中国では、1978年以後、ケ小平の指導のもとで改革開放政策が進められた。1979年には広東・福建両省に経済特区を設置することが決められ、1980年には深せん(土へんに川)・珠海・汕頭・厦門に経済特区が設置された。さらに1984年には大連・天津・青島・上海・広州など14の沿海都市が対外経済開放都市に指定され、対外開放政策が積極的に進められた。
この間、1980年9月に華国鋒は経済政策・中越戦争(1979)の失政などを批判されて首相を辞任し、趙紫陽(1919〜、首相・任1980〜87、総書記・任1987〜89)が首相に就任した。
さらに1981年6月、華国鋒は文化大革命や毛沢東との関係を批判されて党主席も辞任し、胡耀邦(1913〜89、党主席・任1981〜82、総書記・任1982〜87)が党主席に就任した。またケ小平は党中央軍事委員会主席に就任して事実上の最高実力者となった。
1982年9月には党規約改正によって党主席が廃止されて総書記制が導入され、胡耀邦が総書記に就任し、改革開放路線と自由化路線を推進した。
同年12月、新憲法が採択されて国家主席制が復活し、国家中央軍事委員会が新設された。そして翌1983年6月に李先念(1908〜92、任1983〜88)が国家主席に就任し、国家中央軍事委員会主席にはケ小平が就任した。
1984年12月、趙紫陽とサッチャーが香港返還に関する合意文書に調印し、イギリスは香港を1997年に中国に返還すること・返還後も香港は50年間現体制を維持し、中国は一国家二体制をとることが約された。またポルトガルとの間でもマカオ返還について交渉が続けられ、1987年3月に、マカオを1999年12月20日に返還することで合意した。
中国では1982年以来人民公社の解体が進められ、1985年6月には人民公社の解体が完了した。
改革開放が進む中で、1986年12月にはより一層の民主化を求める学生の抗議デモが各地で行われた。ケ小平はこの民主化要求のデモを行き過ぎと非難し、1987年1月に胡耀邦総書記は民主化要求デモの広がりの責任を問われて解任された。
1987年11月には胡耀邦の後任として趙紫陽が総書記に選出され、1988年4月には李先念が国家主席から退き、国家主席には楊尚昆が、首相には李鵬(1928〜、任1988〜98)が就任した。
総書記に就任した趙紫陽はさらに改革開放を加速させたが、国内では沿海部と内陸部との格差の増大・拝金主義・汚職や賄賂など経済不正の増加・物価の急上昇など多くの問題が生じてきた。こうした状況の中でさらに民主化を要求する声も高まった。
1989年4月15日に胡耀邦前総書記が死亡すると追悼と民主化を叫ぶ学生デモが激化し、特に「五・四運動」の70周年記念日にあたる5月4日には北京の学生・市民10万人がデモ・集会を行い、趙紫陽総書記は学生運動を容認する発言を行った。
1989年5月15〜18日、ソ連のゴルバチョフ書記長がソ連首脳としては30年ぶりに中国を公式訪問し、ケ小平らと会談を行い中ソ関係の正常化を確認した。
ゴルバチョフ訪中期間中の5月17日、天安門広場は100万人を越える学生・市民で埋め尽くされ、民主化要求運動は文化大革命以来最大の政治運動に発展した。
5月19日、ケ小平ら強硬派と李鵬ら保守派は民主化要求デモを動乱とみなして人民解放軍の投入を決定し、翌5月20日には北京に新中国成立以来初めての戒厳令を布告した。趙紫陽総書記は事実上失脚し、李鵬首相が権力を掌握した。
6月1日、人民解放軍戒厳軍部隊は北京市内で示威行動を行い、6月3日深夜から4日にかけて天安門広場に突入した。6月4日、戒厳軍部隊は戦車・装甲車で学生・市民に発砲し、多数の死傷者(死者200〜1000人以上、負傷者3000〜9000人と言われている)が出る大惨事となった(天安門事件、第2次天安門事件)。
この民主化要求運動を武力制圧した天安門事件は世界中に衝撃を与えた。中国は国際的な非難をあび、東欧革命が進展し・ベルリンの壁が崩壊する中で国際的に孤立化し、改革開放政策は大幅に遅れることとなった。
6月23日、趙紫陽総書記は解任され、後任には上海市長であった江沢民(1926〜、総書記・任1989〜2002、国家主席・任1993〜)が選出された。江沢民はケ小平の路線の継承・改革開放路線の堅持を表明した。
1990年3月、ケ小平は国家中央軍事委員会主席を辞任し、後任に江沢民総書記が選出されたが、ケ小平は引退後も中国の最高実力者として留まった。
その後、中国は1990年8月にインドネシアと23年ぶりに国交を回復し、1991年11月にはヴェトナムとの関係正常化を果たした。さらに1992年8月には韓国とも国交を樹立した。
ケ小平は、1992年1〜2月に深せん・上海など南方の開放都市を訪問し、いわゆる「南巡講話」によって改革開放政策の加速化を強調した。
1992年10月に開かれた中国共産党第14回大会で、江沢民総書記は資本主義的手法を取り入れた「社会主義市場経済」による経済発展を目ざす活動報告を行い、改革開放政策を促進するために改革派の朱鎔基(1928〜、首相・任1998〜)らを政治局常務委員に選出して改革派優位の集団指導体制をスタートさせた。
同月、天皇・皇后が中国を初めて訪問され、日中戦争にも触れられて「多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります」と述べられた。
翌1993年3月、全国人民代表大会で江沢民が国家主席(任1993〜)に選出され、江沢民体制のもとで中国経済は急速に発展していく。
東欧のポーランドでは、1980年7月に食肉が40〜60%値上がりしたことがきっかけとなり、ワルシャワで労働者の賃上げストが起こり、全国に広まった。
8月14日にはグダニスクの造船所で1万6000人の労働者が賃上げ・労働組合運動の自由化などを要求してストに突入し、ストはバルト海沿岸一帯に拡大した。
ギエレク(1913〜)ポーランド統一労働者党第一書記は経済政策の修正を約束してスト中止を呼びかけた。その後ヤギエルスキ副首相とワレサ統一スト委員長との間で交渉が行われ、8月末に政府は自主管理労組(新しい自由な労働組合)の設立とスト権を認め、ワレサはスト終結を宣言した。
9月に入ると、グダニスクで自主管理労組の結成大会が開かれ、その動きは以後全国に広まった。そして9月22日にポーランド自主管理労組「連帯」(自主管理労組の全国連合組織)が結成され、委員長にワレサ(1943〜)が就任した。
こうしてポーランドの労働者は自主管理労組「連帯」の結成とスト権獲得という社会主義国では前例のない権利を獲得し、自主管理労組「連帯」は以後ポーランド・東欧の自由化の象徴となった。
この間、ギエレクは解任され、後任の統一労働者党第一書記に就任したカニアは自主管理労組「連帯」には反社会主義勢力が存在すると非難した。
1981年1月、自主労組「連帯」は週休2日制の実施を要求して全土でストに突入した。
2月、ピンコフスキー首相が解任され、ヤルゼルスキ(1923〜、任1981〜85)国防相が後任首相に就任し、「連帯」との対話を約束した。しかし、交渉はまとまらず、「連帯」は3月末に社会主義政権樹立以来初の全国的なストに突入し、1000万人が参加した。
7月以後、食料品不足と食料品の値上がりが続き、抗議デモが続く中で9月には「連帯」の第1回全国大会が開催され、10月にワレサが議長に選出された。
この間、ソ連は3月のソ連・ポーランド首脳会談以来、「連帯」は社会主義共同体の破壊を目指すものであると非難し、「ブレジネフ・ドクトリン」(社会主義国の主権は絶対的なものでなく、社会主義圏全体の利益が優先され、内政干渉もやむを得ないという理論)を強調した。そのためアメリカはソ連のポーランドへの介入を警戒し、警告を発していた。
10月、カニア統一労働者党第一書記が辞任し、後任にヤルゼルスキが就任し、首相・国防相を兼任した。
12月、3ヵ月のスト禁止の立法化が進むと、「連帯」は全国委員会・全国抗議集会を開き、国会がスト禁止法を可決すればゼネストを行うことを決定した。
これに対して政府は、ソ連の介入を恐れて12月13日に非常事態を宣言して戒厳令を布告した。救国軍事評議会が設置され、評議会議長にはヤルゼルスキ首相兼国防相が就任し、社会主義史上初の軍政に移行した。
ヤルゼルスキ首相は戒厳令によって労働組合活動を禁止して「連帯」を非合法とし、ワレサら「連帯」幹部・反体制分子多数を軟禁ないし逮捕した。
ポーランド政府による戒厳令の発動と軍政移管に対しては各国から激しい批判・非難が起こり、アメリカはポーランドに対する経済制裁を決定した。国内でも軍政に反対し、「連帯」を支援するストやデモが続いた。
1982年11月、1981年12月以来身柄を拘束されていた「連帯」のワレサ委員長が釈放された。その後、ワレサは1983年にノーベル平和賞を受賞した。
そして1982年12月に戒厳令で拘禁されていた政治犯のほぼ全員が釈放され、戒厳令は31日に解除された。