2 世界経済の変容と南北問題

3 発展途上地域の改革と苦悩(その1)

 1950年代の米ソを中心とする東西陣営の対立が「雪どけ」に向かう中で、1960年代になると南北問題が大きな国際問題となった。

 1960年代に入っても、アジア・アフリカ・ラテン=アメリカなど南半球に集中する発展途上国は北半球の欧米や日本などの先進工業国への原料・農産物の供給国としての地位に留まり、南北間の経済格差が一層深刻となった。この南北間の経済格差の問題は南北問題と呼ばれた。さらに1970年代以後は南の発展途上国の間でも、産油国と非産油国との間の格差が拡大するという南南問題も問題化してきた。

 こうした状況の中で、1961年の国連総会では、1960年代を第1次「国連開発の10年」とする計画が採択され、10年間で発展途上国の経済成長を年率5%にまで高めるために世界的に援助していくことが決められた。

 そして、1964年3月には121カ国の代表がジュネーヴに集まり、第1回国連貿易開発会議(UNCTAD、アンクタッド)が開かれた。会議では南北問題が討議され、先進工業国と発展途上国との貿易の拡大、先進工業国による発展途上国への技術援助・資金援助(GNPの1%)などが決められた。UNCTADは当初は常設的なものとは考えられていなかったが同年12月の国連総会の決議によって国連の常設機関となった。

 また、1974年4月には国連資源特別総会が開かれ、「新国際経済秩序樹立宣言」が採択され、資源ナショナリズム(発展途上国が先進工業国に対して自国の資源に対する主権を主張する動き)がますます強まっていった。

 しかし、南北問題・南南問題の解決は容易ではなく、重要な国際問題として21世紀の今日まで続いている。

 ラテン=アメリカでは、1964年のクーデターで成立した軍事政権下にあったブラジルが外国資本を積極的に導入し、1968〜74年にかけて「ブラジルの奇跡」と呼ばれた高い経済成長をとげたが、1980年代には対外債務の負担増から債務危機に陥った。

 この間、1970年代中頃から段階的に民主化が進められ、1985年には軍事政権から民政に復帰し、1988年には新憲法が公布された。そして翌1989年11月には29年ぶりに大統領直接選挙が実施された。

 アルゼンチンでは、1973年の民政移管後、ペロン(1895〜1974、任1946〜55、73〜74)が再び大統領に就任したが、就任後9ヶ月で病死した。ペロンの死後、副大統領のイサベル夫人が大統領に昇格したが、軍部のクーデターによって失脚した(1976.3)。

 新たに成立した軍事政権は、左翼勢力を弾圧して親米政策をとり、経済危機が続く中で1982年4月にはフォークランド諸島を占領したが、イギリス軍に敗れた(フォークランド戦争、フォークランド紛争)。

 翌1983年10月に民政移管のための大統領選挙が行われ、急進党のアルフォンシンが当選した。同年12月、アルフォンシン(任1983〜89)が大統領に就任して民政に復帰し、アルフォンシンは民主主義の回復に努めた。

 チリでは、1970年10月の大統領選挙で人民連合(社会党・共産党・急進党)に推された社会党のアジェンデ(1908〜73、任1970〜73)が大統領に選出され、チリにおける最初の社会主義政権が成立した。

 アジェンデはアメリカ系銅山を接収し、銅資源の国有化など社会主義化を進めたが、ストやインフレ・物資の不足などの経済危機に直面した。

 1973年9月、アメリカと結んだ軍部のクーデターによってアジェンダ政権は崩壊し、アジェンダは反乱軍との戦闘で死亡した。

 軍部のクーデターによって成立したピノチェト(1915〜、任1973〜90)軍事独裁政権は、国営企業の民営化を行うなど経済再建に取り組んだが、その一方で左翼や反対派に対する厳しい弾圧を続け、多くの人々を虐殺した。

 ピノチェトは、1988年10月、大統領の任期をさらに8年間延長することの是非を問う国民投票に敗れたが、即時退陣要求を拒否して大統領の地位に留まり、1990年3月に辞任した。1990年3月、ピノチェトの退陣により、チリは16年ぶりに民政に復帰した。

 中米のニカラグアでは、1936年のクーデター以後ソモサ一族による独裁政治が続いたが、1979年7月にソモサ独裁に対するニカラグア革命(サンディニスタ革命)が起こり、サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)を中心とする新政権が成立した。

 1984年11月、サンディニスタ民族解放戦線のオルテガ(任1984〜90)が大統領に当選し、左翼政権が成立したが、アメリカの援助を受けた反政府ゲリラ(コントラ)との内戦が激化した。ニカラグア内戦は1987年の中米和平合意によって、翌1988年に停戦した。

 1990年2月に行われた大統領選挙では、親米派のチャモロ女史(1920〜、任1990〜97)が当選し、ニカラグア内戦は終わった。

 中米のエルサルバドルでも、ニカラグア革命(1979)が契機となり、軍民政府軍と左翼ゲリラとの内戦が勃発した(エルサルバドル内戦、1979〜92)。

 カリブ海の小アンティル諸島に属するグレナダ島と若干の小島からなるグレナダ(1974年に独立、国土面積344平方km、琵琶湖の約半分)でも、1979年3月にクーデターが起こり、革命政権が成立した。革命政権は社会主義化を目ざし、キューバ・ソ連と友好を深めた。

 1983年10月には再び軍事クーデターが起こり、革命政権の首相らが殺害され、革命軍事評議会が全権を掌握した。

 1983年10月、レーガン大統領は在住アメリカ人の保護を口実にグレナダに侵攻した。アメリカは、世界中から非難をあびながらグレナダ侵攻を進め、オースチン革命軍事評議会議長を逮捕し、左翼政権を打倒した。

 グレナダでは、同年11月に暫定政権が発足し、翌年には総選挙による正式政府が成立した。

 中米のパナマでは、1968年に国家警察隊によるクーデターが起こり、親米独裁政権が打倒され、トリホス最高司令官が実権を握る革新的軍事政権が成立した。

 トリホス政権は、アメリカとのパナマ運河返還交渉に努め、1977年8月にカーター政権との交渉で、パナマ運河地帯の主権を回復することを約した新パナマ運河条約(9月に調印)を結ぶことに合意し、パナマ運河は1999年12月31日に返還されることが決定した。

 トリホス将軍は、経済危機と軍部独裁への批判が高まる中で、1978年10月に最高司令官の地位を去り、1981年に飛行機事故で死亡した。

 その後、1983年にノリエガ将軍(1938〜、任1983〜89)が国家警察隊最高司令官に就任し、全権を掌握したが、1987年にはノリエガに対する批判が強まり、反政府デモが発生した。

 アメリカの上院はノリエガの即時退陣を要求する決議を採択し、アメリカの大陪審はノリエガを麻薬取引容疑で起訴し(1988.2)、両国間の緊張が高まった。

 1989年12月、ブッシュ政権はノリエガの身柄確保を理由にパナマに侵攻した。
 ノリエガは1990年1月にアメリカ軍に投降・逮捕され、アメリカに連行され、1992年に麻薬取引罪によって禁固40年の判決を受けた。

 この間、パナマには米が支援するエンダラ新政権が成立し(1989.12)、新政権はアメリカとの関係修復に努めた。




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