。

 なおヘンリ8世は6人を王妃としたが、そのうち2人が離婚され、2人が処刑されている。アン=ブーリンも男子を出生しなかったので姦通罪の汚名をきせられて処刑された。

 ヘンリ8世の死後、彼の唯一の男子であったエドワード6世(1537〜53、位1547〜53)が9歳で即位した。エドワードの母は第3王妃のジェーン=シーモアである。エドワード6世は、『トム=ソーヤーの冒険』で有名なアメリカの作家マーク=トゥーエンの『王子と乞食』(1881)の王子のモデルと言われている。

 エドワード6世のもとで、プロテスタント化が進められ、イギリス国教会の礼拝儀式や教義を規定した一般祈祷書がつくられ(1549)、教義面でも福音主義・信仰義認説・予定説などカルヴァン派に近いプロテスタンティズム(新教主義)の原理が取り入れられた。 しかし、エドワード6世は生来病弱であったため在位6年で没した。

 エドワード6世の後は、メアリ1世(1516〜58、位1553〜58)が継いだ。メアリ1世の母はヘンリ8世の最初の王妃で離婚されたキャサリンである。

 メアリ1世は、母の影響を受けて熱心なカトリック教徒となり、異母弟エドワード6世の治世中も、国教会の礼拝を拒否し、カトリックの信仰を守った。

 そして王位につくとカトリック教会を復活させ、さらに国民の反対を押し切って熱烈なカトリック信者として知られるスペインの皇太子フェリペ(のちのフェリペ2世)と結婚し、カトリック復活を企てて国教徒(イギリス国教会の信者)を弾圧し、多くの国教徒を処刑にしたために「流血好きのメアリ」と呼ばれた。

 病身であったメアリ1世も治世5年で亡くなったので、エリザベス1世(1533〜1603、位1558〜1603)が王位を継いだ。エリザベス1世の母は、ヘンリ8世の第2王妃のアン=ブーリンである。3歳の時に母が刑死したので、以後メアリ1世によってロンドン塔に幽閉されるなど苦難の時代を送ったが、ヘンリ8世の遺言でエドワード6世、メアリ1世に次ぐ王位継承者となり、メアリ1世の死によって、25歳で即位した。

 エリザベス1世は、イギリス絶対王政の最盛期を現出したイギリス史上最も有名な女王であるが、宗教面では中道の政策に復帰し、1559年に首長法(首長令)と統一法(統一令)を発布し、イギリス国教会の礼拝・祈祷の統一をはかり、これに従わない者への刑罰も定めた。これによってイギリス国教会の体制が最終的に確立された。




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