チェコスロヴァキアでは、1968年の「プラハの春」が挫折した後に共産党第一書記(後に書記長と改称)となったフサーク(1913〜91、任1969〜87)が1975年には大統領を兼任した(任1975〜89)。
1977年1月、フサーク体制に批判的な知識人ら約240人が「人間の顔」をした社会主義を望むと訴え、民主化実現のために戦うとの「憲章77」に署名した。この運動は厳しい弾圧を受け、代表者の一人である劇作家のハヴェル(1936〜)は一時投獄された。
1987年12月、フサーク書記長が辞任し、ヤケシュ(1922〜、任1987〜89)が後任の書記長に就任した。ヤケシュは経済改革と一定の民主化政策に着手したが、その一方で反体制派に対する弾圧を継続した。
1989年10月末にプラハで1万人が参加する「プラハの春」以来最大の民主化を要求するデモが始まった。11月9日にベルリンの壁が崩壊すると、11月17日の学生デモ以後、数10万人が参加する民主化デモが続いた。11月24日にヤケシュ書記長ら幹部全員が辞任し、11月末には共産党の一党独裁を廃止する憲法改正案が採択された。
同年12月、ドプチェク元第一書記ら「プラハの春」で党を追放された党員の名誉回復が発表され、12月10日に非共産党員が多数を占める連立政権が成立した。そして同月末にはドプチェク(1921〜92)が連邦議会議長に選出され、翌29日にはハヴェル(1936〜、任1989〜92・チェコスロヴァキア連邦大統領、 任1993〜2003・チェコ共和国大統領)が新大統領に選出された。
その後、スロヴァキアにおけるナショナリズムの高揚を背景に、1993年1月にチェコスロヴァキアはチェコ共和国とスロヴァキア共和国に分離し、両共和国は同月国際連合に加盟した。
ブルガリアでも、東欧諸国で民主化が進む中で、1989年11月に入って民主化を要求するデモが始まった。
1989年11月、ジフコフ書記長(任1954〜89)兼国家評議会議長(元首)が辞任し、35年に及ぶ東欧では最長の政権が崩壊した。
その後、1990年1月に共産党一党独裁の放棄を定めた憲法修正案が可決され、4月には大統領制に移行した。そして6月には初の複数政党制による自由選挙が行われ、社会党(旧共産党)が過半数を獲得した。
1990年11月、国名をブルガリア共和国に変更し、翌1991年7月には東欧で初の民主的な新憲法を採択した。
ルーマニアでは、1965年以来チャウシェスク(国家評議会議長・任1967〜89、大統領・任1974〜89)の独裁体制が長期にわたって続いてきた。
1989年12月16日にティミショアラで数万人が参加する反政府デモが起こり、治安部隊の無差別攻撃によって多数の死傷者が出た。21日にはブカレストでも大規模なデモが始まり、治安部隊がデモ隊に発砲し多数の死傷者が出た。
翌22日、ルーマニア全土に非常事態宣言が出される中で、反政府デモに軍隊も合流し、大統領官邸などが占拠された。そしてチャウシェスク大統領夫妻は逃亡中に逮捕された。
12月25日にチャウシェスク夫妻は処刑され、翌26日には救国戦線評議会は自由選挙実施などの民主化を表明した。28日、国名がルーマニアに変更された。
翌1990年5月、初の自由選挙が行われ、救国戦線が圧勝した。そして大統領にはイリエスク(1930〜)救国戦線議長が選ばれた。その後、イリエスクは1992年10月に新憲法下での初の大統領に当選し、2000年12月の大統領選でも再選されて現在に至っている。
ユーゴスラヴィアでは、1980年5月に、独自の社会主義路線を進めてきたティトー(1892〜1980、1974年以後終身大統領)が死去した。
ユーゴスラヴィアは、一つの国家・二つの文字(キリル文字・ラテン文字)・三つの宗教(ギリシア正教・カトリック・イスラム教)・四つの言語(セルビア語・クロアティア語・スロヴェニア語・マケドニア語)・五つの民族(セルビア人・クロアティア人・スロヴェニア人・マケドニア人・モンテネグロ人)そして六つの共和国(スロヴェニア・クロアティア・セルビア・ボスニア=ヘルツェゴヴィナ・モンテネグロ・マケドニア共和国)といわれるように異なる民族・言語・宗教をかかえる連邦国家で、それまではティトーの強力な指導力のもとで一つにまとまってきたが、彼の死後は連邦を構成する各共和国・民族の利害の対立が表面化するようになってきた。
さらに1980年代以後、ユーゴスラヴィアでは国際収支の赤字・対外累積債務の増加そして急激なインフレなど深刻な経済危機が続いた。そのため対外債務の返済や南部の後進地域への援助のために、スロヴェニアやクロアティアなど先進地域への負担が増大し、以前から続いていたコソヴォ問題とスロヴェニア問題が深刻化した。
東欧革命の影響がユーゴスラヴィアにも波及する中で、1990年1月に開かれた共産主義者同盟大会では一党独裁体制の放棄と複数政党制への方針が打ち出されたが、以前から連邦離脱への動きを強めてセルビアと対立していたスロヴェニア共和国の代表団は共産主義者同盟の改組が受け入れないことを理由に大会から総退場した。
その後、スロヴェニア共和国議会は7月に「完全主権」宣言を採択し、12月に実施された連邦離脱の是非を問う国民投票では約89%が賛成した。またクロアチア共和国では連邦離脱権を明記した新共和国憲法が12月に可決された。
翌1991年6月、スロヴェニアとクロアティア両共和国がユーゴスラヴィア連邦からの独立を宣言すると、同月これを認めないセルビアを主力とする連邦軍がスロヴェニアに進攻し、武力衝突が始まった(ユーゴ内戦)。同年9月、セルビアを主力とする連邦軍はクロアティアにも進攻し、内戦に突入した(セルビア=クロアティア紛争、1991〜1992)。
1991年9月にマケドニアも独立を宣言し、翌1992年3月にはボスニア=ヘルツェゴヴィナも独立を宣言したので、セルビアとモンテネグロは同年4月に新ユーゴスラヴィア連邦を結成した。
ボスニア=ヘルツェゴヴィナでは4月に入るとセルビア人とイスラム教徒・クロアチア人との戦闘が激化し(ボスニア紛争、ボスニア内戦、1992〜95)、旧ユーゴスラヴィアは内戦の中で完全に解体してしまった。
この間、1991年6月にコメコン(COMECON、東欧経済相互援助会議)はブダペストで総会を開いて解散の議定書に調印して9月に解散した。そして同年7月、ワルシャワ条約機構(東欧8カ国友好相互援助条約)はプラハで開かれた同機構政治諮問委員会で解体の議定書に調印した。これによって冷戦の象徴の一つであったコメコンとワルシャワ条約機構が消滅した。
こうして東欧の社会主義圏は消滅し、第二次世界大戦以来のヨーロッパの構図は大きくかわった。
ソ連では、1990年3月に大統領制が導入され、ゴルバチョフが初代大統領に就任した。ゴルバチョフは4月にソ連最高指導者としては初めて来日し、日ソ首脳会談で北方領土問題などをめぐって会談を行い、共同宣言に調印した。また同年10月、ゴルバチョフはノーベル平和賞を受賞した。
しかしこの頃には、ゴルバチョフの改革や東欧革命の影響のもとでソ連邦を構成する諸民族共和国の分離・独立要求が強まり、1990年3月にはリトアニアとエストニアが独立を宣言し、5月にはラトヴィアも独立を宣言した。
こうした動きに対してソ連最高会議は4月に連邦離脱の手続きを明確にする連邦離脱法を採択し、共和国が連邦を離脱するためには住民の3分の2の賛成と連邦人民代議員大会の承認さらに5年の移行期間を必要とすることなどを定めた。
ゴルバチョフは3月末にリトアニアに対して独立宣言の撤回を要求し、独立宣言を撤回しなければ経済制裁を行なうと警告し、4月には経済制裁に踏みきった。
1990年5月末、ソ連ロシア共和国最高会議議長に急進改革派のリーダーであるエリツィンが当選した。そしてソ連ロシア共和国人民代議員大会は6月に共和国の主権は連邦の主権に優位するとの主権宣言(国家主権宣言)を採択し、連邦政府と対決姿勢を強めた。
ロシア共和国に続いて、ウズベク共和国・モルダヴィア共和国・ウクライナ共和国なども相次いで主権宣言を行った(1990.6〜7)。
こうした状況の中でゴルバチョフはソ連邦を構成する諸民族共和国に主権を与えて新しい連邦を構成する構想を提案し、11月には新国名を「主権ソビエト共和国連邦」とする・体制の選択は共和国の決定に委ねる・連邦会議を政策決定機関とするなどを内容とする「新連邦条約」の最終案をソ連最高会議に提出し、ソ連最高会議は12月に新連邦条約案を承認した。
しかし、バルト3国は12月に新連邦条約への不参加を表明した。これに対してソ連は翌1991年1月にソ連軍をリトアニアの首都に進攻させ、多数の戦車を動員して放送局などを攻撃・占拠し、銃撃によって多くの死傷者が出るという大惨事を引き起こした。
ゴルバチョフは1991年4月以後、ロシア共和国のエリツィンら共和国の代表と会談を行い、7月には9共和国指導者との会談で新連邦条約の締結で最終合意に達し、あとは正式調印を残すだけとなった。
1991年8月、ゴルバチョフの進める新連邦条約に反対し、従来の連邦体制の維持をねらうヤナーエフ副大統領ら保守派は、ゴルバチョフの改革の行き過ぎを阻止するために反ゴルバチョフ=クーデターを起こした。
1991年8月18日、クリミアの別荘で休養中のゴルバチョフ大統領のもとへ大統領府長官らが訪れ、ヤナーエフ副大統領への全権委譲を迫った。そしてゴルバチョフがこれを拒否すると彼を軟禁状態においた。
翌8月19日、ヤナーエフ副大統領が大統領代行に就任し、国家非常事態委員会が全権を掌握した。そしてモスクワ中心部には戦車が出動した。エリツィン・ロシア共和国大統領(1991.6就任)は戦車の上に上がり旗を振り、民衆に抗議のゼネストを呼掛けた。市民らはロシア共和国最高会議ビル周辺にバリケードを築いた。
8月21日、ソ連軍がロシア共和国最高会議ビルへ進撃し市民3人が死亡したが、軍はまもなく撤退し、国家非常事態委員会の主要メンバーはモスクワを脱出してクーデターは3日で失敗に終わった。そして翌22日、ゴルバチョフはモスクワに帰還し、復権した。
8月24日、ゴルバチョフは共産党書記長を辞任し、ソ連共産党の解散を宣言した。これによってソ連共産党は事実上解体した。
9月1日、10共和国(バルト3国、モルドバ共和国を除く)との間で「主権国家連邦」の創設に合意し、翌2日に開かれたソ連臨時人民大会は主権共和国による国家連合への移行を宣言し、これによりソ連の中央集権体制は崩壊した。そしてゴルバチョフと10共和国の代表からなる国家評議会に全権を委任した。
国家評議会は6日にエストニア共和国・ラトヴィア共和国・リトアニア共和国の独立を承認し、バルト3国はソ連による併合以来51年ぶりに独立を回復した。
1991年12月8日、ロシア・ウクライナ・ベラルーシのスラブ系3共和国は「独立国家共同体(CIS)」の創設を宣言し、同月21日に開かれたソ連の11共和国首脳会議はソ連の消滅と「独立国家共同体(CIS)」に他の8共和国も加わることで合意し、議定書に調印した。
12月25日、ゴルバチョフが大統領を辞任し、翌26日ソ連最高会議共和国会議はソ連邦の消滅を宣言した。これによって1922年に成立し、以後69年間続いてきたソヴィエト社会主義共和国連邦はついに消滅した。