1945年7月16日、アメリカはネバダで最初の原子核爆発実験に成功した。そして同年8月6日広島に、8月9日長崎に原子爆弾を投下し、両市をほぼ壊滅させるとともに膨大な人命を殺傷した(即死者および5カ年間の死亡者は、広島で約24万人以上、長崎で約14万人以上に達した)。
その後しばらくの間、アメリカによる原爆の独占が続いたが、1949年9月にアメリカのトルーマン大統領がソ連の原爆実験の事実を公表し、翌日ソ連は原爆の保有を公表した。
米ソ両国に続いて、1952年10月にはイギリスが原爆の実験に成功して第3番目の核保有国となり、フランス(1960.2)・中国(1964.10)も原爆実験に成功して核保有国となった。
アメリカは、ソ連が原爆実験に成功すると水爆製造に着手し、1952年11月に水爆実験に成功した。ソ連も翌1953年8月に水爆保有を声明し、イギリス(1957.5)・中国(1967)も水爆実験に成功した。
大国による核兵器の開発が進む中で、1949年に世界平和擁護大会がストックホルムで開かれ、翌1950年3月にストックホルム=アピールを出し、核兵器の製造ならびに使用の無条件禁止を訴え、署名活動を呼びかけて5億人の署名を得た。
1954年3月1日、マーシャル諸島のビキニ環礁で操業中のマグロ延縄船第5福竜丸が、アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験による「死の灰」をあび、乗組員の久保山愛吉が放射線障害で死亡した。この第5福竜丸事件は世界に衝撃を与え、国際的な原水爆禁止運動が高まるきっかけとなった。そして翌1955年8月6日、第1回原水爆禁止世界大会が広島で開かれた。
1957年4月、西ドイツの原子科学者18名が、西ドイツの核武装計画に反対し、核実験反対・核兵器の開発反対・核兵器研究への参加拒絶を宣言した(ゲッティンゲン宣言)。
また同年7月、パグウォッシュ会議(正式名称は「科学と世界問題に関する会議」)がカナダで開かれた。
パグウォッシュ会議は、1955年のラッセル=アインシュタイン宣言(核戦争の危険性を米・ソ・英・仏・中・カナダの各国に警告し、科学者の平和に対する責任を明らかにした宣言)に基づいて開かれ、東西の科学者22名(日本からは湯川秀樹)が核実験・核戦争の危険性などを科学者の立場から討議した。この会議は、以後世界各地で開かれ、科学者の国際平和運動として定着している。
1962年10月のキューバ危機はフルシチョフの譲歩によって回避されたが、キューバ危機は、一つ間違えば、米ソのみならず全人類を破滅させる危険性をはらんだ出来事であった。そのためキューバ危機を境として、米ソ両国は従来の対決姿勢から平和共存・米ソ協調へと政策を転換させたので、米ソ関係は著しく進展した。
その一つの現れが、1963年8月、米英ソ3国外相によってモスクワで調印された部分的核実験停止条約(正式名称は「大気圏内・宇宙空間および水中における核兵器実験を禁止する条約」)である。
この条約は、正式名称が示すとおり、大気圏内・宇宙空間および水中での核実験を禁止するもので、核実験を全面的に禁止するものではなく、地下実験が除かれたので、米ソは以後もしきりに地下実験を行い、核兵器の性能向上に努めた。
また部分的核実験停止条約には、1963年末までに104カ国が調印したが、「フランスの栄光」を唱えて米英ソに対抗したド=ゴールのフランスと、この条約を核兵器の全面禁止をごまかすペテンであると非難した中国がともに不参加を表明するなど問題点を残した。
1968年7月には、核拡散防止条約が米英ソなど56カ国によって調印された。
核拡散防止条約は、核兵器保有国が核兵器非保有国に核兵器を譲渡したり、製造を援助することを禁止し、核兵器保有国の増加を防止することを目的とした。
しかし、この条約にもフランスと中国は参加せず、また核兵器非保有国は核兵器保有国による核の独占であると強く反発するなど多くの問題点があった。
核拡散防止条約は、1995年に無期限延長が決定されたが、1998年に未加盟のインドとパキスタンが核実験を行なうなど困難な問題に直面している。