3 宗教改革

1 ルターの宗教改革

 1517年にドイツでおこった宗教改革は、単に宗教面のみならず、政治・経済・社会のあらゆる面に大きな影響を及ぼした。

 宗教改革がおこった背景としては、(1)教会大分裂(シスマ)などの出来事によって教皇や教会の権威はさらに衰え、教会の世俗化や腐敗が進んだために教会を批判し、教会の革新を主張するウィクリフやフスによって先駆的な運動が行われたがカトリック教会内部での革新が進まなかったこと。(2)エラスムスの『愚神礼賛』やドイツのロイヒリンやメランヒトンなどにより聖書の文献学的研究が進んだことなどルネサンスのヒューマニストの影響が広まるなかで、人々が教会の世俗化や腐敗に疑問を抱くようになったこと。 (3)国王の中央集権化が進むなかで、国王は教会の束縛を離れようとする傾向を強めていたことなどがあげられる。

 ルネサンスの保護者として知られるメディチ家出身の教皇レオ10世は、サン=ピエトロ大聖堂の改築資金を調達するために、当時のマインツ大司教にドイツでの贖宥状(免罪符)販売を許可した。

 カトリック教会では、罪を告白し、悔い改めた者に、祈りや巡礼、金銭の喜捨などの償いを課した。罪の償いを金銭の喜捨で免除できるとしたのが贖宥状であるが、中世末には贖宥状は教皇庁の財源をまかなう手段として乱用され、贖宥状を購入すれば罪そのものが許されるという考え方が広まっていた。

 レオ10世が、ドイツでの贖宥状の販売を許可したのは、当時のドイツが「ローマの牝牛」と呼ばれていたように、ドイツは分裂を続け、皇帝権力が弱く、教皇に対する抵抗がほとんど見られなかったからである。しかも、この時のドイツでの贖宥状販売には、ドイツにおける教皇庁財政の独占的管理者でもあったアウグスブルクの大富豪フッガー家が協力していた。

 マインツ大司教は、贖宥状販売をドミニコ派修道会の説教僧であるテッツェルに委ねた。テッツェルは、教皇の紋章をつけた十字架を先頭に行列をつくって町をねり歩き、「お金が賽銭箱のなかでチャリンと音を立てさえすれば、魂は煉獄の焔の中から飛び出してくる」などという露骨で巧みな説教により、身分や収入に応じて寄進の額を定めて贖宥状を売りまくり、人々からお金を集めていた。テッツェルの一行はザクセン選帝侯領内のヴィッテンベルクの近くでも贖宥状を売りまくった。

 この時、修道士でヴィッテンベルク大学の神学教授でもあったマルティン=ルター(1483〜1546)は、1517年10月31日に、ヴィッテンベルク城教会の扉に、贖宥状の悪弊を攻撃する「九十五カ条の論題」を発表した。この出来事が宗教改革の発端となった。

 ルターは、中部ドイツのテューリンゲンの鉱夫の家に生まれ、エルフルト大学で学んだが、友人の死や落雷体験をきっかけに修道院に入った(1505)。後にヴィッテンベルク大学の神学教授となり(1512)、1517年に「九十五カ条の論題」を発表して、宗教改革の口火をきった。

 ルターは「九十五カ条の論題」のなかで、『第一.われわれの主にして師たるイエス=キリストが、「汝ら悔い改めよ」というとき、信徒の全生活が、改悛であらんことをのぞんでいるのである。
 第二十七.かれらは人に説教して、金銭が箱になげいれられて、音がするならば、霊魂は(煉獄から)とびにげる、といっている。
 第二十八.箱のなかで金銭が音をたてるとき、財貨と貪欲とがいやますことは、確かではあれ、教会の(赦宥の)援けは、ただ神の意思のうちにのみよっている。
 第八十二.もし、教皇が教会をたてるというような瑣末な理由で、いともけがらわしい金銭をあつめるため、無数の霊魂をすくうのならば、なぜ、あらゆることのうち、もっとも正しい目的てある、いとも聖なる慈愛と霊魂の大なる必要のために、煉獄から(霊魂)をすくいださないのであろうか。』(山川出版社、世界史史料・名言集より)と述べて、魂の救済は善行や儀式によるのでなく、悔い改めと福音への信仰によってのみ人は救われるとして、贖宥状の販売を激しく攻撃した。

 「九十五カ条の論題」は、神学上の論争を求めたものであり、教皇の権威を否定するものではなかったが、たちまちドイツ中に広まり、大反響を呼び起こした。

 教皇は使節を派遣し、ルターに説の取り消しを求めたが、ルターは応じず(1518)、神学者エックとのライプチヒの公開論争では教皇権を否定し(1519)、『キリスト者の自由』(1520年刊)を著し、「人は信仰によってのみ義とされる」という信仰義認説を主張した。

 教皇は、ルターが60日以内に自説を撤回しない場合は破門に処すとの教書を発したが、ルターは破門状を公衆の面前で焼却し(1520)、破門された(1521)。

 教皇は、神聖ローマ皇帝カール5世(位1519〜56)に、ルター破門の実行を要求した。イタリア戦争を有利に展開するために教皇との緊密な関係を必要としていたカール5世は、ルターを弾圧するためにヴォルムスの帝国議会への出頭を命じた。

 ルターの友人達は、ルターに出頭は危険だから中止するように勧告したが、ルターは「ヴォルムスの屋根の瓦ほど多くの悪魔がいても、私は行くつもりだ」と答えて出頭した。

 カール5世から自説の撤回を求められたのに対し、ルターは聖書に明らかな証拠がある以外は取り消さないと拒否し、「我ここに立つ、神我を助け給え」という言葉で答弁を終わったと言われている。カール5世はルターを法律の保護外において帝国追放に処し、ルター派を禁止して彼の著書の購買や頒布を禁じた(1521)。

 その後、ルターは突然人々の前から姿を消し、行方が分からなくなった。ルターはザクセン選帝侯の居城ヴァルトブルク城にかくまわれていたのである。そこで彼は『新約聖書』のドイツ語訳を完成し、一般の人々にも聖書が読める道を開いた。

 その頃、ルターが聖書中心主義を唱えたのに対し、聖霊による神秘的な体験を重視し、聖書を軽んずる教派がおこり、広まっていた。この教派は、自覚のない幼児期の洗礼を無効として、成人の「再洗礼」を主張したので、再洗礼派と呼ばれている。

 ルターは、このような動きを知り、ヴァルトブルク城からヴィッテンベルクへ戻り、警告の説教を行った(1522)。

 この頃までに、ルターの教えは、教皇や皇帝に反感を抱く諸侯・没落しつつあった騎士・自由を求める都市の市民・封建制の重圧に苦しむ農民に受け入れられていたが、その受け入れられ方は身分や階層の利害と関わっていたので、宗教改革は単に信仰の問題には留まらず、政治化の方向をたどっていった。

 没落しつつあった騎士達は、宗教動乱に乗じて教会諸侯領の撃破を唱えて蜂起したが諸侯軍によって鎮圧された(騎士戦争、1522〜23年)。

 教会や諸侯の圧迫に苦しんでいた農民達は、ルターの思想的な影響を受けて、1524年に南ドイツを中心に大規模な反乱を起こした。この出来事はドイツ農民戦争(1524〜25)と呼ばれている。彼らは農奴制の廃止や封建的地代の軽減などを求めて「十二カ条の要求」を掲げて戦い、一時は南ドイツの3分の2を制圧した。反乱はさらに各地に広がり、特に再洗礼派の代表者であるトマス=ミュンツァー(1490頃〜1525)が指導した中部ドイツでは激しい暴動が起こった。

 トマス=ミュンツァーは、初めルターの福音主義を支持したが、再洗礼派の人々に出会い、次第にルターから離れて急進化し、教会の腐敗・堕落を激しく攻撃するようになった。後にドイツ農民戦争に参加し、信仰を社会改革に結びつけて徹底した社会改革を求め、中部ドイツのチューリンゲンで一時市当局を打倒したが、後に諸侯軍に敗れて斬首された。

 ルターは、初め農民を支持したが、ミュンツァーに率いられた農民達が財産の共有や神の前での平等を主張して教会を襲撃するなど過激な行動をとるようになると、彼らを「殺人強盗団」とののしり、諸侯に「狂犬同様に絞め殺し、打ち殺してしまえ」と過激な鎮圧を勧告した。これに対してミュンツァーはルターを「嘘つき博士」と呼んで激しく非難した。ルターがこのような行動をとったのは、彼が問題としたのは内面的な信仰のあり方であって、社会の現状を変革することまでは考えていなかったためである。

 装備に勝る諸侯軍は、ルターの支持に力を得て結束して反撃に転じ、反乱側の分裂・不統一に乗じて農民軍を徹底的に鎮圧した。農民の犠牲者数は10万人にも達したといわれている。

 ドイツ農民戦争後、南ドイツの貧しい農民達はルター派から離れ、以後ルター派の支持者は、おもに北ドイツの諸侯や豊かな市民・農民に移っていった。ルター派の諸侯は、領内の教会の首長として、領内の教会の支配権を握り(領邦教会制)、修道院の解散などの改革を進めていった。

 その頃、神聖ローマ皇帝カール5世は、フランス王フランソワ1世とイタリアをめぐって争っていたが(イタリア戦争)、フランソワ1世はカール5世に対抗するためにドイツのルター派諸侯を援助し、またオスマン=トルコ帝国のスレイマン1世と結んだ。

 スレイマン1世はハンガリーを攻略してオーストリアに侵入した。孤立したカール5世は、第1シュパイアー帝国議会(シュパイエル国会、1526)でルター派を認めて、ルター派諸侯の支持を取りつけて危機を脱した。

 その後スレイマン1世は再度オーストリアに侵入し、1529年にはウィーンを包囲した。カール5世はウィーン包囲をかろうじて撃退すると、第2シュパイアー帝国議会で3年前の決定を取り消し、再びルター派を禁止したため、ルター派諸侯は抗議書を提出した(1529)。このため彼らはプロテスタント(抗議する者の意味)と呼ばれるようになった。

 ルター派諸侯・都市はシュマルカルデン同盟を結成して(1530)、皇帝に対抗し、両者の争いは後にシュマルカルデン戦争(1546〜47)と呼ばれる内戦となったが、同盟側は内部分裂によって戦いに敗れて瓦解した。

 しかし、国内の混乱を恐れた両者は妥協して、1555年にアウグスブルクの和議を結んだ。この和議によって諸侯にはカトリック派(旧教)とルター派(新教)のうちいずれかを選択する権利が認められ、都市では両派の存在が認められた。

 しかし、アウグスブルクの和議では、個人の信仰の自由は認められず、領民の信仰は諸侯のそれと一致することが要求され、領民は諸侯が選択した派を信仰しなければならなかった。また当時各地に普及していたカルヴァン派は除かれるなど問題が多く、後に三十年戦争(1618〜48)が起こる原因となった。
 ルター派はやがてデンマーク・スウェーデン・ノルウェーなどの北欧諸国にも広がった。




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