1 列強のアフリカ分割(その1)
近代ヨーロッパの人々から「暗黒大陸」と呼ばれたアフリカ大陸のうち、地中海沿岸の北アフリカやインド航路の港、また奴隷貿易が盛んに行われた西アフリカの沿岸部は早くからヨーロッパ人に知られていたが、それ以外の地域の状態がヨーロッパ人に知られるようになったのは、19世紀中頃のリヴィングストン(1813〜73)やスタンリー(スタンレー、1841〜1904)の探検以後のことである。
リヴィングストンは、1849年以後アフリカ奥地の探検を行ってヴィクトリア瀑布(1855)を発見したが、最後のナイル川の水源を探る探検の際に一時消息不明になった。
リヴィングストンの捜索に向かったイギリス生まれのアメリカ人ジャーナリスト・探検家スタンリーは、タンガニーカ湖畔で感激の対面を果たし(1871)、その後コンゴ川を発見し、大陸横断に成功した(1877)。
こうした探検によってアフリカ大陸の奥地が資源の宝庫であることが判明し、列強の目がアフリカに注がれるようになったが、それ以上に列強のアフリカへの関心を高めたのが1869年のスエズ運河の開通であった。
スエズ運河は地中海と紅海を結ぶ全長160kmの運河で、フランス人技師レセップス(1805〜94)の努力によって開通した。レセップスは国際スエズ株式会社を設立して資金を集め、フランスが約半分の株式を所有し、残りの4分の3をエジプト、4分の1をトルコが所有した。スエズ運河は1859年に着工され、1869年に開通した。
スエズ運河の開通により、ヨーロッパからアジアへの所要時間が喜望峰回りのコースの約3分の1となったので、すでにアジア諸地域への進出をはかっているヨーロッパ列強にとってその重要性は一層増大した。
こうした状況の中で列強はアフリカに注目し、侵略を企てるようになった。
列強によるアフリカ分割が盛んとなった1884〜85年にビスマルクの提唱によってベルリン会議(コンゴ会議)が開かれた。この会議ではコンゴ自由国が認められ、また「アフリカの海岸で領土を先占する国は先占を尊重させるに必要な権力を確保する義務を持つこと」・「先占の通告を他の締結国に対して行うべきこと」というアフリカ分割の原則が定められた。
簡単にいうと、他国よりも早く武力で占領して他国に通告すればその国の植民地になるということなので、このベルリン会議はアフリカの全面的な分割の契機となり、1876年までは全アフリカの10.8%が植民地化されていたにすぎなかったのが、1890年までには90.4%が植民地化され、20世紀初めにはエチオピア帝国とリベリア共和国を除いてアフリカは全て列強の支配下に置かれた。
イギリスは、ディズレーリ内閣の時に、エジプトの財政難に乗じてスエズ運河会社の株式を買収し(1875)、以後フランスとともにエジプトの財政管理を行うとともに内政に干渉した。これに対してアラービー=パシャの反乱(1881〜82)が起こると、イギリスは単独で出兵してこれを鎮圧し、エジプトを事実上の保護国とした(1882、正式の保護国化は1914年)。
イギリスがエジプトからさらにスーダンへ進出すると、スーダンではマフディーの反乱(1881〜98)が起こった。
ムハンマド=アフマド(1844頃〜85)は、スーダンの預言者の一族に生まれ、少年時代から宗教家を志した。彼は、エジプトの圧制とスンナ派イスラム教の腐敗に憤激していた民衆の間にマフディーの出現を期待する風潮が強まる中で、アッラーに選ばれた者であるという自覚を持つようになり、1881年に自らマフディー(導かれた者の意味、救世主の意味に使われる)であると宣言し、イスラム教の復興を唱えて民衆を糾合し、ジハード(聖戦)に乗りだし、エジプト軍を各地で撃破した。
マフディー軍は、1885年にはエジプト軍を支援するゴードン(常勝軍を率いて太平天国の乱の鎮圧に活躍)指揮下のイギリス軍をハルツームで破って彼を戦死させたが、ムハンマド=アフマドも同年に病没した。
マフディーの反乱はその後も続いたが、イギリスはキッチナー将軍の率いる軍隊を派遣してこれを鎮圧し(1898)、翌年にはエジプト=スーダンを征服した。しかし、このマフディーの反乱によってイギリスのスーダン進出は約10年遅れたと言われている。
イギリスは南アフリカでは、ウィーン会議によってオランダ領からイギリス領となったケープ植民地を根拠地として周辺に進出した。
ブーア人(ブール人、ボーア人)は、17世紀以降にケープに入植したオランダ人植民者の子孫でケープ植民地を築いたが、ケープ植民地がイギリス領となると(1814)、北の奥地に追われ、オレンジ自由国(1854〜1902)とトランスヴァール共和国(1855〜1902)を建国した。
オレンジ自由国で1867年に世界屈指のダイヤモンド鉱山が、またトランスヴァール共和国で1886年に世界一の金鉱が発見されると、イギリスは両国の併合を企てた。
セシル=ローズ(1853〜1902)は牧師の家に生まれ、1870年に南アフリカに渡った。彼はオレンジ自由国で発見されたダイヤモンド鉱山の採掘に従事して巨富を得、さらにトランスヴァールで発見された金鉱の採掘権を独占した。
1890年にはケープ植民地首相となり、イギリス帝国主義を典型的に推進した。「出来ることなら私は惑星をも併合したい」という言葉は、彼の帝国主義思想をよく示している。
さらにセシル=ローズはトランスヴァールの北方の中央アフリカを征服した(1890〜94)。銅・亜鉛・クローム・ニッケルなどの鉱産資源に富むこの地は、彼の名に因んでローデシア(現在のジンバブエ共和国、ザンビア共和国)と呼ばれた。
セシル=ローズはトランスヴァールに対する極端な侵略政策で内外の非難をあびて失脚し(1896)、南ア戦争が終わった1902年に病没した。
しかし、イギリスは、セシル=ローズの失脚後も、トランスヴァール共和国侵略をあきらめたわけでなく、トランスヴァール共和国がブーア人以外の入植者に対して市民権取得資格を制限したのに対して、イギリス人移民の参政権を要求した。そしてこれが拒否されると1899年10月に宣戦を布告し、南ア戦争(ブーア戦争、1899.10〜1902.5)が始まった。
トランスヴァール共和国はオレンジ自由国と同盟してイギリスに抵抗したが、イギリスは大軍をもって両国内に進攻し、翌年一度は併合を宣言した。しかし、ブーア人はゲリラ戦で頑強に抵抗したので戦争は長期化した。
典型的な帝国主義戦争である南ア戦争を推し進めるイギリスに対しては世界中からごうごうたる非難がわき起こり、イギリスは国際的に孤立したが、45万の兵力と莫大な戦費をつぎ込み、残虐な戦闘を行ってトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を征服した。
そして1910年にケープ・トランスヴァール・オレンジ・ナタールの4州からなる南アフリカ連邦を組織してイギリス帝国内の自治領とした。
こうしてアフリカの北と南を押さえたイギリスは、エジプトのカイロと南アフリカのケープタウンを結ぶ縦断鉄道を計画し、スーダンを南下してフランスと衝突し、1898年にファショダ事件を起こした。このエジプトと南アフリカを結ぼうとするイギリスのアフリカでの帝国主義政策を縦断政策(アフリカ縦断政策)と呼んでいる。
さらにイギリスは、アフリカの縦断政策とインドを結びつけ、インドのカルカッタ(Calcutta)・エジプトのカイロ(Cairo)・南アフリカのケープタウン(Capetown)を結ぶ三角地帯を勢力下に収めようとした。このイギリスの帝国主義政策は3つの都市の頭文字をとって3C政策と呼ばれている。