4 最近の世界

2 アジア=アフリカ諸国(その2)

 パキスタンでは、1999年10月に軍事クーデターが起こり、ムシャラフ(1943〜、任2001〜)陸軍参謀長が権力を掌握して軍政を敷き、2001年6月には大統領に就任した。

 パキスタンはアフガニスタンのタリバン政権と国交を有する数少ない国であったが、2001年9月の同時多発テロ事件後のアフガニスタン攻撃に際しては、アメリカ政府の要求に応じてアメリカに協調した。 

 2001年12月、イスラム過激派によるインド国会襲撃事件が起こった。その後もゲリラによる襲撃事件・爆弾テロ・カシミールでの衝突などが起こり、印パ間の軍事緊張が10ヶ月にわたって続いたが2002年10月頃からは緩和に向かっている。

 2002年4月の国民投票で5年間の任期延長が認められたムシャラフ大統領は、3年以内(2002年10月まで)に選挙による民政移管を命じる最高裁判決(2000.5)に従い、2002年10月に総選挙を実施した。

 総選挙では、ムシャラフ支持のパキスタン=イスラム教徒連盟反シャリフ派が第1党となったが単独過半数に及ばず、ムシャラフ政権の今後が注目されている。

 なおパキスタンは1998年5月にインドに対抗して初めての地下核実験を実施し、国際社会の非難を浴びた。

 インドでは、ラジブ=ガンディー暗殺(1991.5)後の1991年6月に行われた総選挙で国民会議派が第1党となり、7月にラオ(任1991〜96)が首相に就任した。

 ラオ首相は外国投資拡大や規制の大幅緩和など経済自由化政策を打ち出した。また1991年12月には中国の李鵬首相が中国の首相としては31年ぶりにインドを訪問し、1993年9月にはラオ首相が訪中して国境問題の早期解決を目指すことなどで合意し、中印関係は好転に向かった。

 その一方で、1992年12月にはインド北部のヒンドゥー教聖地でヒンドゥー教徒が独自の寺院を建設しようとしてイスラム教寺院を破壊したことが発端となり、各地でヒンドゥー教徒とイスラム教徒の衝突が起こり、翌1993年1月にかけて約2000人が死亡した。また1996年1月にはインドとパキスタンの国境地帯ジャム=カシミール州でインド国境警備隊とパキスタン軍が交戦する出来事が起きている。

 1996年4〜5月の総選挙では、ラオ首相の率いる与党の国民会議派が大敗し、ヒンドゥー至上主義のインド人民党が第一党となった。同月、インド人民党のバジパイが首相に就任したがわずか13日で退陣し、その後ゴウダ(任1996.6〜97.4)・グジュラル(任1997.4〜98.3)が首相に就任した。

 1998年2〜3月の総選挙ではインド人民党が第一党となり、3月に同党を中心とするバジパイ(1924〜、任1998〜)連立政権が成立した。その後、1999年9〜10月の総選挙でもインド人民党は再び第一党となり、バジパイ首相を首班とする国民民主連合政権(インド人民党を中心に20以上の政党からなる連立政権)が発足した。

 この間、インドは1998年5月に24年ぶりに2回にわたって地下核実験を実施した。このインドの核実験に対しては世界各国から非難が集まり、アメリカ・日本・ドイツなどが経済制裁を実施した。

 バジパイ政権も経済自由化政策を推進し、経済改革の一層の進展に取り組んでいる。

 2001年12月にはイスラム過激派によるインド国会襲撃事件が起こり、その後もゲリラによる襲撃事件・爆弾テロ・カシミールでの衝突などが起こって印パ間の軍事緊張が10ヶ月にわたって続いたが2002年10月頃からは緩和に向かっている。

 ミャンマーでは、タン=・シュエ(1933〜、任1992〜)が1992年4月に国家法秩序回復評議会議長に就任して以降、国家平和開発評議会議長(国家元首)・首相・国防相・国軍司令官を兼任して現在に至っている。

 1995年7月に自宅軟禁を解除されたスー=チー(1945〜)は、同年10月に国民民主連盟総書記に復帰して民主化運動を進め、軍事政権を批判して政府と対立した。

 タン=・シュエ政権は、2000年10月からスー=チーとの直接対話を開始し、国民民主連盟の政治犯を釈放し(2001年6月〜2002年8月までに約350名を釈放)、国民民主連盟の活動再開を認めるなど柔軟路線に転じ、2002年5月にはスー=チーの自宅軟禁を解除した(2000年9月に地方訪問を阻止されて自宅軟禁になっていた)。また経済開放政策を推進し、1997年7月にはASEAN(東南アジア諸国連合)に加盟した。

 1997年7月のタイのバーツ切り下げに端を発したアジア通貨・金融危機は東南アジア・東アジア諸国に広がり、同年9月にはタイのバーツは約40%下落し、インドネシア・マレーシア・フィリピンの通貨も最安値を更新した。以後翌1998年にかけて東南アジア・東アジア諸国の経済は深刻な景気後退に陥った。

 タイ政府はIMF(国際通貨基金)などに金融支援を要請するとともに財政・金融再建策を発表し、歳出の大幅削減などに取り組んだ。こうした状況の中で1997年10月にはチャワリット首相の退陣を求めるデモが激化した。

 1997年11月、チャワリット首相(任1996〜97)は経済危機の責任をとって辞任し、チュアン(任1992〜95、1997〜2001)が首相に就任して第2次チュアン内閣が発足した。

 チュアン政権は経済危機を克服するために緊縮政策を実施し、経済再建に努めた。1998年後半からはIMFの合意を得て緊縮政策から内需拡大政策に転換し、減税・雇用創出・公共投資・中小企業支援等に取り組み、景気の回復を図った。しかし、金融機関を中心とする企業の倒産・失業者の増大などに対する国民の不満が高まり、任期満了直前に下院を解散して2001年 1月に下院選挙を実施した。

 2001年1月の下院選挙ではタイ愛国党が下院の過半数近くを占める圧倒的勝利をおさめ、同年2月にタクシンを首班とするタイ愛国党など4党の連立政権が成立した。

 タクシン(1949〜、任2001〜)首相は、施政方針演説で経済回復と弱者対策を最優先課題とすることを表明し、農民の負債の3年間猶予・中小企業への支援などの経済政策を打ち出し、経済回復に努めている。

 インドネシアでは、1998年5月にスハルト大統領が辞任し、ハビビ副大統領が大統領に就任(任1998〜99)したが、スハルト政権の崩壊とともに東ティモールの分離・独立運動が高まった。

 東ティモールでは、1974年にポルトガルが植民地放棄を決定すると、翌1975年に独立派が独立を宣言した。しかし、1976年にインドネシア政府は一方的に併合を宣言し、東ティモールを第27番目の州として併合したので以後独立派の武装組織によるゲリラ活動が続き、スハルト政権の崩壊とともに独立運動が高まった。

 1999年8月に住民投票が実施され独立支持派が圧勝すると、結果発表直後から独立反対派による暴動が続き、騒乱状態となった。国連安保理は多国籍軍の設立と国連東ティモール暫定行政機構の設立を決定する決議を採択し(1999.9〜10)、インドネシア政府も東ティモールの分離を認める決定を採択した(1999.10)。

 東ティモールはその後、東ティモール暫定政府の発足(2000.7)・憲法制定議会選挙の実施(2001.8)・憲法公布(2002.3)・大統領選挙の実施(2002.4)を経て、2002年5月に東ティモール民主共和国として独立した。

 この間インドネシアでは、1999年10月にハビビ大統領の責務総括演説が否認され、翌日に行われた国民協議会での大統領選(インドネシア史上初めての民主的選挙)では野党が擁立した国内最大のイスラム団体の指導者であるワヒド(1940〜、任1999〜2001)がメガワティ(闘争民主党党首)を破り、第4代大統領に選出された。しかし、ワヒドは政治的安定や経済回復などの課題を果たせないままで2001年7月に解任され、メガワティ副大統領が大統領に昇格した。  

 メガワティ大統領(1947〜、任2001〜、スカルノ初代大統領の長女)は、民主化や政治的安定・経済回復などに努め、同時多発テロ事件以後はイスラム国家の指導者としてテロへの対応にも取り組んでいる。しかし、2002年10月にはバリ島でテロによる爆発で多くの死傷者が出るという事件が起きた。

 またアチェー特別州では、同州の独立派武装組織「自由アチェー運動(GAM)」が1976年に独立を宣言して以来、武力紛争が続いてきたが(アチェー紛争)、2002年12月にインドネシア政府と自由アチェー運動(GAM)が和平協定に調印した。この和平協定によって両者は、即時停戦・GAMの段階的な武装解除・2004年にアチェーで地方選挙を実施することなどで合意し、1976年以来続いてきたアチェ紛争は自治拡大の最終解決に向けて大きく前進することとなった。

 オーストラリアでは、1983年3月の総選挙で労働党が大勝し、それまでの自由党のフレーザー首相(任1975〜83)に替わって、労働党のホーク(任1983〜1991)が首相に就任した。

 以後、ホーク政権(1983〜91)・キーティング政権(1991〜96)と労働党政権が5期にわたって続いたが、1996年3月に行われた総選挙では自由党・国民党の保守連合が13年ぶりに労働党に圧勝し、自由党のハワード(1939〜、任1996〜)が首相に就任した。ハワード政権(1996〜)は現在3期目を迎えている。

 なおこの間、1998年2月に憲法会議は2001年までに立憲君主制から共和制へ移行することで合意し、1999年11月にイギリスのエリザベス女王を国家元首とする立憲君主制維持か共和制移行かを問う国民投票が行われた。しかし、国民投票では立憲君主制支持が過半数を占めて立憲君主制維持が決定した。

 ヴェトナムでは、1986年12月に開かれた第6回党大会で、共産党書記長に就任したグェン=ヴァン=リン(1915頃〜98、任1986〜1991)が、「ドイモイ(刷新)」の導入を表明して採択された。

 グェン=ヴァン=リンはドイモイ政策を掲げ、市場経済の導入・外国資本の導入などヴェトナムの改革・開放路線を推進し、1991年6月に改革派主導の新指導部を発足させて引退した。そして翌1992年4月には、従来の社会主義経済制度を大幅に修正してドイモイ路線を初めて盛り込んだ改正憲法が公布・施行された。

 ヴェトナムはドイモイ政策の推進によって1990年代前半には9%台の高い経済成長を続け、1996年6月に開かれた党大会では改革・開放路線(ドイモイ)を推進し、2020年までに工業国入りを目ざすことが表明された。そして翌1997年9月にはドイモイ政策をさらに促進するために指導部の若返りがはかられ、ファン=ヴァン=カイ(1933〜、任1997〜)現首相が首相に就任した。

 この間、1991年11月には中国との関係を正常化し、1992年には韓国との国交を樹立した。また1995年7月にはアメリカとも国交を正常化し、2000年11月にクリントン大統領が南北ヴェトナム統一(1976.7)後、アメリカ大統領としては初めてヴェトナムを訪問した。さらに1995年7月にはASEAN(東南アジア諸国連合)に加盟して(7番目の加盟国)ASEAN諸国との関係を強化するなど全方位外交を展開している。

 2001年4月に開かれた党大会では社会主義体制の維持とドイモイ路線の継続が打ち出された。また党書記長にはノン=ドゥック=マイン(1940〜、任2001〜)が選出され、新体制のもとで貧富の差の拡大や汚職などの弊害の解決や経済発展に取り組んでいる。

 フィリピンでは、ラモス大統領(任1992〜98)・エストラーダ大統領(任1998〜2001)の後継として、2001年1月にアロヨ(1947〜、任2001〜、マカパガル元大統領(任1961〜65)の娘)が大統領に就任した。

 アロヨ大統領は就任後、貧困の撲滅・治安の改善・反政府勢力との和平交渉の推進等を重要課題に掲げてその実現に取り組み、反政府勢力との和平交渉では一定の成果をあげている。

 モロ民族解放戦線(フィリピン南部のミンダナオ・スルー諸島の分離独立を目ざすイスラム教徒の組織)とは、1996年9月の最終和平合意に基づき、ミンダナオ自治地域の地方選挙を実施し(2001.11)、新ミンダナオ自治地域を発足させた。またモロ=イスラム解放戦線とは、2001年6月に中断していた和平交渉を再開し、「和平に関する合意」で停戦協定(1997.7)の履行や紛争地域・避難民への援助などを約した。

 さらに共産主義勢力とも、2001年4月から約2年ぶりに和平交渉を再開したが、6月に下院議員が共産ゲリラ(新人民軍)によって殺害されたために無期限延期になり、新人民軍がアメリカ政府のテロ組織のリストに追加された(2002.8)ことから、共産主義勢力との和解は困難になっている。




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