3 社会主義圏の解体と地域の再編

1 社会主義諸国の混迷(その1)

 カンボジアでは、1976年1月に民主カンプチアが成立したが、同年4月にシハヌークが元首を辞任し、以後ポル=ポト(1925〜98、任1976〜79)が首相となり、ポル=ポト政権(1976〜79)が成立した。

 ポル=ポト政権は、農村に基礎をおく共産主義の実現を目ざし、市場・貨幣・学校・病院などを廃止し、首都プノンペンの住民を農村へ追放するなど住民の大量強制移住を強行した。また知識人や専門家を弾圧し、シハヌークやロン=ノル時代の旧体制の者やポル=ポトの政策に不満を持つ者・批判する者を大量に虐殺した。さらに苛酷な農作業や堤防・灌漑施設・ダム建設の工事などでの強制労働、そして飢餓などによってポル=ポト政権時代に100〜300万人の犠牲者が出たと言われ、カンボジア全土が荒廃した。

 ポル=ポト時代の後期に粛清を逃れたヘン=サムリン(クメール=ルージュの幹部、東部軍管区第4師団長)・フン=セン(1951〜、1977年にポル=ポト派から離脱)らはヴェトナムに亡命し、ヴェトナムの援助のもとで、1978年12月にカンプチア救国民族統一戦線を結成した。

 1978年に入るとカンボジアとヴェトナム国境で紛争が続いたが、1978年12月、ヴェトナムは本格的にカンボジア侵攻を開始した。翌1979年1月にはカンプチア救国民族統一戦線がヴェトナムの支援を受けてプノンペンを占領し、ポル=ポト政権は崩壊し、カンプチア(カンボジア)人民共和国(ヘン=サムリン政権)が成立した。

 ポル=ポト派はカンボジアの北西部・タイ国境へ逃げ込み、以後ヘン=サムリン軍とヴェトナム軍に対するゲリラ戦を展開したのでカンボジア全土で内戦が激化した。

 カンボジア内戦は、1979〜82年までは、ソ連が支援するヘン=サムリン軍・ヴェトナム軍と中国が支援するポル=ポト派の対立という構図で続いた。そのため、ヴェトナムと中国の関係が悪化し、1979年2月には中国が北ヴェトナムに侵入して中越戦争(中国=ヴェトナム戦争)が起こったが、中国軍は1ヶ月後には撤退した。

 1982年7月、ヴェトナムの支援を受けるヘン=サムリン政権に対して、ポル=ポト派・シハヌーク派・ソン=サン派(ロン=ノル政権の流れを受け継ぐ)が民主カンプチア(カンボジア)三派連合政府を結成した。

 そのため、以後1982〜91年の間は、ソ連・東欧諸国が支援するヘン=サムリン軍・ヴェトナム軍と中国・ASEAN・アメリカなど西側諸国が支援する民主カンプチア三派連合政府軍との内戦が続いた。

 この間、国連の議席は1979〜82年まではポル=ポト派の民主カンプチアに、1982〜91年までは民主カンプチア三派連合政府に認められ、ヘン=サムリン政権は国際的には承認されなかった。

 1987年12月、シハヌーク三派連合政府大統領とフン=セン・カンプチア人民共和国首相(任1985〜)との間で初の和平会談がパリで行われた。その後も和平会談が続けられる中で、1988年6月以後ヴェトナム軍はカンボジアからの撤退を開始し、1989年9月までに撤退を完了した。

 1991年10月、カンボジア4派と18カ国がパリでカンボジア和平協定に調印し、国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)の設置などが約された。

 1993年5月23日、国連の監視下で総選挙が実施され、ラナリット派が勝利し、6月にラナリット(1944〜、シハヌークの息子)を第1首相とし、人民党(ヘン=サムリン政権下の政党)のフン=セン(1951〜)を第2首相とするカンボジア暫定国民政府が発足した。

 なお、この総選挙前の5月4日、UNTACの文民警察官として派遣されてPKO活動を行っていた岡山県警の高田晴行警視(当時33歳)がポル=ポト派とみられる武装ゲリラ集団に襲撃されて死亡した。高田警視は、私が勤務していた倉敷南高校の卒業生であり、私の世界史の授業を受けてくれた一人である。ご冥福をお祈りします。

 1993年9月、立憲君主制と複数政党制を謳う新憲法が発布され、シハヌークが国王に即位して23年ぶりに君主制が復活し、カンボジア王国が発足した。

 1994年7月にはクメール=ルージュ(ポル=ポト派)が非合法とされてポル=ポト派の投降者が続出する中で、1997年6月にはポル=ポトが逮捕され、ポル=ポトは1998年4月に死亡した。その後ポル=ポト派の掃討が行われ、1999年3月にポル=ポト派は完全に消滅した。

 この間、1997年7月にはフン=センによるクーデターが起こり、フン=セン派がラナリット派を攻撃し、フン=セン派が首都全域を抑えた。同年12月、カンボジア議会は選挙法を制定し、総選挙を1998年7月に実施することを決定した。

 1998年7月に総選挙が実施されて人民党が勝利をおさめ、同年11月にフン=センが首相に就任し(任1998〜)、フン=セン新政権が発足した。

 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では、朝鮮戦争(1950〜53)後も、金日成(キムイルソン、1912〜94、首相・任1948〜72、国家主席・任1972〜94)のもとで独自の社会主義建設が進められた。

 1957年からは第1次五カ年計画(1957〜61)が始まり、千里馬(チョンリマ)運動(自力更生による増産運動)による社会主義建設が進められ、1961年からは7カ年経済計画が進められた。この間、金日成の独裁的指導体制が確立し、金日成の個人崇拝が強められた。

 北朝鮮は、1961年7月にソ連および中国と友好協力相互援助条約を結び、1967年8月にはヴェトナムと軍事経済援助協定を結んで社会主義諸国との関係を強化する一方で、1966年8月には自主独立路線の推進を宣言した。

 1970年代からは主体(チュチェ)思想が唱えられた。主体思想は政治における自主・経済における自立・国防における自衛の3つを中心とする自主独立路線推進のスローガンで朝鮮労働党の指導思想となった。

 1972年12月には朝鮮民主主義人民共和国新憲法が制定され、金日成は国家主席に就任して独裁的地位を固めた。

 1972年7月に南北朝鮮両政府は統一に関する共同声明を同時に発表し、自主的統一・平和的統一・民族大団結による統一を統一の原則とすることとした。その後1980年10月に開かれた朝鮮労働党大会で、金日成は「高麗民主連邦共和国」の創設を提案し、自主的統一・平和的統一・民族大団結による統一を主張したが、韓国側は「高麗民主連邦共和国」案を宣伝目的の虚構として退けた。同大会では金正日(1942〜)が政治局常務委員に選出され、金日成の事実上の後継者となった。

 1983年10月にラングーン爆弾テロ事件が起こり、さらに1987年11月には大韓航空機がビルマ上空で行方不明となる事件が起き、韓国と北朝鮮との対立・緊張が高まった。そのため北朝鮮は翌1988年のソウル=オリンピックには参加しなかった。

 1990年9月に韓国がソ連と国交を樹立し、韓国の単独での国連加盟が問題となると、北朝鮮も同時加盟を申請し、1991年9月に韓国と北朝鮮は国連へ同時に加盟した。

 その一方で1993年には北朝鮮の核疑惑に対する国際原子力機関の査察受け入れを拒否し、1993年3月に核拡散防止条約からの脱退を通告した。そして翌1994年6月には国際原子力機関からも脱退した。その後、北朝鮮は1994年10月に核開発凍結などを定めた米朝「枠組み合意」に調印した。

 1994年6月にはカーターの仲介で南北首脳が南北首脳会談に合意したが、1994年7月に金日成が死去し、南北首脳会談は実現しなかった。

 北朝鮮は、1995年7〜8月の大水害、そして1998年の自然災害に見舞われて深刻な食糧危機に陥って多くの餓死者を出し、また資本不足や技術の遅れなどによって経済は停滞して深刻な経済危機に陥っている。

 1997年10月、金正日(キムジョンイル、1942〜、金日成の息子)が朝鮮労働党総書記に就任した。そして1998年9月には国防委員会委員長(憲法の改正によって国家主席が廃止され、実質上の国家最高ポストとなる)に再任された。

 2000年6月、ついに南北首脳会談が実現した。太陽政策を打ち出した韓国の大統領・金大中(キムデジュン、任1998〜)は北朝鮮を訪問し、金正日総書記と会談し、南北共同宣言に署名した。

 そして2002年9月には小泉首相が日本の首相としては初めて訪朝し、金正日と日朝首脳会談を行い、日朝平壌宣言に署名した。これによって10月末から日朝国交正常化交渉が再開されることとなったが、拉致問題や北朝鮮の核開発の問題で難航している。




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