| 第2日(瀋陽) | |
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| 第2日目 1999年8月2日(月)瀋陽 | |
| 5:30起床。同室の青木先生は朝の散歩に出られるが、私は荷物の整理など。ここ瀋陽でもNHK衛星放送が受信できる。朝のドラマ「すずらん」を見て、朝食へ(7:00)。ホテルのロビーで、3年前の旅行の全行程のガイドをして下さった李華濱さんにお会いする。今回も最初は李さんとのことだったが、腰を痛めて同行することが出来なくなった。 | |
| 8:30 ホテルを出発。やや曇り空で昨日より涼しい。まず瀋陽故宮博物館へ。
瀋陽故宮は、清の初代皇帝である太祖ヌルハチ(1559〜1626、在位1616〜1626)が建州女直(女真)を統一して、「後金」を建国し、都を瀋陽に移した(ヌルハチにとっては3つ目の都)際に創建された王宮で、2代目の皇帝の太宗ホンタイジもここに住んだ。1625年から建設を始め36年に完成した。面積は約6万平方メートルで、北京の故宮の約12分の1である。かっては瀋陽には、この故宮を取りまく城壁や城門が多くあったが、1950年以来交通の邪魔になるとのことで取り壊された。しかし、現在でもかっての内城、外城の跡ははっきり残っているとのこと。8:50頃故宮へ到着。入場料は35元。 瀋陽故宮は、東楼・中楼・西楼の3つから成っている。まず中楼の「崇政殿」(ホンタイジが政務を執った場所)を見る。瀋陽故宮の中では最も堂々とした建物だった。次に東楼の「大政殿」(ヌルハチ時代に建てられ、皇帝が式典を行う場所)とその前の広場の左右に建てられた「十王亭」を見た。十王亭は、左翼王・右翼王(左大臣・右大臣に相当する)と「八旗(はっき)」の軍団長が政務を執った10の建物である。 「八旗」は、ヌルハチが始めた清の軍事組織であり、平時には行政組織を兼ねる清独自の制度である。軍制としては、男300人を1ニル、5ニルを1ジャラン、5ジャランを1グサ(旗)とする。つまり1旗は7500人の軍団で、それが8つあった。そして8つの軍団は黄・白・紅・藍の4色の軍旗と、それぞれの色の旗に縁をつけた計8つの旗で区別した。右翼王・左翼王の部屋の中には4つずつの旗が飾ってあった。 また中楼に戻り、一番奥の「清寧宮」(ホンタイジの皇后が住んでいた建物)とその前にある他の4人の側室の部屋を見、最後に見た「鳳凰楼」(軍事の重要事を審議する建物)には、乾隆帝(第6代皇帝、在位1735〜95)の「紫気東来」の額があった。その後「院蔵文物珍品展」を見て、故宮を後にした(9:50)。 |
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| 故宮博物館のすぐ近くに「張氏帥府」がある。張氏帥府は、奉天軍閥の首領で後に日本軍(関東軍)によって爆殺された張作霖(1875〜1928)とその長男の張学良(1901〜)の私邸及び公邸である。
張学良は、父を日本軍によって殺された後、東北軍を掌握して中国東北地方(旧満州)の実権を握り、日本に抵抗して国民党の蒋介石(1887〜1975)を支持し、つながりを深めていった。満州事変が起きたとき、彼は蒋介石の指示に従って不抵抗政策を採り、戦わず東北軍を中国本土に移し、「不抵抗将軍」と非難された。1933年に下野して外遊し、翌年帰国し、共産党討伐に従事したが、抗日派の彼は共産党が1935年に発表した「八・一宣言」(国民党と共産党の中国人同士の内戦をやめて、一致して日本の侵略と戦おうと言う宣言)に共鳴し、36年に「西安事件」(共産党討伐の督促に西安を訪れた蒋介石を張学良と楊虎城らが武力で監禁した事件)を起こし、以後軟禁状態におかれ、1946年の国共内戦の開始にともない台湾に移された。 この間、張学良は公の場に姿を現すことなく、その生死さえ分からなかった。その張学良が「90歳の祝宴」で公の場に姿を現し、世界中を驚愕させたのが、1990年の6月のことであり、それから2ヶ月後にNHKのインタビューに応じ、このインタビューをもとにNHKは1991年に、NHKスペシャルで「張学良がいま語る−日中戦争への道−」を放映した。この番組を見て非常に感銘を受けた私は、今まで世界史の授業の最後に必ずこの番組のビデオを生徒に見せてきた。それだけにぜひ訪れたい場所だったのがこの「張氏帥府」で、今回の旅の中でも特に印象の残る場所の一つであった。 張父子の住居は、中国の伝統的な「四合院」(中庭を囲んで口の字型に建てられた家)で、それぞれの部屋には興味深い写真・資料が展示されていた。四合院の奥にNHKのビデオに出てきた「大青楼」(3階建ての洋式の建物で、この各部屋にも各種の展示が為されていた)。40分ほど見学して、そこを出発し(10:45)、旧満州飛行機工場へ向かった。 |
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| 旧満州飛行機工場は現在は軍の施設になっているので写真撮影は禁止、車内から見学し、瀋陽市の東南のはずれになる旧花園街へ。
青少年義勇軍関係の数名の方が、この辺りに住んでいて飛行場で働いていたとのことで、くわしい場所は分からなかったが、住宅団地の空き地でビデオ撮影を行った(11:20頃)。 その後、遼寧海外旅遊公司の食堂で昼食(12:10)。今朝、瀋陽故宮で撮った記念写真を70元で購入。13:00に出発し、遼寧友誼工芸美術有限公司で買い物(13:05〜35)。シルクのスカーフ2枚を150元で買った。瀋陽の名産の一つに琥珀(こはく、松ヤニが炭化した物、特に中に昆虫などが入っているのが価値がある)があり、かなりしつこく勧められるが、高価な物なので買わずに出る。 |
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| 13:45頃、奉天事件(張作霖爆殺事件)の現場である皇姑屯(こうことん)駅の近くに到着。中国東北地方の軍閥、奉天派の首領であった張作霖は、馬賊からのし上がり、後に清朝に帰属して、1916年に奉天督軍となり、日本と結び、日本の支援を受けて他の軍閥を圧倒し、1927年には北京に進出して大元帥になった。
しかし、彼は蒋介石の率いる国民党の北伐軍に敗れ、本拠地である奉天に引き上げて再起を図ろうとした。これに対して満州の支配をねらう日本は、張作霖が奉天で勢力を取り戻せば日本の満州進出にとって障害になること、また彼が以前のように日本の思う通りにならなくなったことから、関東軍の将校らが中心となって、奉天に引き上げる張作霖の乗った列車を京奉線と満鉄がクロスする地点で爆破して張を暗殺した。これが奉天事件(張作霖爆殺事件)である。 数年前まで鉄橋のすぐ側に「張作霖爆殺現場」のコンクリート作りの碑が建っていたとのことだが、その碑の表面は壊れてその周りに散らばっていた。しかし、現場に立ってみて状況がよく理解できた。下を北京と奉天を結ぶ京奉線が走り、ほぼ直角に上を満鉄が走っていた。関東軍は爆薬を上の鉄橋部分に仕掛けて、張作霖が乗った列車がその真下を通過したときに爆破した。そのため張作霖の乗っていた車両は崩れ落ちた鉄橋に押しつぶされた。張作霖は即死でなく張氏帥府にかつぎ込まれてまもなく死亡した。二つある橋脚ののうち1つは、元のままの石組で出来ており、もう一方はコンクリートで出来ている。コンクリートで出来ている方が爆破のため破壊され、後で修理された橋脚である。 14:10頃、皇姑屯を出発し、旧奉天駅でバスを下車して写真を撮る。東京駅をモデルにした煉瓦作りの瀟洒な駅だった(14:15〜25)。その後、瀋陽の旧大和ホテル(現、瀋陽賓館)へ立ち寄る。前の大きな広場(中山広場)に大きな毛沢東像があった。毛沢東像は最近は余り見かけなくなったが、ここにはまだ残っていた。 |
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| 15:00頃、中国の5大博物館の一つである遼寧省博物館に到着し、新館の方を見学する。旧館の建物はかっては張作霖の官邸であったが、彼が部下の湯玉麟に与えた建物だそうだ。収蔵品は10万点に及ぶと案内書にあるので期待したが、展示内容はやや期待はずれであった。
22万年前の金牛山人、5〜6000年前の紅山文化(新石器文化)に始まり、(1)商(殷のこと)周北土的青銅文化の展示では彩陶や多くの青銅器が展示されていた。(2)秦漢帝国的歴史遺跡の展示では、秦の始皇帝が度量衡を統一したが、その時の秦陶量(ます)、秦権(おもり)や半両銭(通貨)などが目を引いた。以下、(3)晋唐時期的民族文化、(4)遼東高句麗文化遺跡、(5)絢麗多彩的遼文化などを見て回った。 |
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| 約1時間の見学の後、瀋陽北站(駅)に到着(16:25)。人々でごった返す待合室で40分余り待った後、17:15分発の図們(ともん)行き列車の軟臥車に乗り込む。
列車は16両編成だが、軟臥車(一等寝台のようなもの)は1両だけで、4人用のコンパートメントが8つある。0先生、Y先生、Tさんと同室になる。 18:50頃、地平線に大きな夕日が沈む。食堂車で夕食(19:00〜19:30)。前回の旅での食堂車の食事は余りよくなかったが、今回の夕食は、7品のおかずがつき、今まででは一番よかった。 四平(19:50)、長春(21:30)を通過。22:30頃、ベッドで横になる。途中何度か停車で目が覚めるが、よく眠れた。 |
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