2 世界経済の変容と南北問題

3 発展途上地域の改革と苦悩(その3)

 アフガニスタンでは、1973年7月に、国王の従兄弟で元首相のダウドがクーデターを起こし、王政の廃止と共和政の樹立を宣言し、アフガニスタン共和国が成立した。

 当時病気療養のためにイタリアに滞在していた国王ザーヒル=シャー(位1933〜73)は退位し、パーラクザイ朝(1826〜1973)は9代で終わりを告げた。なお、ザーヒル=シャーは以後29年間ローマで亡命生活を送り、2002年4月に帰国した。

 1978年4月、左翼軍事クーデターが起こり、ダウド大統領は殺害され、左翼政権が成立した(アフガニスタン民主共和国の成立)。

 その後、左翼政権の内部抗争によって、1979年9月にはアミン急進左翼政権が成立したが、アミン政権の急進的な政策に反対するイスラム勢力や少数民族の反乱が続出した。

 1979年12月27日、ソ連軍がアフガニスタンに大規模な侵攻を開始した。

 同日、ソ連軍の介入のもとでクーデターが起こり、アミン革命評議会議長が処刑され、カルマル(1929〜1996)副議長が革命評議会議長(任1979〜86)に就任し、全権を掌握した。

 ソ連のアフガニスタン軍事介入は国際的な非難をあび、以後アフガニスタン国内ではパキスタン・アメリカ・イランの支援を受けた反政府武装ゲリラが激化した。ソ連軍の軍事的支援にもかかわらず政府軍は苦戦を続け、内戦は長期化・泥沼化した。ソ連軍も山岳地帯での困難な闘いを強いられて多くの死傷者を出した。またこの内戦で数百万人の難民が生まれ、パキスタンやイランへ流出した。

 1988年4月、ジュネーヴでアフガニスタン和平協定が調印された。ゴルバチョフ政権はジュネーヴ合意に基づき、1988年5月15日からソ連軍の撤退を開始した。ソ連軍は約13000人の死者を出して1989年2月までに撤退を完了した。

 1992年4月、反政府ゲリラが大攻勢をかけ、反政府ゲリラが全権を掌握し、14年に及んだ社会主義政権が崩壊した。そして同年5月には暫定政権が発足したが、強硬派のヘクマチアル派との戦闘が激化し、アフガニスタンは再び内戦状態に陥った。

 パキスタンは、独立後、カシミール問題(ヒンドゥー教徒の藩王はインドへの帰属を表明したが、イスラム教徒が大半を占める住民はパキスタンへの帰属を要求した)をめぐって起こった3回にわたるインド=パキスタン戦争(印パ戦争、第1次・1947〜49、第2次・1965、第3次・1971)でインドと戦った。

 第3次インド=パキスタン戦争(1971)は、東パキスタンからの多くの難民がインドへ流入したこと、西パキスタンによる支配と差別政策に不満を持つ東パキスタンがインドに接近したこと、そしてカシミール問題がからんで起こったが、12月の全面戦争でインドが大勝し、バングラデシュ(東パキスタン)の独立が事実上決まった。

 1971年3月、東パキスタンのアワミ連盟総裁ラーマンがバングラデシュ共和国の独立を宣言し、インドはこれを支持した。このためインドとパキスタンの関係が悪化し、11月にはインドが東パキスタンに侵攻して第3次インド=パキスタン戦争が始まった。12月には全面戦争に突入し、インドが圧勝したのでバングラデシュ共和国の独立が事実上決まった。

 バングラデシュでは、1972年1月にラーマンが首相に就任し、以後各国から承認され、1974年には国際連合に加盟した。ラーマンは1975年には憲法を改正し、大統領に就任して全権を握ったが、1975年8月にクーデターが起こり、ラーマン大統領は暗殺された。

 パキスタンでは、第3次インド=パキスタン戦争に敗れた直後に、パキスタン人民党党首のブット(1927〜79、任1971〜77)が大統領に就任した。ブットは産業の国有化や土地改革などの社会主義化を進めたが、1977年3月の総選挙後、野党はブット政権の選挙での不正を主張し、ブットの退陣を要求するデモが激化した。

 1977年7月、ハク陸軍参謀長によるクーデターが起こり、ブット首相らは逮捕・軟禁され、軍事評議会が設置されてハク軍事政権が成立した。ブット元首相は後に死刑判決を受け、1979年に処刑された。

 ハク軍事政権は、社会経済のイスラム化政策を進め、経済発展に努めた。またアフガニスタンで左翼政権が成立すると300万人以上のアフガニスタン難民が流入したので両国の関係が悪化し、パキスタンはアフガニスタンの反政府ゲリラを支援した。

 1988年8月、ハク大統領が搭乗する空軍機がパンジャーブ州上空で爆発・墜落し、大統領と駐パキスタン米大使ら全員が死亡した。

 1988年11月に行われた総選挙では、ブット女史(1953〜、任1988〜90、93〜96、元首相ブットの娘)の率いるパキスタン人民党が勝利し、11年半ぶりに文民政権が復活した。そして同年12月にブット女史がイスラム世界では初の女性首相となった。

 ブットは、1990年8月には権力の乱用や汚職を理由に解任されたが、1993年10月の総選挙で首相に復帰した。しかし、1996年11月には再び汚職などの理由で解任された。

 インドでは、インディラ=ガンディー(1917〜84、任1966〜77、80〜84)が国民会議派左派を率いて親ソ政策をとり、1971年8月にはソ連と平和友好協力条約を結んだ。また1971年3月に東パキスタン(バングラデシュ)が独立を宣言するとこれを支持し、第3次インド=パキスタン戦争でパキスタンを破り、バングラデシュとして独立させた。

 ガンディーは、1971年3月の総選挙では圧勝したが、1974年11月にはガンディーの親族重用や強権政治を批判する反政府デモが起こり、1万人以上が逮捕された。その後反政府運動がますます強まると、ガンディーは1975年5月に非常事態宣言(1975〜77)を発し、野党指導者600人近くを逮捕し、反政府運動を弾圧した。

 1977年3月の総選挙では国民会議派は惨敗し、当時汚職の疑いをかけられていたガンディーも落選して辞任した。そして総選挙で勝利した人民党のデサイ内閣(1977〜80)が成立した。しかし、1980年1月の総選挙では国民会議派が大勝利し、インディラ=ガンディーは再び首相に返り咲いた(任1980〜84)。

 ガンディーは、1984年6月、自治権拡大を求めるシク教徒の総本山ゴールデン=テンプルを武力弾圧し、500人以上の死傷者を出した。そのため、シク教徒過激派の報復を受け、1984年10月に首相官邸でシク教徒の警備兵2名によって暗殺された。

 インディラ=ガンディーの暗殺後、長男のラジブ=ガンディー(1944〜91、任1984〜89)が首相に就任し、国民会議派政権を受け継いだ。

 ラジブ=ガンディーは平和外交を推進し、ソ連・アメリカ・イギリス・フランス・日本をはじめ多くの国々を訪問した。特に1988年12月にはインドの首相としては34年ぶりに中国を訪問し、1989年7月にはパキスタンのブット首相と関係正常化のための話し合いを強化することで合意した。また前年の1987年7月にはスリランカのタミル人の分離独立問題の平和的解決を目ざす和平協定に調印した。

 しかし、1989年11月の総選挙では、武器輸入にからむ汚職事件で国民会議派は大敗し、ラジブ=ガンディーは辞任した。その後、ラジブ=ガンディーは再選をはたすために選挙運動を開始し、1991年5月に遊説先でタミル人の爆弾テロによって暗殺された。

 スリランカでは、1960年7月にバンダラナイケ(任1960〜65、70〜77)が、暗殺された夫(初代首相、1959年に暗殺された)の後を継いで首相に就任し、世界で最初の女性首相となった。

 1972年5月、セイロンはイギリスの自治領から完全独立の共和国となり、国名をセイロンからスリランカ(光り輝く島の意味)共和国と改めた。さらに1978年には大統領制を採用し、国名をスリランカ民主社会主義共和国に改称し、イギリス連邦から離脱した。

 スリランカ国内には、少数派(約17%)のインド系でヒンドゥー教徒のタミル人と多数派(70%以上)の先住民で仏教徒のシンハラ人との対立問題が存在していた。

 1976年5月、スリランカ北・東部に居住する少数派のタミル人が、シンハラ人を優先する政策に反発し、タミル人国家「タミル=イーラム」の樹立を宣言し、スリランカからの分離独立を要求して大規模な暴動を起こした。タミル人の分離独立運動は1980年代に入ると、過激派「タミル=イーラム解放の虎(LTTE)」による武装闘争に発展し、テロが頻発した。

 1987年7月にタミル人の自治拡大を認める和平協定が成立し、インドの平和維持軍が派遣されたが、同年10月には再びタミル=イーラム解放の虎(LTTE)によるテロが激化した。その後、1989年にも停戦協定が成立し、インドの平和維持軍が撤退したが(1989.7〜90.3)、1990年6月に和平交渉が決裂し、スリランカは再び内戦状態に逆戻りした。

 ミャンマーでは、1962年3月にネ=ウィン将軍(1911〜)がクーデターによって革命評議会議長(任1962〜74)に就任し、元首と首相を兼任して軍部独裁政権を樹立した。

 ネ=ウィン軍事政権は、社会主義化を宣言して国有化政策・土地改革を進め、外交面では厳正中立を掲げた。しかし、急激な国有化・国営企業の不振・外貨不足などによって経済が行きづまり、経済状態が悪化した。

 こうした状況の中でネ=ウィンは、1974年3月には大統領に就任して(任1974〜81)民政に移管し、ビルマ連邦社会主義共和国が発足した。しかし、民政移管後も実質的には軍政が続いた。ネ=ウィンは1981年11月に大統領を辞任したが、その後も1988年まではビルマ社会主義計画党書記長として指導力を維持した。

 1988年3月、ラングーンで学生らによる反政府デモ・暴動が起こったが鎮圧された。同年7月には再び学生・市民による民主化を要求するデモ・暴動が発生した。8月に入ると民主化要求運動はますます激化し、政府軍が市民に無差別に発砲して約1100人の死傷者が出るという出来事も起こった。同月、ラングーンで100万人の集会が開かれ、スー=チーは民主政府の樹立を呼びかけた。

 1988年9月、軍部のクーデターが起こり、ソウ=マウン(1928〜97)が国家法秩序回復評議会議長に就任して(任1988〜92)実権を掌握し、軍事政権を樹立した。そして同月、国名をビルマ連邦に改称した。

 ソウ=マウン軍事政権は、1989年3月に社会主義経済体制廃止を発表し、26年間続いてきた社会主義政権は崩壊した。また1989年6月には国名をビルマからミャンマーに、首都ラングーンをヤンゴンに改称した。その一方で、1989年7月には民主化運動の指導者スー=チーを自宅軟禁とした。

 1990年5月には複数政党制による総選挙が実施され、スー=チーらが1988年9月に結成した全国民主連盟(国民民主連盟)が圧勝した(492議席中の393議席を獲得)。

 しかし、ソウ=マウン軍事政権は政権移譲を拒否し、逆に野党指導者や反政府運動の指導者らを逮捕した。

 スー=チーの軟禁や人権抑圧などに対する国際的非難が高まる中で、ソウ=マウン議長・首相は1992年4月に健康を理由に辞任し、後任にタン=シュエ国家法秩序回復評議会副議長が昇格して首相に就任した(任1992〜)。タン=シュエ政権は柔軟路線に転換し、政治犯の釈放などを行った。

 スー=チー(アウン=サン=スー=チー、1945〜、ビルマ独立運動の指導者アウン=サンの娘)は、ミャンマーの民主化運動の功績によって、自宅軟禁中の1991年10月にノーベル平和賞を受賞した。しかし、自宅軟禁が解かれなかったので授賞式には出席できなかった。スー=チーの自宅軟禁が解かれたのは1995年7月になってからであった。




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