1970年代に入ると、米ソ間ではデタント(緊張緩和)が進展した。また、米ソ両大国の地位が揺らぎ始める中で、日本やECの経済発展・中国の国際社会への復帰・第三世界の発言力の増大などにより、国際政治の多極化が進んだ。
1960年代から国際収支の赤字に悩んできたアメリカは、ヴェトナム戦争の戦費の増大などによって国際収支がますます悪化し、1971年にはついに金とドルとの交換を停止した(ドル危機、ドル=ショック、ニクソン=ショック)。一方ソ連も経済が停滞する中で膨大な軍事費の負担に苦しんでいた。また核兵器の廃絶を求める国際世論が高まる中で、米ソ両国は核兵器の制限を中心とした話し合いを進めた。
米ソ両国は、1969年に第1次戦略兵器制限交渉(SALTT)を開始した。SALTTでは、主として戦略ミサイルの数量制限についての交渉が行われ、1972年5月に、ニクソンとブレジネフは、核兵器の現状を凍結する協定とともに、迎撃ミサイル制限条約(ABM条約)に調印した。そして翌1973年6月には核戦争防止協定にも調印した。
1975年7月には、ヘルシンキで、米ソを含む35カ国の首脳が参加し、全欧安全保障協力会議(CSCE)が開かれた。会議ではヨーロッパの緊張緩和と相互安全保障について討議が行われ、ヨーロッパ各国の主権尊重、武力不行使、科学・人間の交流の協力などを謳ったヘルシンキ宣言が採択された。また1978年5〜7月には、国連軍縮特別総会が開かれた。
米ソ両国は、1982年6月から第1次戦略兵器削減交渉(STARTT)を開始した。1987年12月に中距離核兵器(INF)全廃条約に調印し、1991年7月にはSTARTTに調印して核弾頭数の削減などを約した。
1970年代以後、米ソ間で進展したデタントの影響がまずヨーロッパに現われた。
ドイツでは、1969年10月にブラント政権(1969.10〜74.5)が成立し、ブラント政権のもとで、「東方外交」(社会主義諸国との関係改善を目ざす外交政策)が展開された。
ブラント(1913〜92)は、西ベルリン市長(任1957〜66)として政治的名声を確立し、社会民主党の党首に選ばれ(1964)、1969年に社会民主党と自由民主党との連立政権で首相(任1969〜74)に就任した。
ブラントは、1970年3月に西ドイツ首相としては初めて東ドイツ首相と会談し、また同年8月にソ連=西独武力不行使条約(1972年に発効)に調印し、第二次世界大戦以後の両国の冷戦を終了させた。さらに同年12月にはポーランドとオーデル=ナイセ線(1945年のポツダム協定でオーデル川とナイセ川がポーランドとドイツとの国境線と暫定的に定められた)での国境を確認し合い、西独=ポーランド国交正常化条約に調印し、西ドイツとポーランドは1972年9月に33年ぶりに全面的な国交を樹立した。
1972年12月21日、東西ドイツ基本条約が結ばれた。東西両ドイツは、相互に国家を承認し合い、東ドイツとポーランドの国境がオーデル=ナイセ線であることを確認した。そして、東西ドイツ基本条約が結ばれたことを受けて、1973年9月に東西両ドイツは国際連合に同時に加盟した。
ブラントは、1973年にはチェコスロヴァキア・ブルガリア・ハンガリーとも国交を樹立した。ブラントは、社会主義諸国との関係改善に努めた功績により、1971年にノーベル平和賞を受賞した。
しかし、ブラントは、1974年5月に、首相秘書の一人が東ドイツのスパイとして逮捕された事件の責任をとって辞任し、同じ社会民主党のシュミット(1918〜、任1974〜82)が首相に就任し、ブラントの外交路線を継承した。
イギリスでは、1970年にヒース保守党内閣(1970.6〜74.3)が成立した。
過去にEEC加盟交渉で首席代表を務めたヒースは、首相就任後まもなく、EC加盟交渉を開始した。それまでイギリスのEC加盟に反対してきたド=ゴールが1969年に辞任していたこともあり、1971年6月の英仏首脳会談を経て、ついに加盟交渉が妥結した。イギリスはアイルランド・デンマークとともにECに加盟し、1973年1月に拡大ECが発足した。
その一方で、ヒース政権は、当時激化してきた北アイルランド紛争の解決に苦しんだ。
イギリス領北アイルランド(アルスター地方)には、17世紀以来イングランド人・スコットランド人のプロテスタント(イギリス国教会徒)が植民し、カトリック教徒との対立が続いていた。
アルスター地方は、アイルランド自由国の成立(1922)の際もイギリス本国内に留まり、 自治権が認められていたが、政治・経済の実権は多数派(約3分の2)のプロテスタント系(イギリス系)住民が握り、少数派(約3分の1)のカトリック系(アイルランド系)住民は参政権・就職・住宅などで差別され、貧困にあえいでいた。そのため、カトリック系(アイルランド系)住民の一部は非合法のアイルランド共和国軍(IRA)を組織した。
両者の対立は、1968年頃から表面化し、1969年4月には大規模な衝突が起こり、イギリス軍が出動した。ヒース政権は、1972年に北アイルランドの自治権を停止して直接統治下に置くとともに、過激派の武力鎮圧に乗り出した。