3 第三世界の自立と東西ブロック内の動揺

5 「雪どけ」と東欧諸国の危機(その2)

 ハンガリーでも、1956年10月23日に、首都ブダペストで、学生・労働者による反政府反ソ暴動が起こった(ハンガリー反ソ暴動、ハンガリー暴動、ハンガリー動乱)。

 この日、ナジ=イムレの首相復帰・言論と集会の自由などを要求する学生・労働者のデモは反ソ暴動に発展し、各地に波及した。スターリン派のゲレ第一書記は、非スターリン派のナジ=イムレを首相に復帰させるとともに、デモを鎮圧するためにソ連軍の出動を求めた。

 翌24日、ナジ=イムレ(1895〜1958、任1953〜55、56)が首相に就任したが、ソ連軍が出動し、市街戦が展開され、多くの死傷者が出た。

 ナジは事態の収拾に努め、自由化を約束し、ソ連軍と交渉してソ連軍をブダペスト郊外に撤退させた。さらに自由化を求める急進派の声に押されて、ソ連軍の即時撤退を要求してソ連と交渉したが、交渉は決裂した。交渉が決裂すると、ナジは11月1日にワルシャワ条約機構からの脱退と中立を宣言した。

 これを見たソ連軍は再び介入にふみきった。11月1日、ソ連軍は戦車を引き返してブダペストに向かい、11月4日、ブダペストに対する総攻撃を開始した。

 同日、ナジ政権の閣僚全員が逮捕され、カダル(1912〜89、任1956〜88)を首相とする新政権が成立した。ブダペスト市民はソ連軍に激しく抵抗し、市街戦を展開したが、多くの死傷者を出して鎮圧された。そしてナジは、1958年に処刑された。

 ハンガリー反ソ暴動は、共産圏からの離脱は絶対に許さない、離脱しようとするものに対しては武力による厳しい制裁も辞さないというソ連の大国主義が、スターリン批判後も変わらないことを示した出来事で、世界中に大きな衝撃を与えた。

 東ドイツ(ドイツ民主共和国)では、建国後、社会主義統一党(統一社会党)のピーク(1876〜1960、任1949〜60)が初代大統領に、そしてグローテヴォール(1894〜1964、任1949〜60)が初代首相に就任したが、ピークの死後(1960)大統領制が廃止された。

 そして大統領にかわる国家評議会議長(国家元首)にはウルブリヒト(1893〜1973、任1960〜71)が、副議長にはグローテヴォールが選出された。東ドイツの体制とその政策は、スターリン批判による自由化の動きにも変化を見せなかった。

 この間、1958年11月に、ソ連は西ベルリンの非武装自由都市化を提案したが、米英仏はこれを拒否した。1961年6月にウィーンで開かれたケネディ=フルシチョフ会談で、フルシチョフは再び西ベルリンの自由都市化案を主張したが、ケネディはこれを拒否し、ベルリン問題は暗礁に乗り上げた。

 その頃、東ドイツでは農業の集団化が進められていたが、1959〜60年には急テンポで進められた。それとともに、生活水準の低い東ドイツから、経済生活が豊かで、自由を享受している西ドイツに向かっての難民流出が急増した。ドイツ分裂以後の10年間に、西ドイツへ亡命した東ドイツ国民の数は250万人以上の多数にのぼると言われている。

 東ドイツ政府は、西ドイツへの亡命によって労働力が不足し、経済が停滞することを恐れ、これ以上の亡命・逃亡を防ぐために、1961年8月13日に、東西ベルリンの境界に壁を構築し始め、国民の西ベルリンへの立ち入りを禁止した。以後、西ベルリン全体を取り囲むように半永久的な堅固なコンクリートの壁が作りあげられた。これが有名な「ベルリンの壁」である。

 ベルリンの壁は、1989年11月9日に開放されるまで続いた。ベルリンの壁構築後も、東から西へ逃亡を企てる者は跡を絶たず、壁を越えて西ベルリンへ逃亡した者も約5000人にのぼると言われている、しかし、その一方で約80人が逃亡に失敗して命を落としている。

 ソ連では、党第一書記に就任したフルシチョフが、食料生産の増強を目ざして農業改革を唱え、カザフスタン・中央アジア・シベリアの未開地や休閑地の開拓に取り組むとともに、農産物強制供出制度を廃止した(1957)。

 1958年3月、党第一書記と首相を兼任したフルシチョフは、それまでの第6次5カ年計画(1956〜60)を7カ年計画(1959〜65)に切り替え、アメリカに追いつき追い越せを目標に、生活必需品だけでなく、テレビや冷蔵庫などの生産にも力を入れた。

 この間、ソ連は、1957年に大陸間弾道ミサイルの開発や人工衛星スプートニク1・2号の打ち上げに成功した(1957.10〜11)。

 フルシチョフは、対外的には平和共存外交を進め、米ソ関係の改善をはかった。そして1959年9月、ソ連の最高指導者としては初めてアメリカを訪問し、アイゼンハウアーとキャンプ=デーヴィッド(メリーランド州にあるアメリカ大統領専用の山荘)で会談を行った(キャンプ=デーヴィッド会談)。

 この会談は、ベルリン問題では対立したが、「国際紛争は平和的解決をはかる」というキャンプ=デーヴィッド精神をうたいあげ、1960年5月に首脳会談をパリで開催することが約束された。

 しかし、1960年5月、パリ首脳会談を目前にして、U2型機事件が起こった。
 1960年5月1日、トルコ基地を飛び立ったアメリカ軍のスパイ偵察機(U2型機)がソ連上空で撃墜され、操縦士が捕らえられた。アメリカは当初ソ連上空でのスパイ偵察を否定したが、証拠の公表でその事実を認めた。

 フルシチョフは激怒し、1960年5月16日、パリで首脳会談が開かれると、アメリカのスパイ飛行を激しく非難し、翌日パリ首脳会談は流会となった。

 翌1961年6月にウィーンで行われたフルシチョフとケネディによる米ソ首脳会談では、ベルリン問題をめぐって対立し、同年8月、「ベルリンの壁」の構築が始まった。

 さらに1962年10月にはキューバ危機が起こり、米ソは全面核戦争の危機に直面した。
 キューバ危機はソ連の譲歩によって回避されたが、米ソ両首脳は「核戦争を絶対に起こしてはならない、そのためには米ソが協調しなければならない」ことを認識し、1963年6月に直通通信(ホットライン)協定(ホワイトハウスとクレムリンをホットラインで結び、米ソ両首脳が突発的な緊急事態が発生したときには、直ちに協議が行えるようにした)に調印し、同年8月には部分的核実験停止条約にも調印した。

 以後、「K・K時代」(KennedyとKhrushchovの頭文字)と呼ばれる米ソ間の協調が進み、平和共存路線が定着した。

 しかし、1963年11月にはケネディが暗殺され、1964年10月にはフルシチョフが解任されたので、K・K時代は長くは続かなかった。




目次へ戻る
次へ