1 冷戦の解消と国際関係の変化

2 米中国交正常化と中国の内政転換

 アメリカのニクソン大統領(1913〜94、共和党、任1969〜74)は、深刻なドル危機と泥沼のヴェトナム戦争に苦しむ中で、1970年2月にニクソン=ドクトリンを発表し、海外特にアジアへの過剰介入を避けるという方針を表明した。

 しかし、その一方で、カンボジャ侵攻(1970.4)・ラオス侵攻(1971.2)を行い、ヴェトナム戦争をさらに拡大した。この戦争拡大は国内で強い反発を招き、ヴェトナム反戦運動や大学紛争が激化した。

 1960年代後半以降、ヴェトナム戦争の戦費の増大・海外投資の増加・貿易赤字の増大などによってアメリカの国際収支は著しく悪化し、国際通貨であるドルに対する信用が大きく低下した。

 1971年8月15日、ニクソン大統領はドル防衛のため、ドルと金の交換の停止を発表した(ドル危機、ドル=ショック、ニクソン=ショック)。さらにこれに続いて1971年12月にはスミソニアン合意によってドルの7.89%切下げが行われ、1973年2月にはさらにドル10%切下げを一方的に発表した。

 このドル危機は世界経済に大きな衝撃を与え、これによって第二次世界大戦後続いてきたIMF体制(ブレトン=ウッズ体制)は崩壊した。

 こうした内外の危機に直面したニクソンは、中国との和解なしにはアジアの平和はあり得ないと考えるようになり、1971年7月にキッシンジャー(1923〜)大統領特別補佐官(任1969〜73)を秘密裡に中国に派遣した。キッシンジャーは周恩来首相と会談し(7月9〜11日)、15日にニクソン大統領が翌年5月までに北京を訪問すると発表した。

 同年10月25日には、国連総会で、中華人民共和国の代表権を認め、台湾の中華民国政府(国民政府)を追放するというアルバニア案が圧倒的多数で可決された(賛成76、反対35、棄権17)。

 中国の国連加盟問題は、1949年の中華人民共和国の成立とともに起こり、翌1950年にはソ連が安保理に提出したが否決され、同年インドが国連総会に提出した決議案も否決された。中華人民共和国の加盟に反対したアメリカは、アジア・アフリカの新興国の国連加盟が急増すると、1961年に中国の加盟問題を重要事項(可決には3分の2以上の賛成が必要となる)にすることを提案して可決された。

 1971年のキッシンジャーの訪中以後アメリカは従来の政策を転換し、中華人民共和国の国連加盟は支持するが、台湾の中華民国政府の追放には反対するとの方針をとり、同年9月に中華民国政府の追放を重要事項とする逆重要事項指定決議案と、中華人民共和国と中華民国政府の二重代表制案を国連に提出し、日本も共同提案国となった。

 しかし、10月に開かれた国連総会では、逆重要事項指定決議案は否決され(賛成55、反対59、棄権15)、中華人民共和国の代表権を認め、中華民国政府を追放するというアルバニア案が可決された。

 1972年2月21日、ニクソン大統領は、アメリカの大統領としては初めて中国を訪問し、27日に共同声明が発表された。米中共同声明で、アメリカは平和五原則を承認し、これによって長い間敵視してきた中華人民共和国を事実上承認した。

 ニクソンは、1972年の大統領選挙で大勝して再選された。しかし、大統領選挙中にニクソン陣営が、ワシントンのウォーターゲートにある民主党本部に盗聴器を仕掛けた事件(ウォーターゲート事件)が1973年に発覚した。

 ウォーターゲート事件には、ニクソン自身も関与していたがこれを否定したために世論の批判を招き、1974年7月に下院司法委員会が大統領弾劾訴追を議決したため、ニクソンは辞任した。そのため、ニクソンはアメリカ史上初めての任期途中で辞任した(暗殺や病死でなく)大統領となった。

 ニクソンの辞任後、副大統領のフォード(1913〜、共和党、任1974〜77)が昇格し、第38代大統領に就任した。

 フォードは、政策面ではニクソンの路線を踏襲したが、経済の悪化で支持を失い、1976年の大統領選挙で民主党のカーターに敗れた。

 カーター(1924〜、任1977〜81)は南部のジョージア州で生まれ、州上院議員・州知事を経て民主党の大統領候補となり、清新なイメージで現職のフォードを破り、南北戦争後初の南部出身の大統領となった。そして「人権外交」と呼ばれる外交政策を展開したが十分な成果をあげることは出来なかった。

 しかし、1978年9月には、キャンプ=デーヴィッドで、エジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相との中東和平会議を仲介し、翌1979年3月に歴史的なエジプト=イスラエル平和条約の調印を実現させた。

 また1979年1月には米中国交正常化を果たした。これにより、朝鮮戦争以来対立関係にあった両国は、1972年のニクソン訪中を経て、正式に外交関係を樹立し、台湾の中華民国政府とは断交した。

 アメリカの対中接近は、アジア諸国に大きな衝撃を与え、日本も1972年9月、田中内閣(1972.7〜74.12)のもとで中国との国交正常化にふみきった。

 田中首相は、1972年9月25日に訪中し、周恩来首相との会談で日中正常化に合意し、27日には毛沢東に会見した。

 1972年9月29日、日中共同声明が発表され、日本は中華人民共和国が中国の唯一の合法政府であること承認すること、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であるとの中華人民共和国の立場を尊重すること、両国は同日から外交関係を樹立すること、中華人民共和国政府は日本に対する戦争賠償の請求を放棄すること、両国は平和五原則の基礎の上に平和友好関係を確立すること、両国は平和友好条約締結の交渉を行うことなどを確認し、日中戦争以来の戦争状態を完全に終結させた。

 日中国交正常化と同時に、日本は台湾の中華民国政府(国民政府)との国交を断絶し、日華平和条約(1952.4調印)は失効した。

 日中平和友好条約の締結交渉は覇権条項を本文に入れる問題で交渉が長引いたが、1978年8月12日、日中両国は日中平和友好条約に調印し、同条約は10月23日に発効した。

 日中平和友好条約は5条からなり、日中両国は、平和五原則の基礎の上に両国間の恒久的な平和友好関係を発展させること、また国連憲章の原則に基づき、紛争を平和的手段により解決し、武力または武力による威嚇に訴えないこと、両国はアジア・太平洋地域においてもまたは他のいずれの地域においても覇権を求めるべきでなく、またこのような覇権を確立しようとする他の国の試みにも反対すること、両国は善隣友好の精神に基づき、両国間の経済的関係および文化的関係の一層の発展と両国民の交流の促進に努力することなどを約した。

 この間、中国はまだ文化大革命(1966〜76)の中にあった。

 1971年9月、毛沢東の後継者とみなされていた林彪が反毛沢東クーデターに失敗し、ソ連への逃亡中に墜落死した。林彪事件後、周恩来は秩序の回復と経済の立て直しに努め、その過程でケ小平ら旧幹部が復活した。

 ケ小平は、1973年に国務院副総理(副首相)として復活し、1975年には党副主席・中央軍事委員会副主席兼総参謀長に任命された。

 その一方で、文化大革命を推進し、毛沢東の権威を背景に権力を握った「四人組」(王洪文・張春橋・江青(毛沢東夫人)・姚文元)の勢力も拡大し、周恩来・ケ小平ら実務派と「四人組」との対立が激しくなった。

 1976年1月8日、周恩来首相が死去した。周恩来の死後、「四人組」は周恩来に対する追悼を抑えるとともにケ小平への批判を強めていった。

 4月4日の清明節(墓参りの日とされる)が近づくにつれ、周恩来を追悼する花輪や詩を持って天安門広場に集まる民衆の数が増えた。4月4日、数万の民衆が天安門広場に集まり、「四人組」や毛沢東を批判する詩を貼り出し、演説を行った。

 1976年4月5日、前夜から江青ら「四人組」の要求によって花輪が撤去されたことをきっかけに、民衆による暴動が発生した(第1次天安門事件、四・五運動)。暴動は1万人の民兵と数千の武装警官によって鎮圧され、2日後、ケ小平は全職務を解任されて失脚した。

 1976年9月9日、毛沢東が死去した。

 10月6日、華国鋒首相(1921〜、任1976〜80)は、クーデターによって「四人組」を逮捕・打倒し、党主席を兼任した(任1976〜81)。

 華国鋒は、1977年8月に文化大革命の終了を宣言し、農業・工業・国防・科学技術の「四つの現代化」を推進し、また文化大革命の犠牲者の名誉回復を行って、中国の立ち後れの克服に努めた。

 ケ小平は、1977年7月に中央政治局常務委員・党副主席・国務院副総理・中央軍事委員会副主席兼総参謀長に復帰した。

 1978年12月に開かれた中国共産党第11期3中全会は文化大革命後の中国の経済・社会・政治路線の重大な転換点となり、以後ケ小平は党・政府・軍の事実上の最高指導者となり、「四つの現代化」・「改革開放」を推進した。

 なお、1979年1月に米中国交正常化がなると、中国はソ連に中ソ友好同盟相互援助条約の破棄を通告し(1979.4)、同条約は翌1980年に解消された。




目次へ戻る
次へ