2 世界経済の変容と南北問題

3 発展途上地域の改革と苦悩(その2)

 アフリカでは、「アフリカの年」といわれた1960年に17カ国が、1960代に15カ国が、そして1970年代にはモザンビーク・アンゴラ(1975)など8カ国が独立した。さらに遅れてナミビア(1990)・エリトリア(1993)が独立した。

 1963年に、中央アフリカ連邦が解体し、ニヤサランドはマラウイとして、北ローデシアはザンビアとして独立した(1964)が、南ローデシアのスミス政権(ローデシア白人政府)は、アパルトヘイト(人種隔離政策)維持のため、1965年11月にイギリス連邦から一方的に独立を宣言した。

 スミス政権は、少数白人支配の存続をはかり、「白人のためのローデシア」を掲げ、黒人政党の非合法化など黒人に対する差別・弾圧政策を続けた。

 しかしその後、スミス政権は、ジンバブエ解放戦線(ジンバブエアフリカ人民同盟(ZANU)とジンバブエ人民同盟(ZAPU)を中心に1976年に結成された白人政府に対する黒人抵抗組織の総称)の武装ゲリラの激化やアパルトヘイトを非難する国際世論の圧力に押され、1979年6月にジンバブエ=ローデシア(黒人を首相とする白人黒人混合政府)を発足させたが国際的承認は得られなかった。

 その後、1979年12月に、内戦の停戦合意と黒人多数支配政府樹立を明記した憲法改正案が採択され、1980年2月の総選挙でジンバブエアフリカ人民同盟(ZANU)が圧勝した。

 ZANU議長のムガベが新首相となり、1980年4月にジンバブエ共和国として独立し、黒人主体国家へと移行した。以後、ムガベは1987年に大統領に就任し、現在4期目を迎えている。

 エチオピアでは、経済危機と飢餓が深刻化する中で、1974年9月に軍部によるクーデターが起こり、皇帝ハイレ=セラシエ(1892〜1975、位1930〜35、1941〜74)は退位した(エチオピア革命)。

 翌1975年、臨時軍事評議会は帝政を正式に廃止し、社会主義共和国の樹立を宣言した。臨時軍事評議会は農地解放を軸とする急進路線と反対派の徹底的粛清を強行した。

 1977年には軍事政権の内紛が起こり、メンギスツ臨時軍事評議会第一副議長が同評議会議長に就任したが、同年7月にソマリアとの紛争が起こった。

 ソマリ族が多数を占めるエチオピア東部のオガデン州(1920年にエチオピア領となる)の分離・ソマリア復帰を目ざす運動(オガデン州解放運動)が、ソマリア政府の支援ですでに1966年に始まっていたが、エチオピア革命後さらに激化し、1977年7月にはソマリア軍がエチオピアに侵入した(エチオピア=ソマリア紛争、1977〜78)。エチオピアはソマリア軍を撃退し、ソマリア軍は1978年3月に撤退した。

 なおソマリアでは、1980年代から内戦が始まり、1991年以後激化し(ソマリア内戦)、1992年12月には国連多国籍軍(米軍が主体)が派遣された。

 1987年2月にエチオピア社会主義新憲法が発効し、同年9月にはメンギスツ議長が初代大統領に選出された。そして民政移管とともにエチオピア人民民主共和国が発足した。

 しかし、翌1988年からエチオピア人民革命民主戦線の反政府ゲリラの活動が活発となり、内戦の激化によってエチオピアの飢餓は最悪の事態となった。

 1991年5月、反政府勢力の攻勢が続く中で、メンギスツは大統領を辞任して国外へ脱出し、社会主義政権は崩壊した。

 なお、エチオピア北部のエリトレア(1962年にエチオピアに併合)では、併合以来、エリトレア解放戦線による反エチオピア独立闘争が続いていたが、1991年のメンギスツ政権の崩壊とともに臨時政府が樹立された。そして1993年4月の住民投票(99.8%が独立を支持)の結果、同年5月にエチオピアから分離独立した。

 しかし、この間の内戦などにより、エチオピアで飢餓に苦しむ人々は800万人に達し、エチオピアとソマリアでは200万人以上の難民が増加したといわれている。

 ヨーロッパ最後の植民地帝国と呼ばれたポルトガルでは1974年にポルトガル革命が起こり、新政権はアフリカ最後の諸植民地の独立を承認したので、ギニア=ビサウ(1973)・モザンビーク(1975)・アンゴラ(1975)がポルトガルから独立した。

 モザンビークでは、1964年頃からモザンビーク解放戦線(1962年結成)による武装独立闘争が始まり、1975年6月に人民共和国として独立を達成した。

 しかし、独立前の1970年以後、南ローデシアのスミス政権がモザンビークの独立に干渉し、解放戦線を攻撃した。南ローデシアの干渉は独立後も続いた(モザンビーク=南ローデシア戦争、1970〜79)が、1976年には国連安保理がモザンビーク支持を決議し、スミス政権の崩壊によって終わった。

 また1981年頃からは、南アフリカの支援を受ける反政府ゲリラとの内戦が激化した。内戦は1992年に終わったが、内戦による死者は約100万人といわれている。

 アンゴラでも、1961年以後ポルトガルからの武装解放闘争が続いたが、ポルトガルは1975年3月に3つの解放勢力と休戦協定を結んだ。

 1975年11月、ソ連に支援されて中部を支配下におくアンゴラ解放人民運動(MPLA)政権がアンゴラ人民共和国の独立を宣言した。

 これに対して、南アフリカとアメリカに支援されて北部と南部を支配下におくアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)とアンゴラ民族解放戦線(FNLA)は、アンゴラ人民民主共和国の独立を宣言し、内戦が続いた(アンゴラ内戦)。

 アンゴラ内戦の和平会談は1988年から続けられ、1991年には和平協定が結ばれ、国連の停戦監視団が派遣されたが、1992年には再び内戦が始まった。その後、1994年に再び和平協定が正式に調印され、翌1995年にUNITAが和平協定を全面的に受け入れたので、独立以来続いた内戦がやっと終結した。そして、1997年4月にはアンゴラ政府と反政府ゲリラとの連立による統一国民和解政府が樹立された。

 1961年5月に英連邦から離脱して共和国として発足した南アフリカ共和国では、南アフリカ連邦時代の1949〜50年に強化されたアパルトヘイト政策(人種隔離政策、アパルトヘイトは分離するの意味)が引き続いて行われた。

 アパルトヘイト政策は、人口登録法(人種登録を義務づける法律)・集団地域法(人種別に居住地域を定める法律)・先住民土地法(アフリカ人の土地所有を国土の13%に限定する法律)・雑婚禁止法(白人と非白人との結婚を禁止する法律)などの法律によって、非白人の公民権を制限し、白人と非白人を分離して非白人を差別し、少数の白人(人口の約16%)が大多数の非白人(人口の約84%)を支配する体制を維持するための政策であった。

 このアパルトヘイト政策に対しては、1912年に結成された黒人解放組織であるアフリカ民族会議(ANC)が中心となって反対闘争を展開したが、ANCは1962年に非合法化された。しかし、ANCはその後も活動を続け、1970年代後半から武装闘争を強化した。

 1976年6月、ヨハネスブルク近郊の南アフリカ最大のソウェト(黒人居住地)で黒人学生による反政府デモが起こり、200人以上の死傷者が出た(ソウェト蜂起、ソウェト反乱)。この出来事を契機として黒人暴動が全国に広がった。

 共和国政府は黒人暴動に対して残虐な弾圧を行って国際的な非難をあび、国連総会も1960年代以後しばしば南アフリカ共和国に対する制裁決議を採択したので、南アフリカ共和国は国際的に孤立した。

 こうした状況の中で、共和国政府は1980年代にはいるとアパルトヘイト政策を見直し始めた。ボタ政権(1978〜89)は、1984年に黒人以外の有色人種に参政権を与え、同年9月には白人・カラード(混血)・インド系の3人種別議会が召集された。

 しかし、これに対しては全国で黒人の反政府暴動が激化した。ボタ政権は、1986年にパス法(黒人の白人地域への流入を規制する身分証明書法)を廃止したが黒人暴動はさらに続いた。

 1989年9月に正式に大統領に就任したデクラーク(1936〜、任1989〜94)は、黒人との対話に努め、1990年2月にANCを合法化し、終身刑で服役中であったANCの最高指導者マンデラを27年ぶりに釈放した。そして同年10月には37年ぶりに人種隔離法を廃止し、さらに1991年6月には最後まで残っていた人口登録法・集団地域法・先住民土地法の3法律を廃止し、これによってアパルトヘイトは法的には終結した。

 その後、デクラークはANCのマンデラとの話し合いを進め、また国際社会への復帰に努めた。その結果、1993年10月には国連総会で31年ぶりに一連の南アフリカに対する制裁の撤廃が決議された。

 こうした諸改革を推進した功績により、デクラークはマンデラとともに1993年にノーベル平和賞を受賞した。

 1994年4月、全人種参加の初の憲法制定議会選挙が実施され、ANCが全得票数の約63%を獲得し、過半数を制して勝利し、5月にはマンデラ(1918〜、任1994〜99)が黒人としては初の南アフリカ共和国の大統領に就任し、白人支配は終わりを告げた。




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