4 最近の世界

2 アジア=アフリカ諸国(その1)

 エジプトでは、サダト暗殺(1981)後大統領に就任したムバラク(1929〜、任1981〜)が20年以上の長期にわたって政権を担当している。

 エジプトは湾岸危機・湾岸戦争(1990〜91)ではアラブ諸国の中にあって反イラク陣営の中心として外交面で活躍し、湾岸戦争ではアメリカを中心とする多国籍軍に協力した。

 1991年10月に開かれたアメリカ主導の中東和平会談(マドリード会談)の進展を支援し、1992年7月には6年ぶりにエジプトを訪問したイスラエルのラビン首相と会談を行って中東和平交渉の推進で合意した。そして1993年9月のパレスチナ暫定自治協定の調印、1994年4月のパレスチナ先行自治協定の調印にはアメリカとともに大きな役割を果たした。

 1995年6月にはOAU(アフリカ統一機構)首脳会談に出席するためにアディスアベバ入りしたムバラクが武装グループに襲撃されるという出来事が起こり(ムバラク暗殺未遂事件)、スーダンとの関係が悪化した。

 国内でも、1995年頃からイスラム原理主義組織・イスラム過激派によるテロが激化し、1997年11月にはルクソールでイスラム過激派の武装グループが観光客を自動小銃で無差別に襲撃するという出来事が起こり、エジプト政府はテロの取締りを一層強化した。

 ムバラクは1999年9月の国民投票で4選され、1991年に開始された市場経済化に向けた経済改革を進め、国内の社会格差の是正などに取り組んでいる。

 南アメリカは、1994年5月に南アフリカ初の黒人大統領に就任したマンデラ(1918〜、任1994〜99)のもとで、同年6月に国連総会での議席を20年ぶりに回復するなど国際社会へ全面的に復帰した。

 1996年5月、憲法制定議会で、人種による差別などいっさいの差別を禁止する、世界で最も民主的な憲法といわれている新憲法が採択され、翌1997年2月に施行された。

 1999年6月、マンデラは引退し、アパルトヘイト撤廃後2度目の全人種参加の総選挙でマンデラの後継者であるムベキ副大統領が当選し、ムベキ現政権が発足した。

 クルド人はトルコ・シリア・イラン・イラク・アルメニアなどに分布するアーリア系の民族で、その数は約2500万人といわれている。古くからこの地に居住し、12世紀にはサラディンがアイユーブ朝(1169〜1250)を建国した。

 トルコでは、クルド人は山岳トルコ族と呼ばれ、彼らはクルド労働者党を組織し、独立国家を目ざしてゲリラ活動を行ってきた。

 1991年の湾岸戦争後のイラク政府によるイラクのクルド人蜂起の鎮圧によって、イラクのクルド人難民約40万人がトルコ領内に流入した(1991.3)。

 1991年10月、トルコ軍機がイラクに越境してクルド人拠点を爆撃し、翌1992年にトルコとイラク国境でトルコ軍とクルド人労働党との交戦が始まった。1993年6月、クルド労働者党のオジャラン党首はトルコ政府に対し全面戦争を宣言し、ゲリラ戦を展開した。

 1995年3月、トルコ軍はクルド労働者党の掃討を目的にイラク領内へ侵入し、ゲリラ側に大打撃を与えた。その後もトルコ軍によるクルド労働者党の掃討作戦・イラク領への侵攻とクルド労働者党によるゲリラが続いたが、1999年2月にクルド労働者党のオジャラン党首はケニアで逮捕されてトルコに連行され、オジャランには死刑判決が下された(1999.6、後に国際世論を考慮して終身刑に減刑)。

 トルコでは、2002年11月の総選挙で連立与党は惨敗し、イスラム穏健派の公正発展党が大勝利をおさめた。トルコでは、政教分離を掲げた憲法でイスラム系政党は活動を禁止されているので大問題となったが、その後発足した公正発展党政権は国内外の信頼を得るように全ての面で穏健路線を強調している。

 イスラエルでは、1992年6月の総選挙で労働党が大勝し、ラビン内閣(1992.6〜95.11)が成立した。
 ラビン首相は、1993年9月13日にPLOとの間で、相互の承認・イスラエル占領地のガザ地区とヨルダン川西岸のイェリコでのパレスチナ暫定自治の実施を約したパレスチナ暫定自治協定に調印し、イスラエルとパレスチナとの間で歴史的な和解が実現した。

 さらに翌1994年5月にはラビン首相とアラファト議長が先行自治協定に調印し、ガザ地区とヨルダン川西岸のイェリコで先行自治が開始された。また同年10月にイスラエル=ヨルダン平和条約を締結し、ラビン首相はペレス外相・アラファト議長とともにノーベル平和賞を受賞した(1994.10)。

 その後も、アメリカの仲介で自治拡大交渉が続けられ、1995年8月にはヨルダン川西岸の自治拡大交渉でイスラエル軍がヨルダン川西岸の6都市から撤退することなどで合意し、翌9月にラビン首相とアラファト議長はクリントン米大統領らの立ち会いでパレスチナ自治拡大協定に調印した。

 しかし、ラビン首相はパレスチナとの和平に反対する極右ユダヤ人学生によって1995年11月に暗殺され、ペレスが首相代行に就任した。

 1996年5月に行われたイスラエルで初めての首相公選では治安の維持を掲げた右派リクードのネタニヤフが勝利し、ネタニヤフ連立右派政権(1996.6〜1999.7)が成立したが、ネタニヤフ政権の時代には中東和平プロセスは停滞した。

 パレスチナでは、1996年1月に自治政府議長と評議会議員選挙が行われ、初代自治政府議長にはアラファトが大差で当選し、同年6月に自治政府が正式に発足した。

 また1998年7月の国連総会では、オブザーバーの資格を持つPLOに投票権と立候補権を除いて加盟国と対等の権利を与えるという決議が採択された。

 イスラエルでは、1999年7月に中東和平進展の期待を担ってバラク(労働党)左派連立政権(1999.7〜2001.3、7党による連立内閣)が成立した。

 バラク首相はパレスチナ和平交渉の最終的な合意の実現を目指し、2000年7月にキャンプ=デーヴィッドで開かれたイスラエル・パレスチナ・アメリカの三者サミットに出席した。この会議では、最終的地位交渉(ガザ地区とヨルダン川西岸地区の地位・国境線・難民問題・イェルサレムの地位などの問題の解決を目ざす交渉)についての話し合いが行われたが、イェルサレムの地位や難民問題等で歩み寄りが見られず合意には至らなかった。

 こうしたバラク首相の和平政策は右派や宗教諸政党の反発をまねき、右派や宗教諸政党が次々に連立を離脱し、バラク政権は議会での過半数を大きく下回る少数政権に転落した。

 その上、2000年9月にイスラエルのシャロン(リクード党首)がイェルサレム旧市街の神殿の丘を訪問したことがきっかけとなり、イスラエルとパレスチナ間で大規模な衝突が発生し、多数の死傷者が出た。この衝突を沈静化させるために、同年10月にエジプトでクリントン大統領・アナン国連事務総長・ムバラク大統領・バラク首相・アラファト議長による中東首脳サミットが開催されたが、合意には達しなかった。

 こうした状況の中で、2001年2月には右派リクードのシャロンが首相に選出され、同年3月にリクード・労働党を中心としたシャロン連立政権(2001.3〜)が成立した。

 しかし、その後パレスチナ過激派による自爆テロやイスラエル軍や入植者への襲撃事件が起こると、シャロン首相はパレスチナ自治区にイスラエル軍を侵攻させるなどの強硬策をとった。そのためパレスチナ情勢はますます悪化し、中東和平は暗礁に乗り上げた状況が続いている。また2002年10月には労働党が連立から離脱したため、シャロン政権は危機に直面している。

 1990年8月2日、フセイン(1937〜、任1979〜)政権下のイラク軍がクウェートに侵攻し、8日に併合を宣言した。これをきっかけに湾岸危機・湾岸戦争が勃発した。

 クウェートは1961年にイギリスの保護下から完全独立を果たしたが、独立後もイラクは石油資源が豊かなクウェートをイラク領の一部であると主張していた。

 国連安保理はただちにイラクの即時・無条件撤退を要求し(8月2日)、経済制裁を発動したが(8月6日)、イラクはこれらの決議に応じなかった。11月29日、安保理はイラクに対して1991年1月15日までにクウェートからの撤退を求め、これに従わない場合はイラクに対する武力行使を容認する決議を行った。

 1991年1月17日、国連決議を無視するイラクに対してアメリカ軍を中心とする多国籍軍が空爆を開始し、湾岸戦争(1991.1〜3)が始まった。多国籍軍は最新鋭のハイテク兵器を駆使して空爆によってイラクに大打撃を与え、2月24日には地上戦に突入した。イラク軍は一方的に敗走し、多くの兵士が捕虜となった。

 1991年2月28日、フセインはイラク軍に戦闘停止を命令し、翌3月3日にイラク軍は多国籍軍側の条件を全面的に受け入れて停戦が成立した。同年4月、安保理はイラクの大量破壊兵器の破棄・イラクとクウェートの国境の尊重・イラクの賠償支払いを規定した湾岸戦争の恒久停戦決議を採択し、4月11日にイラクはこれを受諾した。

 湾岸戦争の終結直後の1991年3〜4月に、イラク北部のクルド人や南部のシーア派の蜂起が起こったがイラク政府軍によって鎮圧され、200万人のクルド人難民が生まれた。

 1996年8月、イラク北部でクルド民主党(イラクが支援)とクルド愛国同盟(アメリカが支援)との間で戦闘が激化し、クルド民主党から支援を要請されたイラク政府軍が侵攻してクルド愛国党の拠点を攻撃した。これに対してアメリカは同年9月イラク南部の軍事施設に対して2回にわたってミサイル攻撃を行った。その後、1998年9月にクルド民主党とクルド愛国同盟はアメリカの仲介で暫定的な連立政権樹立などで合意し、2002年10月には両勢力が和解と自治体制確立で合意した。

 イラクでは、1991年から国連の査察団や国際原子力機関(IAEA)の査察団による核査察や大量破壊兵器全廃のための査察が開始されたがイラクの拒否や妨害が続いた。特に1997年以降イラクによる査察拒否と妨害が相つぎ、1998年1月にフセイン大統領は対イラク国連制裁が解除されない限り、査察活動への協力を中止すると宣言した。

 1998年2月、アナン国連事務総長がイラク危機の平和的解決を目指してイラクを訪問し、イラクと国連による大量破壊兵器の無条件・無制限の査察実施に関する合意文書に調印した。そして同年3月から査察が開始されたが、8月以後イラク側の査察活動への非協力・妨害や拒否が相次いだため、12月に米英両国軍はバグダッドの軍事関連施設などに空爆を行った。

 2001年9月に同時多発テロが勃発すると、ブッシュ大統領は2002年1月の一般教書演説で、イラク・イラン・北朝鮮の3国を大量破壊兵器の保有を目ざすテロ支援国家と名指し、「悪の枢軸」と呼んで非難した。そして以後イラクに対して強い姿勢で臨み、同年9月には国連総会でイラクに対して査察受け入れを要求し、拒否すれば武力行使も持せずとの演説を行った。

 2002年11月、イラクは安保理のイラク決議(大量破壊兵器の査察受け入れ要求)を無条件で受け入れ、4年ぶりに査察が再開されたが、その成り行きを世界中が注目している。

 イランでは、ホメイニの死(1989.6)後、最高指導者にハメネイ大統領が就任し、1989年7月の大統領選挙ではラフサンジャニ(1934〜、任1989〜1997)国会議長が当選し、8月に大統領に就任した。

 イランでは、1992年5月の国会選挙で、私有財産の制限や国家による経済活動への介入によって富の公平な分配の実現を目ざす左派が大敗し、その後は現実派と保守派の対立が深まった。ラフサンジャニのもとで勢力を伸ばしてきた規制緩和・輸入自由化・民営化などによって経済復興を推進しようとする人々は現実派と呼ばれた。またあらゆる面にイスラム法を適用させ、イスラム法のもとで自由経済を推進しようとする保守派は商人・神学者・地主などに支持されていた。

 1997年5月の大統領選挙で改革派(現実派と左派が連合)のハタミ(1943〜、任1997〜、選挙当時は国立図書館の館長)が保守派候補に圧勝し、8月に大統領に就任した。

 ハタミ大統領は、内政では「法の支配」・「市民社会の確立」・「表現の自由」などを掲げて開放・自由化路線を推進し、対外的にはヨーロッパ諸国やイスラム諸国との関係正常化と国際的孤立からの脱却に努めた。

 2001年6月の大統領選挙で再選されたハタミ大統領は、外国投資の促進や民営化による経済の活性化などの改革に取り組んでいるが、保守派の激しい抵抗もあって困難な状況が続いている。

 アフガニスタンでは、1992年4月にムジャヒディーン(イスラム聖戦士達の意味。ソ連軍が侵攻し、駐留した時期にアメリカ・パキスタン・イラン・サウジアラビアなどの援助のもとでゲリラ戦を展開したイスラム教徒民兵組織)=ゲリラ勢力の大攻勢によってナジブラ政権が崩壊し、同年5月にムジャヒディーン各派による暫定政権が発足した。

 しかし、その後イスラム協会(ラバニ大統領派、タジク人中心)・イスラム党(ヘクマティアル首相派等、パシュトゥーン人中心)を中心とするムジャヒディーン各派間の主導権争いが激化し、再び内戦状態に突入した。この混乱の中から、イスラム原理主義勢力のタリバン(神学生の意味)が1994年末頃から台頭してきた。

 タリバンは内戦に苦しんでいた国民の支持もあって急速に支配地域を拡大し、1996年9月に首都カブールを制圧し、タリバン政権が成立した。

 タリバン政権の成立によってラバニ政権は崩壊し、イスラム協会(ラバニ大統領派)とウズベク人を中心とするドスタム派など3勢力は1997年に北部同盟を結成した。

 オマル師を指導者とするタリバン政権は内戦状態を収拾して治安を回復するとともに厳格なイスラム法に基づく統治を行い、女性の社会進出を否定し、飲酒や娯楽を禁止するなどの規制を強めた。そうした中でイスラム教の偶像崇拝禁止の立場から、2001年3月には有名なバーミヤン遺跡をはじめとする仏教遺跡を破壊し、世界中から非難を浴びた。

 2001年9月に同時多発テロが起こると、ブッシュ大統領はオサマ=ビンラディンを最重要容疑者と名指し、アフガニスタンのタリバン政権にオサマ=ビンラディンの引き渡しを迫った。

 しかし、タリバン政権がこれを拒否したため、アメリカ軍は2001年10月にアフガニスタン空爆を開始し、11月にはアメリカ軍に支援された北部同盟がカブールを制圧した。

 同年12月5日、国連の呼びかけで開催されたアフガニスタン各派代表者会議で暫定政権の設立などを定めたボン合意が成立し、タリバン政権が崩壊(12月6日に事実上消滅)する中で、22日には暫定行政機構が発足した。

 翌2002年6月にロヤ=ジェルガが開催され、カルザイ(1955〜、任2002〜)暫定政権議長が大統領に選出された。カルザイ政権は多くの問題を抱えながら、世界各国から支援のもとで長年の紛争によって荒廃したアフガニスタンの復興に努めている。




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