3 第三世界の自立と東西ブロック内の動揺

6 中ソ対立と文化大革命

 1956年にフルシチョフが「スターリン批判」を行い、平和共存政策・社会主義への平和的移行を唱えて対米接近政策をとると、中国は帝国主義との対決を主張してこれに反発した。このことが発端となり、中ソ対立(中ソ論争)が始まった。

 1958年、中国は工業生産でイギリスを15年以内に追い越すことを目標とする第2次五カ年計画(1958〜62)を開始し、工業・農業生産の飛躍的増大を目ざした。

 この工業・農業の急速な発展を目ざす政策は、「大躍進」と呼ばれたが、その中心となったのが人民公社の設立であった。

 人民公社は、中国における農業集団化の形態で、郷(村)を基礎とし、既存の農業生産合作社(協同組合)を中心に、その他の組織を合体して設立された。

 人民公社では、土地や農具は共有とされ、公社の成員は共同で働き、公共食堂で食事をした。人民公社は農業を基礎としながら、農業生産と関係の深い農業機械・肥料・農産物加工などの工場を経営し、また学校を設立して成員の教育を行い、民兵の訓練も行った。

 このように人民公社は、農業・工業・商業・文化・教育・軍事・公安など公共事業全般を総合的に運営・管理する組織であり、中国における共産主義社会建設の基礎とされた。

 人民公社化は急速に進み、1958年末までには、それまでの74万余の農業生産合作社が2万6千余の人民公社となり、全農家の99%が人民公社に加入した。

 第2次五カ年計画は、当初順調に進み、1958年には前年に比べて工業生産は66%、農業生産も48%と飛躍的な発展をとげた。翌1959年も工業生産は39%増加し、農業生産も増加した。

 しかし、中国の現実を無視した大躍進の諸政策、特に重工業優先政策と急速な人民公社化による農民の生産意欲の減退、さらに1959〜61年にかけての3年続きの未曾有の自然災害(華北・華中の干害、華中・華南・東北地方の水害)などが重なり、中国は1959年以後、深刻な食糧難と生活物資の不足に陥った。そのため1958〜61年にかけて1500万人以上の餓死者が出たと言われている。

 こうした深刻な状況下にあった中国経済にさらに大打撃を与えたのが、1960年のソ連技術者の引き上げであった。中ソ対立が深まる中で、ソ連は1960年7月に突如中国に派遣中のソ連人技術者・専門家1390人の引き上げを一方的に通告し、また大型プロジェクトに対する援助を打ち切った。

 この間、1959年4月には、劉少奇(1898〜1969、任1959〜68)が毛沢東にかわって国家主席に就任した。

 この頃、1959年3月には、チベット自治区で反中国運動が起こった(チベット反乱)。
 1950年10月、中共の人民解放軍がチベットに進駐し、翌1951年5月に中国=チベット協定が結ばれた。この協定では、中国はチベットの宗教・風俗を保護し、改革を強制しないこと、ラサへの人民解放軍の駐屯などが約された。そして1956年4月にはこの協定に基づいてチベット自治準備委員会が設置された。

 しかし、中国の社会主義がチベットに波及することを恐れたチベット仏教(ラマ教)の僧侶・寺院は、1959年3月にダライ=ラマ(第14世、1935〜)を擁して反乱を起こし、ラサの人民解放軍を攻撃した(チベット反乱)。

 チベット反乱は、人民解放軍によって鎮圧され、同年4月、ダライ=ラマはインドに亡命した。このため、中国とインドの関係が悪化し、中印国境紛争(1959.9〜62.11)が起こった。中印国境紛争は、1962年10月の大規模な戦闘に圧勝した中国が、11月に一方的に停戦して終わった。

 中国は、チベット反乱を鎮圧した後、チベットで土地改革・農奴解放などの改革を推し進め、チベットは1965年9月に自治区となった。

 フルシチョフのスターリン批判をきっかけに始まった中ソ対立は、ソ連が中印国境紛争に際してインドを支持し、インドに武器援助を行ったこと、またソ連が中国の大躍進政策を批判したことなどによって一層強まった。

 1960年4月、中国がソ連の政策転換を修正主義として非難する論文を発表すると、ソ連はこれに反発し、同年7月に派遣中のソ連人技術者・専門家1390人を引き上げ、経済援助を停止したので、中ソ関係はますます悪化した。

 その後、キューバ危機(1962)でフルシチョフが譲歩して危機を回避すると、中国はソ連の譲歩をアメリカ帝国主義への屈服と非難し、中ソ対立は1963年以降公開論争に発展した。

 中ソ対立(中ソ論争)は、1966年に文化大革命が始まるとますます悪化し、1969年3月には中ソ国境のウスリー江上の珍宝島(ダマンスキー島)で、そして8月には新疆ウイグル地区で軍事衝突が起こるに至った。中ソ対立は、その後、1980年頃からやや緩和し、1989年のゴルバチョフ訪中によって終わった。

 中ソ対立によって国際的に孤立した中国は、周恩来首相のアフリカ諸国歴訪(1963.12〜64.2)を通してアフリカ諸国と友好関係を築き、1964年1月には米ソに対抗して独自の外交路線をとるフランスと外交関係を樹立した(フランスの中国承認)。また1964年10月には原爆実験に成功し、5番目の核兵器保有国となった。

 「大躍進」運動の失敗によって、深刻な経済危機に陥った中国は、1960年以降、「大躍進」運動を見直し、重工業優先政策を改めて、農業と軽工業生産の回復をはかることを主な内容とする経済の「調整」政策への転換をはかった。

 「調整」政策では、農産物買い上げ価格の引き上げや農家の生産請負制が実施され、また規定供出量以外の食料を自由市場で販売することが認められたので農民の生産意欲が高まり、農業生産は急速に回復に向かった。

 経済の回復にともない、経済の立て直しを主張する劉少奇やケ小平(1904〜97)らの影響力が強まると、共産党内では、政治・思想を重視する毛沢東と林彪(りんぴょう、1908〜71、中国の軍人、長征・抗日戦・朝鮮戦争などで活躍)らの左派と、経済を重視する劉少奇やケ小平らの反毛沢東派(実権派)との対立が激化した。

 こうした状況の中で、1966年に文化大革命(プロレタリア文化大革命、1966〜76)が始まった。文化大革命は、毛沢東と実権派との政治(権力)闘争であったが、最初は1960年代前半の文芸や思想の領域での文芸論争・文化人への批判から始まった。

 1966年8月8日、中共第八期十一全会(第11回中央委員会総会)で「プロレタリア文化大革命についての決定」が発表され、資本主義の道を歩む実権派を打倒すること、四旧(旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣)を打破すること、そのためにパリ=コミューン型の大衆組織を創出することなどが打ち出された。

 8月18日、天安門広場は紅衛兵らによって埋め尽くされ、毛沢東・林彪は壇上から歓呼に応えた。
 紅衛兵は、1966年5月頃に清華大学付属中学校(日本の高校に相当)の学生によって初めて組織され、以後各地の大学・高校・中学の学生を中心につくられた政治運動組織である。彼らは、四旧の打破をスローガンに掲げ、学園内闘争から実権派を批判する政治闘争を行い、各地で特権幹部を攻撃し、古いものを徹底的に破壊した。

 毛沢東らは、「造反有理(反抗には理由がある)として、初めは紅衛兵の行動を擁護し、実権派の打倒に利用したが、後には過激な紅衛兵を批判し、弾圧した。

 毛沢東は、中国の現状は社会主義のあるべき姿から逸脱している、それは劉少奇・ケ小平らの党内の資本主義の道を歩む実権派が党や国家を支配し、真の社会主義の実現を望んでいる革命大衆を抑圧しているからだと主張し、実権派の打倒をはかった。

 1966年8月以後、劉少奇・ケ小平ら実権派(走資派、党内の資本主義復活をはかる者の総称)に対する批判・攻撃が激しさを増した。

 特に劉少奇は、「資本主義の道を歩む最大の実権派」として徹底的に批判され、1968年10月には国家および党のすべての職務を奪われ、党からも永久除名された。そして翌年11月に開封の監獄で獄死した。

 ケ小平も、「もう一人の党内最大の実権派」と批判され、党からの除名はまぬがれたが、労働改造のために農村へ追いやられた。また、彭真北京市長をはじめ多くの劉・ケ派の党の幹部が逮捕・監禁され、さらに多くの知識人・官僚が追放・投獄された。

 こうして毛沢東らは、実権派からの権力の奪回に成功し、林彪は、1969年4月に開かれた中共第9回全国大会で、毛沢東の後継者に指名された。

 林彪は、その後毛沢東と対立するようになり、1971年9月に毛沢東の暗殺を謀って失敗し、ソ連へ逃亡をはかる途中、モンゴル領内で墜落死した。しかし、林彪事件についての詳細な真相はなお不明である。

 文化大革命は、毛沢東の死(1976.9)、「四人組」の逮捕(1976.10)によって終わり、翌1977年8月に華国鋒首相は文化大革命の終了を宣言した。

 しかし、10年にわたる文化大革命によって、中国国内の政治・経済・社会は大混乱に陥り、特に経済の発展は数10年遅れたと言われている。

 この間、1972年2月のニクソン訪中を機に米中関係は改善に向かい、また同年9月の田中首相の訪中によって日中国交正常化が実現した。    




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