第4次中東戦争後、サダトはアメリカの仲介でイスラエルとの和解に転じ、1977年11月19日にイスラエルを訪問し、ベギン首相(1913〜92、任1977〜83、右派リクード)と会談を行った。
このアラブの首脳がイスラエルを訪問するという衝撃的な出来事は世界中を驚かせたが、大多数のアラブ諸国はサダトの行動をアラブに対する裏切りとして非難した。
しかし、サダトはアラブ世界の中で孤立してもイスラエルとの和平を推し進めるとの決意をもって翌1978年9月に訪米し、アメリカのカーター大統領(任1977〜81)の仲介でイスラエルのベギン首相とのキャンプ=デーヴィッド会談(9月5日〜17日)に臨み、エジプト=イスラエルの国交正常化とシナイ半島の返還で合意した。
同年10月、サダトとベギンは中東和平への貢献によってノーベル平和賞を受賞した。そしてカーターも中東和平仲介や人権外交の推進などの功績によって2002年10月にノーベル平和賞を受賞した。
そして、1979年3月26日、ついにエジプト=イスラエル平和条約が締結された。
平和条約の締結によって、シナイ半島は1979年から段階的にエジプトに返還され、1982年には返還が完了した。
しかし、アラブ18カ国とPLOは、エジプトとイスラエルとの和平に強く反発してエジプトと断交し、エジプトはアラブ連盟を脱退した(1979.3)。
以後、サダトはアメリカとの関係を深め、経済の開放政策を進めた。エジプト経済は成長をとげたが、その一方で貧富の差がますます広がるなかで、イスラム原理主義(イスラム法の厳格な実践を通して政治や文化をイスラムの原理に戻そうとする運動、欧米型の近代化に対する反発から盛んとなった)運動が盛んとなった。
サダトは、こうした状況の中で反対派への抑圧を強め、1980年5月には憲法を改正して終身大統領となったが、1980年10月、第4次中東戦争の勝利を記念する軍隊パレードを閲兵中にイスラム原理主義派の兵士によって射殺された。
サダトの暗殺後、ムバラク(1929〜、任1981〜)が副大統領から昇格して大統領に就任した。ムバラクはサダトの路線を受け継ぎ、アメリカ・イスラエルとの関係を重視しながら、アラブ諸国との関係修復にも努めた。
なお、1993年9月には、イスラエルとPLOが相互に承認し合い、パレスチナ暫定自治協定に調印したが、パレスチナの和平はまだ実現されていない。
イランでは、国王パフレヴィー2世(1919〜80、位1941〜79)のもとで、1963年から「白色革命」と呼ばれる上からの経済・社会の近代化が進められた。
パフレヴィー2世は、1963年1月に、農地改革・森林の国有化・国営企業の民営化・工場労働者への利益分配・婦人参政権・識字部隊の創設の6項目からなるイラン近代化のための改革案を国民投票にかけ、改革案は採択された。
この「白色革命」は、農地改革に対する地主や宗教勢力の抵抗や婦人参政権に対する宗教勢力の反発のなかで進められ、「白色革命」による近代化と膨大な石油収入によってイランは高い経済成長を実現した。しかし、急速な工業化は農村に打撃を与え、都市と農村の格差や貧富の差の拡大などの社会矛盾が激化した。
インフレが激化し、失業者が急増するなかで、1978年から国王の独裁やそれを支えてきたアメリカに対する反発が強まり、反国王運動が全国に広まった。
1979年1月16日、パフレヴィー2世は国外に脱出し、2月1日にはホメイニが亡命先のパリから帰国した。
イランのイスラム教シーア派の指導者であるホメイニ(1901頃〜89)はイラン西部のホメイン村で学者の子として生まれた。神学校で学び、イスラム法の解釈権を持つイスラム法学者の最高権威の一人となった。
ホメイニは、1963年に国王の独裁・対米従属・イスラエル寄りの外交姿勢などを批判して逮捕された。翌年いったんは釈放されたが、再び国王批判を行ってトルコに追放された。後にイラクへ亡命した(1965)が、そこでも反国王運動を指導したのでイラクを追われ(1978)、パリ郊外に移った。
ホメイニは、1979年2月に帰国してイランの最高指導者となり、4月にイラン=イスラム共和国の成立を宣言した(イラン革命)。
1979年12月、イラン=イスラム共和国憲法が国民投票によって圧倒的な多数で承認され、同憲法ではイスラム法学者による統治が定められた。
ホメイニは、イランのシーア派の宗教・政治の最高指導者の地位について実権を握り、イスラム教の規律の復活など宗教色の濃い政策を強行した。対外的には反米・反ソの立場をとり、アラブ諸国とも対立した。
なお、このイラン革命とそれに続くイラン=イラク戦争(1980〜88)によってイランの産油量が激減した。そのため、1979年には約12ドル(1バーレル当り)であった原油価格が1982年には約34ドルにまで高騰し、欧米や日本をはじめ世界経済全体に深刻な打撃を与えた(第2次石油危機)。
1979年11月、ホメイニ派の学生らは前国王と資産の引き渡しを要求し、アメリカがこれを拒否すると、テヘランのアメリカ大使館を占拠して全館員を人質とした。
アメリカは、1980年4月にイランとの国交を断絶し、人質救出作戦を行ったが失敗し、イランとアメリカの関係は一層悪化した。その後、人質は1981年1月に解放された。
なお、パフレヴィー前国王は病気治療のために一時アメリカに滞在したが、その後エジプトに移住し、1980年7月に死亡した。
厳格なイスラムへの復帰を唱えるイラン革命は、イスラム法の厳格な実践を通して政治や文化をイスラム教の原理に戻そうとするイスラム原理主義の運動がイスラム世界に広まるきっかけとなった。また周辺のイスラム諸国は、シーア派の国イランで起こった革命が自国に及ぶことを恐れたので、イランとアラブ諸国との対立が深まった。
国内のシーア派へのイラン革命の波及を恐れるイラクは、国境問題を口実にイランに侵攻し、イラン=イラク戦争(1980〜88)が始まり、長期の戦争となった。
ホメイニは、イラン=イラク戦争が停戦した翌年に死去した(1989.6)。
イラクでは、イラン革命が起こった1979年に、サダム=フセインが大統領に就任し、イラクの全権を握った。
フセイン(1937〜、任1979〜)は、学生時代からアラブ民族主義を主張するバース党に入党し(1957)、反政府運動で逮捕・投獄をくり返し、カセム政権(1958〜63)下で死刑判決を受けてエジプトに亡命した(1959)。カセム政権の崩壊後帰国し、1968年のバース党のクーデターで活躍し、革命評議会副議長となった(1969)。そして1979年に前大統領の辞任とともに大統領兼革命評議会議長に就任し、全権を掌握した。
フセインは、イラン革命がイラク南部で多数を占めるシーア派のアラブ人に波及することを恐れ、またイランがアメリカ大使館占拠事件で国際的に孤立するなど不安定な状況にあることから、十分に勝算があると考えてイランに侵攻した。
1980年9月、フセインはイラク・イランの国境を流れる川の領有を主張し、イラン南部の油田地帯にイラク軍を侵攻させ、イラン=イラク戦争(1980.9〜88.8)が始まった。しかし、イランは1982年から反撃に出てイラク軍をイランから一掃し、逆にイラク領に攻め入った。
アメリカは、イランがイラク領に侵攻するようになると、イラン革命がペルシア湾岸の諸国に波及することを恐れ、ペルシア湾岸の石油権益を守るためにイラクに軍事・経済援助を行った。またサウジアラビア・クウェート・バーレーンなどのアラブ産油国も湾岸協力会議を結成してイランに対抗した。
1987年7月、国連でイラン=イラク戦争の即時停戦と国境線までの即時撤退を求める安保理の決議が採択された。イラクはこれを受諾したがイランは拒否し、戦闘はさらに続いた。1988年7月にイランも国連決議を受諾し、同年8月に停戦が成立した。
その後、フセインは1990年8月にクウェートにも侵攻し、翌1991年1月に湾岸戦争が勃発した。