ドイツの文化哲学者シュペングラー(1880〜1936)は、主著『西洋の没落』(第1巻は1918年、第2巻は1922年刊)で、ヨーロッパの没落を予言して人々に大きな衝撃を与えた。
第一次世界大戦後、アメリカとソ連の台頭によって、ヨーロッパの地位が相対的に低下する中で、1920年代にはヨーロッパの統一・統合を目ざす主張が現われた。しかし、第二次世界大戦後、ヨーロッパが米ソ二大超大国によって東西に分断されると、統合の動きは東西両陣営内で個別に進展することとなり、アメリカの反共軍事同盟に組み込まれた西ヨーロッパ諸国は、米ソに対抗する経済圏の樹立を目ざした。
1950年5月、フランス外相シューマン(1886〜1963、任1950〜51)は、ドイツとフランス両国の石炭・鉄鋼を共同管理する案(シューマン=プラン)を提唱した。
このシューマン=プランに、ベルギー・オランダ・ルクセンブルク・イタリアの4カ国が加わり、6カ国がヨーロッパ石炭鉄鋼共同体条約に調印し(1951.4)、1952年7月にヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)が発足した。
ECSCは、6カ国の石炭・鉄鋼の完全な統合と共同管理を行い、石炭・鉄鋼を自由に流通させる国境を越えた共同市場の創設を目的とした。
ECSCに加入した6カ国は、1957年3月にローマ条約に調印し、ヨーロッパ経済共同体(EEC)とヨーロッパ原子力共同体(EURATOM、ユーラトム)を結成し、EECとEURATOMは1958年1月に発足した。
EECは、域内関税や貿易制限の撤廃、域外に対する共通関税の設定、共通の通商・農業政策の適用などによって、人(労働力)・もの(製品とサービス)・金(資本)の移動の自由化による単一市場の形成を目ざした。
またEURATOMは、原子力資源の統合・管理を行うための協力機関で、原子力の平和利用・原子力発電の共同開発を目標とした。
EECは、発足以来、各国の差が激しい農業面では困難に直面したが、工業面ではドイツ・フランス・イタリアを中心にめざましい経済成長を達成した。例えば、世界貿易に占めるシェアは、1958年にEEC22.2・アメリカ14.0・日本2.9(世界全体を100とする)であったのが、1968年にはEEC26.8・アメリカ15.2・日本5.5となり、1973年にはEC39.2・アメリカ13.5・日本6.9となった。
EECのめざましい発展によって、西ヨーロッパの経済復興が進み、ヨーロッパ諸国はアメリカの支配を脱し、東ヨーロッパ諸国を圧倒するようになった。
EECに参加しなかったイギリスは、これに対抗してEEC域外諸国とヨーロッパ自由貿易連合(EFTA、エフタ)を結成した。
EFTAには、イギリス・スウェーデン・ノルウェー・デンマーク・オーストリア・スイス・ポルトガルの7カ国が参加した。1959年11月にヨーロッパ自由貿易連合条約が調印され、翌1960年にEFTAが発足した。
1967年6月、ブリュッセルでのEEC理事会で、EEC・ECSC・EURATOMの統合が決議され、同年7月にヨーロッパ共同体(EC)が発足した。
ECは、経済的な統合を一層進めるとともに、共通の意思決定機関としてEC委員会を設けるなど政治面での統合を目ざし、1993年にはヨーロッパ連合(EU)に発展し、ヨーロッパの統合はさらに進んだ。
この間、フランスでは、アルジェリアの独立闘争が激化する中で、ド=ゴールが12年ぶりに政権に復帰し、1958年6月にド=ゴール内閣が成立した。
ド=ゴールは、1958年10月に大統領の権限を大幅に強化した第五共和国憲法を制定し、大統領に就任した(任1959.1〜1969.4)。
ド=ゴールは、1962年にエヴィアン協定を結び、同年アルジェリアの独立を認めた。7年にわたるアルジェリア戦争を終結させたド=ゴールは、1965年の大統領選挙でもミッテラン(社会党)を破って再選され、10年間にわたって政権を担当した。
ド=ゴールは、外交面では「フランスの栄光」を追い求め、米英ソの支配に対抗する独自の外交を展開した。
1960年2月にサハラでの原爆実験に成功し、第4番目の核保有国となったフランスは、部分的核実験停止条約(1963.8)を大国による核の独占であるとし、これに参加しなかった。
また、イギリスがEECへの加盟を表明すると、ド=ゴールは1963年1月にイギリスのEEC加盟を拒否することを表明した。
さらに、1964年1月には、アメリカの再三の抗議にもかかわらず中華人民共和国を承認し、1966年7月にはNATO軍事機構から脱退するなど、アメリカ・イギリスの支配に反発する独自の外交を展開した。
しかし、1968年5月には、パリの学生・労働者を中心とする大規模な反ド=ゴール体制運動が起こり(五月危機、五月革命)、ド=ゴール退陣の遠因となった。
五月危機は、大学紛争から、900万人の労働者が参加した全国的なゼネストへと発展し、政治危機が強まる中で、国民議会は解散に追い込まれた。
ド=ゴールは、五月危機を共産主義の脅威を強調するなどの巧妙な宣伝によって収拾し、6月末の総選挙ではド=ゴール派が大勝した。
しかし、ド=ゴールは、翌1969年4月に行われた上院と地方制度の改革を求める国民投票で敗れて辞任し、5月に行われた大統領選挙ではポンピドゥー(1911〜74、任1969〜74、ド=ゴール大統領のもとで1962〜68年に首相を務めた)が当選し、大統領に就任した。
ドイツ連邦共和国(西ドイツ)は、アデナウアー首相(任1949〜63)のもとで、パリ協定(1954.10)によって主権回復・再軍備・NATO加盟が認められ、西ヨーロッパ社会へ復帰した。その一方で、アデナウアーは、1955年9月にソ連を訪問し、ソ連との国交を回復した。
また、アデナウアーは、EECへの加入や独占資本の復活などを実現し、「奇跡の復興」と呼ばれる急速な経済復興を成し遂げたが、その反共親米政策によって東ドイツとの対立を深め、ドイツの統一を困難にした。
1963年10月にアデナウアーは辞任し、エアハルト(1897〜1977、任1963〜66)が後継首相となった。エアハルトは、アデナウアー内閣で長期にわたって経済相(1949〜63)を務め、「奇跡の復興」の立役者となったが、党内で指導力を失って辞任した。
そして、キージンガー(1904〜88、任1966〜69)が、1966年12月に、キリスト教民主同盟・キリスト教社会同盟・社会民主党の3党による大連立内閣を組織した。
この内閣は、対外的には反共性を弱めたが、国内では学生運動を中心に戦後体制の改革を求める議会外反対派が現われて安定を欠き、キージンガーは1969年に退陣した。
1969年9月に行われた総選挙では、第2党となった社会民主党(1933年にナチスによって解散させられ、1945年に再建された)が第3党の自由民主党と連立し、社会民主党のブラント(1913〜92、任1969〜74)が首相に就任した。
ブラント政権は、西ドイツの成立以来20年間にわたって政権を担当してきたキリスト教民主同盟にかわる初めての社会民主党政権で、東方外交(東独・ポーランド・ソ連との和解協調外交の総称)を展開した。
イギリスでは、1957年1月にイーデン首相(任1955〜57)がスエズ戦争(第2次中東戦争)の責任をとって辞任し、保守党のマクミラン(1894〜1986、任1957〜63)が首相となった。
マクミランは、アメリカとの協力関係を維持しながらも、冷戦の緩和に尽力し、1952年2月にはソ連を訪問した。
イギリスは、EEC(1958年発足)に参加せず、これに対抗して1959年にEFTAを結成したが、EECの発展に比べてEFTAの劣勢が明らかになったので、1961年には一転してEECへの加盟を打ち出した。しかし、EECへの加盟交渉はド=ゴールの反対にあって失敗に終わった(1963)。
マクミラン内閣は、EEC加盟交渉の失敗や経済成長の停滞、さらに陸相のスキャンダルなどによって国民の人気を失い、マクミランは1963年10月に辞任した。
その後、保守党のヒューム内閣(1963.10〜64.10)が成立したが短命に終わり、1964年10月の総選挙では労働党(317議席)が保守党(304議席)に勝ち、アトリー労働党内閣(1945〜51)以来13年ぶりに、ウィルソン労働党内閣(第1次、1964〜70)が成立した。
ウィルソン(1916〜、任1964〜70)は、イギリス経済の立て直しに取り組み、1966年3月の総選挙では圧勝し(労働党363議席、保守党253議席)、鉄鋼再国有化(1967)などを実施した。
しかし、1967年5月にEEC(1967.7にはECに発展)加盟申請を決定したが、この時もド=ゴールの反対にあって加盟交渉は難航した。そして同年11月にはポンドの切り下げ(対ドル14.3%の切り下げ)に追い込まれた。
ウィルソンは、翌1968年には、国防費削減のためにスエズ以東からの撤兵(大英植民地帝国の終焉)を発表するなど経済危機の克服に務めた。
しかし、ウィルソン労働党政権は経済危機を克服できず、国民の支持を失い、1970年の総選挙では保守党が勝利をおさめ、ヒース保守党内閣(1970〜74)が成立した。