3 宗教改革

2 スイスの宗教改革とカルヴァン

 ドイツと並行してスイスでも宗教改革がおこった。スイスではツヴィングリ(1484〜1531)が、1523年以来チューリヒで宗教改革を始めた。

 エラスムスやルターの影響を受けたツヴィングリは、チューリヒの説教司祭となり(1519)、チューリヒでのローマ教会との公開討論に勝利し、市参事会の支持を得て、聖像やミサの廃止などの教会改革を押し進めた。しかし、聖餐問題ではルターと対立し、決裂した(1529)。

 その頃までにチューリヒでのツヴィングリの宗教改革は、スイス北部諸州から西南ドイツ地方にまで影響を及ぼしていたが、頑強にカトリックを維持していた原初諸州との紛争が絶えず、ついに内戦となり(1531)、カッペルの戦いでチューリヒ軍は壊滅し、従軍中のツヴィングリも戦死した。 このため改革運動は停滞し、ツヴィングリ派はのちにカルヴァン派に吸収されていく。

 ツヴィングリの死後、スイスの宗教改革の中心はジュネーヴに移っていく。ジュネーヴで宗教改革を行ったのがフランス人のカルヴァンである。

 カルヴァン(1509〜64)は、北フランスに生まれ、パリ大学などで法学・神学・人文主義などを学んだが、「突然の回心」(1533)によって福音主義者(プロテスタント)となった。当時ルターの宗教改革の影響はフランスに及び、フランスでもルター派が広まっていたが、福音主義は危険思想として弾圧されていた。 カルヴァンもパリを離れ(1533)、のちにスイスの新教都市バーゼルに逃れた(1534)。

 バーゼルに逃れたカルヴァンは、その地で有名な『キリスト教綱要』を著した(1536)。その中でカルヴァンは「全ての者は、同じ条件のもとに創造されたのではない。ある者は、永遠の生命に、他のある者は、永遠の断罪に、あらかじめ定められている。 したがって、人はだれでもこの目的のどちらかにむけて創造されており、つまり、いってみれば、生に対してか、死に対してか、そのいずれかだということだ。・・・したがって、聖書が示すところに従ってわれわれは主張する。 神は、永遠の計画によって、救済にあてようとする者と、滅亡にあてようとする者とをあらかじめ定めたのである。」(山川出版社、世界史史料・名言集より)と述べている。 魂の救済は、人間の意志によるのでなく、神によって最初から決められているというこの教義は「予定説」と呼ばれている。

 『キリスト教綱要』によって一躍有名となったカルヴァンは、ジュネーヴに改革者として迎えられて宗教改革に従事したが(1536)、一時反対派によって追放されてストラスブルクに赴いた(1538)。のちに再び請われてジュネーヴに帰り(1541)、以後死ぬまで同市に留まった。

 カルヴァンは、改革のために反対派を弾圧し、教会制度・組織の改革を行い、厳格な禁欲生活を市民に強制するなどカルヴァン主義による神政政治(神権政治)を行い、ジュネーヴをプロテスタンティズム(新教主義)の牙城とした。

 教会制度については、上部から任命される司教を置かず、牧師とこれを補佐する信徒代表の長老とで教会を運営する長老制度を取り入れた。

 カルヴァンの教義は、福音主義(聖書を信仰の基礎に置く)と信仰義認説(人は信仰によってのみ救われる)に立っているが、かれの教義の中心となっているのが「予定説」である。

 「予定説」では、魂が救われるか否かはあらかじめ神によって定められているが、人は信仰によって「自分は救われる」と確信することが出来ると説かれた。また救済の確証を得るために、人は禁欲的な生活を営み、職業を神から与えられた天職と考えて勤労に従事すべしと説き、 勤労の結果得られる富の蓄積は信仰上正しいと説いた。このためカルヴァンの教えは、当時勃興しつつあった市民階級(商工業者)に支持されて普及し、資本主義の発展に大きな影響を与えた。

 カルヴァン派は各地に広まり、イングランドではピューリタン(清教徒)、スコットランドではプレスビテリアン(長老派)、フランスではユグノー、オランダではゴイセンと呼ばれ、その勢力はルター派をしのぐようになり、ルター派以上に大きな影響を残した。




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