3 第三世界の自立と東西ブロック内の動揺

5 「雪どけ」と東欧諸国の危機(その1)

 1953年3月5日、1920年代後半から独裁的権力を握ってきたスターリンが病死した。独裁者スターリンの死は内外に大きな衝撃を与えた。

 スターリンの死後、ソ連では個人の独裁を排除するために、重要問題の決定を指導者の合議によって行う集団指導体制がとられ、首相にマレンコフ(1902〜88、任1953〜55)が、そして党第一書記にはフルシチョフが選出された。しかし、マレンコフは経済政策の失敗によってわずか2年で辞任し、ブルガーニン(1895〜1975、任1955〜58)が後任の首相に就任した(1955.2)。

 スターリンの死後、ソ連は従来の外交政策を見直し、ユーゴスラヴィアと国交を正常化し(1955.6)、西ドイツとも国交を樹立した(1955.9)。また1956年4月には、スターリン批判や緊張緩和(雪どけ)の流れの中で、コミンフォルム(共産党情報局、冷戦の最中の1947年9月に結成された各国共産党の情報交換機関)が解散された。

 1953年1月、アメリカでは、トルーマン(任1945〜53)に替わってアイゼンハウアー(任1953〜61)が大統領に就任した。
 アイゼンハウアーは、当初、対共産圏強硬路線をとったが、スターリンの死後、緊張緩和の気運が高まる中で、朝鮮戦争の休戦を実現し(1953)、インドシナ戦争解決のためのジュネーヴ会議(1954)やジュネーヴ4巨頭会談にも参加した。

 1955年7月、アメリカ大統領アイゼンハウアー・イギリス首相イーデン・フランス首相フォール・ソ連首相ブルガーニンが参加して開催されたジュネーヴ4巨頭会談は、ポツダム会談(1945)以来の首脳会談であり、米ソ両国首脳が第二次世界大戦後、初めて直接話し合いを行った会談であった。

 会談では、ドイツの再統一・ヨーロッパの安全保障と軍縮・東西関係の改善などが討議されたが、具体的な結論は出なかった。しかし、米ソ両首脳が直接話し合ったことは、国際紛争の話し合いによる解決の気運を高めた。

 この話し合いによる国際紛争解決の精神は、「ジュネーヴ精神」と呼ばれ、同年4月に開かれたアジア=アフリカ会議における「バンドン精神」とともに、いわゆる「雪どけ」(ジュネーヴ4巨頭会談以後の国際間の緊張緩和を表す言葉、スターリン死後の解放感を描いたソ連の作家エレンブルクの小説名にちなむ)を示す言葉となった。

 1956年2月に開かれたソ連共産党第20回大会で、フルシチョフ党第一書記は、戦争は不可避でないこと、社会主義国と資本主義国とが互いに平和に共存することは可能であること(平和共存政策)、そして平和的手段による社会主義への移行は可能であること主張し、また秘密報告で「スターリン批判」を行い、大粛清(スターリンが1930年代後半に反対派の人々を大量に処刑・流刑に処したこと)におけるスターリンの暴虐さを暴露し、スターリンの独裁と個人崇拝を厳しく批判するとともに、スターリンの政策(特に晩年の政策)を批判した。

 このスターリン批判は、それまでスターリンを神格化し、崇拝していた全世界の共産主義者に大きな衝撃を与えた。

 フルシチョフ(1894〜1971、首相・任1958〜64)は、ウクライナの炭鉱夫の子に生まれた。1918年にボリシェヴィキに入党し、炭鉱で働きながら学び、モスクワ市・モスクワ州の党第一書記になった(1931〜38)。ついでウクライナ共和国の党第一書記・首相を務め(1938〜49)、1949年には党中央委員会書記となり、1953年にスターリンの死後党第一書記となった。そして1956年にはソ連共産党第20回大会でスターリン批判を行い、1958年には党第一書記と首相を兼任し、ソ連の最高権力者となった。

 フルシチョフが打ち出した非スターリン化・平和共存・社会主義への平和的移行などの新しい路線は、ソ連国内はもちろん、東欧諸国にも大きな影響を及ぼした。

 それまでソ連型の体制をとってきた東欧諸国では、スターリン時代からソ連に追随してきた指導者への不満が高まり、自立への動きが強まった。

 ポーランドでは、1956年6月28日に、西部の工業都市ポズナニで、労働者・学生による生活条件の改善や民主化を要求するデモ・暴動が起こった(ポーランド反政府反ソ暴動、ポーランド反ソ暴動、ポズナニ暴動)。

 ポーランド反ソ暴動は、ポズナニの労働者が待遇改善を求めてストに入り、デモを行ったことが発端となった。このデモ隊に治安部隊が発砲したことからデモは暴動と化し、警察・放送局・共産党本部などを襲撃した。ソ連軍の介入を恐れるポーランド政府が、自らこれを短期間に鎮圧したので、数100人の死傷者を出したが、ソ連の直接介入は回避された。

 ポーランド反ソ暴動をきっかけに、党内では民主化を要求する勢力が台頭し、同年8月には、ゴムウカ(ゴムルカ)が復帰(復党)し、多くの政治犯が釈放された。

 ゴムウカ(ゴムルカ、1905〜82)は、第二次世界大戦前からポーランドの共産主義運動に従事し、大戦中はナチス=ドイツに対する非合法抵抗運動を指導した。1943年にポーランド労働党の総書記となり、解放後も要職についたが、1948年に右翼民族主義的偏向と批判され、翌年党を除名された。1951年には逮捕・投獄された(1951〜54)。

 1956年10月、ゴムウカはポーランド統一労働者党第一書記に選出され(任1956〜70)、ワルシャワ条約機構体制を堅持しながら、ポーランドの自主路線・自由化路線を約束して事態を収拾した。

 ゴムウカは、東欧の非スターリン化では先駆的な役割をはたしたが、次第に自由化運動を弾圧するようになり、1970年に労働運動が激化する中で失脚した。




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