3 社会主義圏の解体と地域の再編

2 ソ連の消滅と社会主義圏の崩壊(その1)

 ソ連では、1982年11月に18年間の長期にわたって政権を担当してきたブレジネフ(1906〜82、任1964〜82)が死去し、後任の書記長にアンドロポフ(1914〜84、任1982〜84)が就任した。しかし、アンドロポフは1984年2月に死去し、チェルネンコ(1911〜85、任1984〜85)が書記長・最高会議幹部会議長(元首)に就任したが、チェルネンコも在任わずか13ヶ月で病死し、1985年3月にゴルバチョフ(1931〜、任1985〜91)が書記長に就任した。

 ゴルバチョフは就任後、18年に及んだブレジネフ長期政権時代に陥ったソ連の政治・社会体制の停滞を打ち破るためにグラスノスチ(情報公開)による言論の自由を打ち出し、政治・経済改革を推し進める体制を固めた。

 そして、翌1986年2月に開かれた第27回党大会でペレストロイカ(改革)を掲げ、ソ連の政治・社会体制の根本的な見直し・改革を提唱した。

 1986年4月26日、チェルノブイリ原子力発電所事故が起こった。ウクライナ共和国のキエフ市北方のチェルノブイリ原子力発電所で原子炉が爆発し、大量の放射能(広島型原発300発分)が広範囲に飛散して放射能汚染は東欧・北欧にまで広がり、死者61名・被爆者57万人を出すという最悪の原発事故となった。

 ゴルバチョフ政権は事故の翌月の5月にはチェルノブイリ原子力発電所事故の状況や原因が人為的なミスであったことを発表した。この事故によって管理体制や事故対策の致命的な欠陥が明らかになり、従来の共産党の秘密主義・言論統制を排除してグラスノスチ(情報公開)やペレストロイカ(改革)を一層進める必要性が広く認められることとなった。

 また1987年2月には、経済統制を大幅に緩和し、企業の自主運営と競争原理を導入した新国家企業(合同企業)法案を公表した。新国家企業法は6月に採択され、1988年1月に施行された。

 ゴルバチョフは外交面でも、従来の外交政策から相互依存と協調を重視する外交政策への転換をはかり、いわゆる「新思考外交」を展開した。

 1987年12月にはアメリカを訪問してレーガンと米ソ首脳会談を行い、INF全廃条約に調印した。
 また1988年3月にユーゴスラヴィアを訪問したゴルバチョフは「新ベオグラード宣言」を発表した。「新ベオグラード宣言」は、従来の「ブレジネフ・ドクトリン」(社会主義国の主権は絶対的なものでなく、社会主義圏全体の利益が優先され、内政干渉もやむを得ないという理論)を放棄し、各国それぞれの社会主義への道を認めて社会主義諸国に対するソ連の指導性を否定したので、翌1989年の東欧革命への道を開くこととなった。

 さらに1988年5月にはアフガニスタンからの撤退を開始し(翌1989年2月に撤退を完了)、1989年5月には中国を訪問して30年ぶりに中ソ首脳会談を行って中ソ関係の正常化を果たした。

 1988年10月に最高会議幹部会議長(元首)を兼任したゴルバチョフは、11月に国権の最高機関としての連邦人民代議員大会と強力な権限をもつ連邦最高会議議長の創設・常設の立法機関としての新しい連邦最高会議を作ることなどを盛り込んだ憲法改正案と新選挙法案を提出し、憲法改正案と新選挙法案は12月に採択された。

 1989年3月、初の複数候補者制選挙による連邦人民代議員大会代議員選挙が行われ、5月に新しい最高議決機関である連邦人民代議員大会第1回大会が開催された。そして新設の連邦最高会議議長(元首)にゴルバチョフが選出された。

 東欧革命が進展してベルリンの壁が崩壊した1989年の12月2日、ゴルバチョフはブッシュ米大統領と地中海のマルタ島で会談を行い(マルタ会談)、冷戦の終結を宣言した。

 翌1990年3月、人民代議員大会が開かれ、大統領制の導入・共産党独裁の放棄と複数政党制の導入・私的所有の大幅拡大を定めた憲法改正案が採択された。

 1990年3月、初代大統領に就任したゴルバチョフは従来の計画経済から市場経済への移行に踏みきり、ペレストロイカ(改革)を一層推進したが、ゴルバチョフの改革はソ連邦を構成する諸民族共和国の分離・独立要求を一挙に噴出させ、同年3〜5月にはバルト3国が相次いで独立を宣言した。

 ソ連の大改革は東ヨーロッパの社会主義諸国に波及し、1989年には東欧革命が起こり、民主化が進む中で東欧の社会主義圏は消滅した。

 ハンガリーでは、1985年に政治改革が始まり、同年6月には複数候補制による最初の総選挙が行われ、これを機に改革派の動きが活発となった。

 こうした政治状況の中で、1988年5月に開かれた社会主義労働者党の全国集会で、1956年のハンガリー反ソ暴動以来権力の座にあったカダル(1912〜89、任1956〜88)書記長が解任された。そして後任にはグロース(1930〜)が選出されたが、グロースは改革に消極的であったためにまもなく失脚した(1989.6、事実上失脚)。

 この間、1989年1月には社会主義圏で初の政党設立の自由を認める結社法案が可決され、同年6月には1956年のハンガリー反ソ暴動で処刑されたナジ=イムレの名誉回復が行われた。

 1989年10月、社会主義労働者党は党名を社会党と改称した。また国会は国名をハンガリー人民共和国からハンガリー共和国に変更し、大統領制への移行・党の指導性の削除などを定めた憲法改正案を可決した。
 そして1990年3月に、45年ぶりに自由選挙が実施され、「民主フォーラム」(1987年結成)が第1党となった。

 これより前、1989年夏になるとハンガリーでは西ドイツへの亡命を希望する東ドイツ市民の数が急増した。
 ハンガリーとオーストリアとの国境の鉄条網の一部が撤去された(1989.6)、ハンガリー政府は西側への出国を容認しているとの情報を得た東ドイツ市民がハンガリーに押しかけた。彼らはブダペストの西ドイツ大使館へ逃げ込み、一部の者は国境を越えて西側へ出国した。

 その後も増え続ける東ドイツ市民の対応に苦慮したハンガリー政府は、1989年9月11日に西部国境の検問所を開いて東ドイツ市民が西側へ自由に出国することを認め、ハンガリーに待機していた2万人以上の東ドイツ市民が西ドイツに向かって出国した。

 このためベルリンの壁の存在が無意味となり、2ヶ月後の1989年11月9日、ついにベルリンの壁が崩壊した。

 ポーランドでは、1989年1月に、1982年の労働組合法によって非合法化されていた「連帯」が条件付きで合法化され、「連帯」は円卓会議への参加を決定した。

 1989年2〜4月に開催された円卓会議では政治改革・経済改革が討議され、大統領制の導入・自由選挙の実施で合意が成立した。

 1989年6月、東欧で初めての自由選挙が実施され、上院・下院の選挙で「連帯」が圧勝した。そして7月に「連帯」の支持を得たヤルゼルスキ(1923〜、首相・任1981〜85、大統領・任1989〜90)が大統領に選出された。

 ヤルゼルスキは新首相に「連帯」のマゾヴィエツキ(任1989〜1990)を指名し、9月にはマゾヴィエツキを首相とする非共産勢力主導の連立内閣が成立した。

 同年12月には国会で憲法改正案が可決され、国名はポーランド共和国に変更され、憲法から統一労働者党の指導的役割が削除された。

 そして翌1990年12月に行われた大統領選挙では「連帯」のワレサ議長(任1990〜95)が勝利し、大統領に就任した。

 東ドイツでは、1971年5月にウルブリヒト(1893〜1973、任1960〜71)の後任にホネカー(ホーネッカー、1912〜94、任1971〜89)が選出され、社会主義統一党の書記長に就任した。ホネカーは1987年9月には東ドイツの元首として初めて西ドイツを訪問した。

 ソ連のペレストロイカ・東欧諸国で民主化が進展する中で、東ドイツ市民の間では政治体制や西側との経済格差に対する不満が高まり、西ドイツへの亡命を求める市民の数が急増した。

 1989年8月、在ベルリン西ドイツ代表部に西ドイツへの亡命を求める希望者が殺到して西ドイツ代表部が閉鎖されると、西ドイツへの亡命を求める東ドイツ市民はハンガリーへ殺到し、そこから西側へ出国した。特にハンガリー政府が西側へ自由に出国することを認めた9月以後は、数千人規模の出国が続いた。

 東ドイツ国内では、10月にはいるとライプチヒで大規模な民主化を要求するデモが起こり、10月18日にホネカーが退陣し、18年間に及んだ独裁が終わった。ホネカー退陣後も民主化要求デモは激化し、10月23日にはライプチヒで30万人のデモが、11月4日にはベルリンで100万人のデモが起こった。

 11月8日、社会主義統一党政治局員全員が辞職した後、クレンツ書記長(ホネカーの後任)を再選した。クレンツは自由選挙の実施と市場経済の導入を表明したが時すでに遅く、翌11月9日に東ドイツ政府はついにベルリンの壁を開放し、東西ドイツ間の自由な通行を認めた。ベルリンの壁崩壊の翌日には15万人の東ドイツ市民が西ベルリン・西ドイツへ出国した。

 ベルリンの壁崩壊後、東ドイツでドイツ統一の要求が急速に高まる中で、西ドイツのコール首相は11月末にドイツ再統一10カ条案を提案した。

 1990年2月、社会主義統一党は党名を民主社会党に改称し、3月に行われた自由選挙では早期統一を主張するドイツ連合(コール首相の指導のもとでキリスト教民主同盟など保守3党が結成)が圧勝した。その後、コールは米英仏ソとの話し合いを進め、ドイツ統一についての承認を取り付けた。

 1990年10月3日、西ドイツが東ドイツを吸収するという形でドイツの統一が実現し、コールが統一ドイツ(ドイツ連邦共和国)の初代首相(任1990〜98)となった。




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